
38. 黒子――「気持ちの悪い大人」はどこから来るのか
なぜ、本人は善意で信仰教育をしているつもりなのに、子どもから見ると、質問すると黙る。異議を唱えると圧力をかける。急に「信じないのか」と言い出す。やたらと洗礼(バプテスマ)を勧める。そんな大人が生まれるのでしょうか。
私は、当時関わった大人たちが、子どもを傷つけようとしていたとは必ずしも考えていません。むしろ、「自分は正しいことをしている」「子どもの信仰を守っている」と考えていた人もいたのだと思います。
だからこそ、「なぜ、そういう大人が生まれたのか」を考えたいのです。
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27. 教会を離れても、夢の中にまで来るのか
教会を離れて長い時間が経ち、仕事を持ち、家庭を築いても、夢の中には、あの世界が現れます。
暗い空間で、私は地獄を背にして立っています。
目の前のイエス・キリストが、私に問いかけます。
「なぜ私を信じないのか?」
すると、その顔を覆っていた仮面が外れ、幼い頃から関わってきたSDA教会のクリスチャンたちが現れます。
夢の中で、彼らは二枚の聖なる舌を持っています。
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この記事を書いた後、1996年の北米SDA教会(North American Division)の公式議事録を確認しました。
1996年、北米SDA教会では、若者の「信仰の成熟」と「教派への忠誠」を育てることを目的として、キリスト教教育にシステムズ・アプローチを取り入れる方針が公式に提案・採択されていました。
そこでは、若者に関わる教会の各レベルの指導者が連携し、切れ目のない育成プロセスを構築し、その運用状況を継続的に確認することも提案されていました。
もちろん、この文書が私自身の経験や夢を直接生み出したと断定することはできません。また、この北米での方針が、そのまま日本のSDA教会や、三育学院を含む教育機関に適用されていたと断定するものでもありません。
ただ、私が長い間感じてきた、「神を信じること」と「特定の教団やその関係者に忠実であること」との境界が曖昧になっていた感覚に、制度上もよく似た構造が存在していたことは、私にとって重い発見でした。
ここで、一つの矛盾が生じます。
ある若者が、信仰について真剣に考えた結果、教団の考え方や行動に疑問を持ったとします。
その人の信仰は、むしろ成熟しているのかもしれません。しかし同時に、教派への忠誠は低く見えるかもしれません。
つまり、「信仰の成熟」と「教派への忠誠」は、必ずしも同じ方向には進みません。
では、その不同意を「信仰が成熟した結果としての判断」と認めるのか。それとも、「教派への忠誠を回復させるべき状態」と捉えるのか。
1996年の文書には、この葛藤をどう処理するのかは書かれていません。
このような矛盾が現場で生じたとき、大人の反応は、少なくとも子どもの頃の私には、次のように見えました。
質問すると黙る。
異議を唱えると圧力をかける。
「なぜ信じないのか」と問い返す。
やたらと洗礼を勧める。
あるいは、こちらの問いとは関係なく、牧師や教会で聞いた言葉を、まるで録音された言葉を再生するように繰り返す。
私は、こういう目をした大人が怖かったのです。
「自分は正しいことをしている。この子の信仰を守っている」
そう信じるあまり、目の前の子どもが何を考え、何を怖がり、何に疑問を持っているのかを見なくなっている。
子どもの頃の私には、そんな大人たちが「気持ちの悪い大人」に見えました。
いま振り返ると、あの大人たちは、どこかから突然現れたのではなかったのかもしれません。
信仰と教団への忠誠が重なり、子どもの疑問や不同意を「その子自身の判断」として受け止めにくくなる構造の中で、生まれていたのかもしれません。
少なくとも、この議事録に記録されている「信仰の成熟」と「教派への忠誠」という方針を考え、提案し、採択したのは、紙ではなく、人間です。