
32. 黒子――物語の外に置かれた動物たち
大人になった今でも、SDAクリスチャンと接触することに恐ろしさを感じます。その理由の一つが、動物に対する考え方です。
私は幼い頃から動物と接する機会が多く、大人になってからも研究を通じて身近に接しています。動物の誕生から死までを目の当たりにし、命について考える機会も数多くありました。
断っておきますが、私の周囲にいたSDAクリスチャンが動物を虐待していたという話ではありません。日頃は世話をし、病院へ連れて行き、散歩をさせるなど、家族のように接していました。
恐ろしかったのは、突然スイッチが切り替わる瞬間です。
「ノアの箱舟に入れてやった」「動物は人間のために存在する」「猫は人間のためなら死んでも幸せだ」。
おそらく牧師から聞いた話なのでしょう。壊れたラジオのように同じ説明を繰り返し、まるで自分が神になったかのように動物の命を見下ろすSDAクリスチャンの姿が、小学二年生の私にはただただ恐ろしかったのです。普段は動物を大切にしている家族と、宗教の話になると動物の命を見下ろす家族。そのどちらが本当の姿なのか、私には分からなかったからです。
そうした言葉を聞くたびに、一匹の母猫を思い出していました。
その母猫は、自分の子どもと目を合わせることもないまま死んでいきました。
母猫が何を感じていたのか、私には分かりません。それなのに、その母猫を何も知らない人間が「猫は人間のためなら死んでも幸せだ」と言うのです。
何を根拠にそんなことが言えるのでしょうか。私には「傲慢」という言葉しか浮かばず、あの母猫に本当に失礼な人たちだと思っていました。
第31回では、教団の物語の外に置かれた人々を「黒子」と表現しました。動物たちも同じだったのかもしれません。羊飼いに導かれる羊でも、見下される異邦人でもない。人間のために存在すると説明されながら、その生や死は尊重されない存在です。
私自身もその人間社会の一員でした。だからこそ、どうすれば動物たちを守れるのかと考えていました。
怖かったのは、動物を大切にしていた人が、宗教の話になると、その命について考えることをやめてしまうように見えたことです。しかも、本人はその変化に気づいていないようでした。
矛盾を尋ねても、説明の辻褄が合わず、納得できる答えは返ってきません。後になって考えると、牧師から聞いた話を十分に考えずに繰り返していたのかもしれません。
本当に恐ろしかったのは、動物観の違いではありません。
自分の言葉の意味を十分に自覚しないまま、他の命について断定できてしまう人間(SDAクリスチャン)の姿でした。
あの母猫が幸せだったのか、不幸だったのか、私には分かりません。だからこそ、勝手に決めつけたくありません。
少なくとも、あの母猫の命は、人間が自分たちの物語を正当化するための道具ではなかったのです。