
37. 黒子――それでは、よろしくお願いします
SDA教会には、「飼い葉おけから墓場まで」という雰囲気があります。
教会の病院で生まれ、教会の教育機関で育ち、教会の職場で働き、教会員同士で結婚し、最後は教会の墓に入る。
それも一つの生き方であり、信教の自由として尊重されるべきものだと思います。
一方、私が接してきた教会関係者の中には、教会の外の社会や、他のキリスト教宗派を見下すような人々がいました。
不思議なのは、都合の悪い問題が起こると「キリスト教全体の問題だ」と説明する一方、都合のよいときには「私たちは他の宗派とは違う」「最後に残るのはこの教会だ」と強調することです。
そんなことを考えるようになった背景には、父親の葬儀での出来事があります。
父の葬儀は、本人の希望でキリスト教式でした。お世話になっていたSDA教団の牧師も来てくださいました。そのことには、今も感謝しています。
火葬場には、私たちのほかに、もう一組の遺族がいました。
私たちの側は、死後の再会を信じているためか、比較的穏やかな雰囲気でした。一方、もう一組の遺族は、声を上げて泣き崩れていました。
準備が整うと、牧師が火葬場の職員さんに言いました。
「それでは、よろしくお願いします」
ごく普通の挨拶です。
しかし、私は不思議な気持ちになりました。
教会の外の社会や行政を、あれほど上から目線で語る人々がいる。その一方で、人生の最後の場面では、牧師自身が火葬場の職員さんにお願いしているのです。
そして、その職員さんたちは、どちらの宗教が正しいかなど問いません。
穏やかに別れを待つ遺族にも、泣き崩れる遺族にも、同じように敬意を払い、失礼のないように仕事を進めていました。
私は、その姿を見ながら考えていました。
宗教にはそれぞれの教えがあり、自分たちの信仰を大切にする自由があります。
しかし、宗派にかかわらず、人々の尊厳を平等に守っていたのは、あの火葬場の職員さんたちではなかったでしょうか。
「飼い葉おけから墓場まで」。
そうした生き方もよいでしょう。
けれども、その人生を支えているのは、教会の中の人々だけではありません。道路も、医療も、行政も、火葬場も、さまざまな信仰や価値観を持つ人々によって支えられています。
その恩恵を受けながら、外の社会を見下すのであれば、それは自分たちを支えている人々への敬意を欠いているのではないでしょうか。
私は、父親の骨が焼かれるのを待ちながら、そんなことを考えていました。
あの日、私の記憶に残ったのは、どちらの宗教が正しいかではありません。
宗派を問わず、静かに人々の最後の別れを支える職員さんたちの姿でした。
そして、牧師の何気ない一言です。
「それでは、よろしくお願いします」