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Photo bymesopotamia_tk

150個のレンガが語ること――大阪駅前「排除アート」と〈言葉の自動機械〉化する行政

    一日75万人の足元に埋め込まれた「本音」

    JR大阪駅の東側、歩道橋の下にある約60平方メートルの区画に、今年7月、大阪市がレンガ状のブロック約150個を埋め込みました。高さ数センチの突起が等間隔に並ぶ。SNSでは「つまずいて危ない」「ホームレスを追い出す排除アートだ」と批判が噴き出し、関連投稿の閲覧は2600万回に達した。市は当初「すべての人が立ち入らないようにするため」と説明し、のちに「ホームレス対策だけが目的ではない」と述べた。ところが11月、毎日新聞が入手した100枚を超える市の決裁文書には、工事の理由として「ホームレス対策」と明記されていたと報じられたわけです。

    問題は「排除」ではなく「言い逃れ」だ

    まず確認しておきます。僕が問題にしたいのは、行政が路上の滞在を制限したこと自体ではない。放置自転車も不法投棄もあった。管理の理屈はあり得る。問題は、決裁文書に書いた目的を、市民の前では口にできないことです。言えない目的を、レンガという「モノ」に代わりに語らせる。これは〈言葉・法・損得〉の内側に閉ざされた者たちの典型的な振る舞いです。批判されないための言葉、責任を取らないための手続き、コストを最小化する損得勘定。そこには、目の前で寝ている人を「同じ世界を生きる仲間」として見る視線がない。言葉は自動機械のように「だけではない」を吐き出し、誰も主語を引き受けない。

    ギザギザハートの系譜――新宿西口から梅田へ

    これは大阪だけの話ではありません。建築史家の五十嵐太郎によれば、こうした造形物が街に現れ始めたのは1990年代後半。象徴的な起点は、1996年に新宿駅西口の地下通路からホームレスを強制排除した後に置かれたオブジェです。編集者の都築響一はそれを「ギザギザハートの現代美術」と名付けた。五十嵐は、他者への不寛容とセキュリティ意識の高まりで監視カメラが急増した2000年代と、排除アートの増殖が並行していたと指摘します。そして排除アートとは表現ではなく、「〜させない」という否定形の機能をもつデザインだと喝破した。アートの名を借りた否定。それが30年かけて、日本中の都市に沈殿してきたのです。

    要塞都市と「保険統計主義」

    米国の都市研究者マイク・デイヴィスは1990年の『水晶の都市(City of Quartz)』で、ロサンゼルスを「要塞都市」として描きました。横になれない樽型の「浮浪者よけベンチ」は、建築と警察国家が手を結ぶ空間的アパルトヘイトの象徴だった。英国の犯罪学者ジョック・ヤングは『排除型社会』で、後期近代の社会が逸脱者を包摂し矯正するのではなく、リスクとして計算し、遠ざけて管理する「保険統計主義」へ移行したと論じた。大阪のレンガは、まさにこの論理の産物です。そこにいる人の事情は問わない。リスクの発生確率だけを下げる。

    包摂を装う排除

    ルーマンの社会システム理論に依拠すれば、近代社会は建前上「全員を包摂する」原理で成り立ちつつ、実際の作動では組織が排除と選抜を行うことで存続しています。ここにトリックがある。行政は「福祉の窓口は開いている」と形式上の包摂を掲げながら、路上という最後の居場所を物理的に削り取る。窓口に辿り着けない人、辿り着いても繋がれない人は、制度の網からも街の景観からも消えていく。「見えない」ことが「解決した」ことにすり替わるのです。

    「便利で快適な街」は誰のものか

    ここで視点を一段引きましょう。日本の都市はこの30年、「便利で快適で安全」を合言葉に再開発されてきました。梅田はその最前線です。駅ビル、地下街、タワーマンション。消費する人には隅々まで優しい。しかし、消費しない人、消費できない人の居場所は、計画図面の上で最初から想定されていない。英国のある論者は、排除的な設計は「消費できる者だけが市民だ」と告げていると述べましたが、まさにそれです。かつて地域には、町内会や商店街や寺社のような中間集団があり、行き場を失った人を「なんとなく見ている」目があった。その目が消えた後、残ったのは〈システム〉の管理だけです。人が人を見ず、設計が人を選別する。共同体の空洞化を、行政はコンクリートで埋め合わせているのです。

    「排除して何が悪い」の正体

    SNSには「排除して何が悪い」という声も少なくない。その一部は正論を含みます。だが僕が注目するのは、その声に滲む〈不安の埋め合わせ〉です。自分もいつ転落するか分からない。だからこそ転落した者を視界から消し、「自分は違う」と安心したい。これは感情の劣化であり、「明日は我が身」という想像力の喪失です。かつて梅田の高架下に並んでいた段ボールハウスが消えた風景を、僕らは「治安の改善」と呼ぶ。けれど、消えたのは貧困ではなく、貧困を見る僕らの目のほうかもしれない。

    結論――〈仲間〉なき公共空間に未来はない

    市長はパブリックアートやたこ焼きのオブジェを置く案に言及しました。しかし、レンガをオブジェに替えても本質は変わらない。必要なのは、目的を正直に言語化し、排除の代わりに何で包摂するのかを市民と議論することです。たとえば、立ち入りを制限するなら、同時にアウトリーチの支援員を配置し、近隣に一時的な居場所を用意する。排除と包摂をセットで説明できて初めて、行政は「管理」ではなく「統治」をしていると言える。それができないなら、決裁文書に書いた一語を、堂々と市民の前で読み上げるべきです。公共空間とは、異なる人々が互いを「見てしまう」場所である。その「見てしまう」経験を通じてしか、仲間の範囲は広がらない。社会という荒野を仲間と生きる――それを諦めた街の足元に、レンガは静かに突き出しているのです。

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