
31. 黒子――物語の外の存在しない人間
第30回で、私は、自分や友人たちの記憶や存在が、なかったことにされているように感じていたと書きました。この感覚は、小学生の頃から抱いていたものです。
私が育ったSDA教会では、羊飼いと羊の関係が繰り返し語られ、教会員同士の会話では、教会の外にいる神を知らない人々を「異邦人」と呼んでいました。一部の大人たちは、そうした人々を信仰的に劣った、卑しい存在であるかのように扱っていました。それでも、異邦人は伝道の対象でした。
では、教会に来なくなった人や、三育学院を辞めた教員は、どうなるのでしょうか。
昨日まで名前を呼ばれていた人が、ある日いなくなる。なぜ離れたのか、その後どうしているのか。少なくとも子どもの私には語られず、最初から存在しなかったかのように見えました。もちろん、私の知らないところで交流が続いていた可能性はあります。
私は、そうした人々を「黒子」と呼ぶことにしました。舞台を支える黒子ではありません。確かに名前も人生もあったのに、いつの間にか存在が見えなくなった人です。羊でも羊飼いでもなく、伝道の対象となる異邦人ですらない。
自死によって亡くなった人についても同じでした。その人が語られなくなり、葬儀にさえ教会関係者が姿を見せないことがありました。それぞれ事情があったのでしょう。それでも、生きていた時間まで消されたように感じました。
怖かったのは、大人たちの二面性です。普段は親切で、神の愛や赦しを語るのに、相手が期待された役割から外れると態度が変わる。そして翌週には、何事もなかったように神の愛を語っている。
優しさが偽物だったとは思いません。優しさと、人を存在しないかのように扱う態度が共存していることが怖かったのです。
大人たちは口癖のように言いました。
「教会に行けばわかる」
それは確かにわかりますよ。私が見たのは、羊飼いと羊、一部の大人から卑しい存在のように扱われながらも救いの対象となる異邦人、そして、そのどこにも属さず見えなくなってしまう人々の世界でした。
人は信仰を離れても、学校を辞めても、人間でなくなるわけではありません。亡くなっても、生きていた事実は消えません。
第30回では、次の世代が自分の意思で「8日目」の世界へ踏み出せるように記録を残したいと書きました。その世界へ踏み出した人が、残された人々からどう扱われるのかも、記録しておきたいのです。
黒子は、存在しない人間ではありません。
私は、その人たちが確かにそこにいたことを、なかったことにしたくないのです。