
39. 黒子――「気持ちの悪い牧師」はどこから来るのか
私はSDA教会の家庭に生まれ育ち、三育学院に進みました。高校卒業後は教会の外の社会で生活してきましたが、家族では私以外がSDAのクリスチャンで、身内にはSDAの牧師もいます。
前回の「38. 黒子――『気持ちの悪い大人』はどこから来るのか」では、私が子どもの頃から感じていた「気持ちの悪い大人」について書きました。
家の中、教会、三育学院。そして大人になるにつれて、一般社会の中にまで、その世界がじわじわと近づいてくるように感じることがありました。
共通していたのは、その人たちの「目」でした。
私は、こういう目をした大人が怖かったのです。
「自分は正しいことをしている。この子の信仰を守っている」
そう信じているように見える大人たちでした。
そして、教会で教えられていることと、目の前で実際に起きていることとの間に矛盾を感じて質問すると、少なくとも子どもの頃の私には、大人たちの反応は次のように見えました。
質問すると黙る。
異議を唱えると圧力をかける。
「なぜ信じないのか」と問い返す。
やたらと洗礼を勧める。
あるいは、こちらの問いとは関係なく、牧師や教会で聞いた言葉を、まるで録音された言葉を再生するように繰り返す。
その中でも、私にとって最も印象に残っているのが、牧師との会話でした。
もちろん、すべての牧師がそうだったという意味ではありません。
ただ、何度か私は、
「ああ、この人は、私という人間ではなく、『羊』としての私を見ているんだな」
と感じました。
牧師は「羊飼い」で、信徒は「羊」。
一見すると、とても温かい比喩です。
けれど、私にはときどき、牧師が一線を引いたところから、「羊飼い」として羊を見ているように感じられました。
私が教会の教えや、そこで起きていることの矛盾を示して質問すると、正面から答えるのではなく、うまく距離を取る。
そして、直接自分で対応するのではなく、周囲の信徒たちが動く。
その様子を見ていると、私は奇妙な感覚を覚えました。みごとなバームクーヘンです。
まるで、自分で設計した実験について、研究者が観察対象との距離を保ちながら、そこで何が起きるのかを見ているように感じることがあったのです。
もちろん、私はSDA教会が実際に何らかの「社会実験」を行っていたと主張しているわけではありません。
ただ、当事者と直接向き合わず、一定の距離を保ちながら、人々がどのように動くのかを見ているように感じられるその構図は、私には「実験」のように見えることがありました。
以前、海外に避難するまでになった被害を訴えていた人が、「SDAは実験をやっているように感じる」という趣旨のことを話していました。
当時の私は、その言葉を聞いても、よく分かりませんでした。
でも今になって、少しだけ分かる気がします。
怖かったのは、牧師が怒鳴ることだけではありません。
目の前にいる一人の人間ではなく、「導くべき羊」「正しい信仰へ戻すべき対象」として見られているように感じること。
私にとっては、それが怖かったのです。