
『摂氏、三十七度二分』深掘り解説
では、知りたがりの読者の読解力を想定して、「何が起きているのか」「なぜこんな書き方をしているのか」まで一段深く掘り下げます。
まず、この小説の正体をつかもう
この作品は、表面だけ読むと、
「暑い夏の夜、男の子が家族と逃げて、途中で女の子と会い、星を眺める話」
に見えます。
でも、本当はもっと怖い話です。
物語の背景には、戦争と空襲があります。
主人公の「僕」は、爆撃から逃げています。
ところが主人公は、戦争について、
「怖い!」
「死にたくない!」
と大げさには叫びません。
むしろ、もう疲れ切ってしまっています。
ここが、この作品の重要なところです。
① なぜ最初から「空」が出てくるの?
冒頭は、
西の空が、真っ赤に燃えていた。
から始まります。
普通なら、
「夕焼けがきれいだな」
と思うところです。
ところが、この作品では「赤」が何度も登場します。
真っ赤な空
赤いトマト
赤い花
赤い星
赤い空
そして最後にも、
西の空が、真っ赤に燃えている。
と戻ってきます。
つまり「赤」は単なる夕焼けの色ではありません。
火、血、戦争、死、そして花の美しさ
など、いろいろな意味を重ねていると考えられます。
怖いものと美しいものが、同じ「赤」という色でつながっているのです。
② 「僕」は、なぜこんなに皮肉を言うの?
主人公はかなり皮肉屋です。
妹に起こされても、
「ああ、うるさい。まだ夜だろう?」
などと言っています。
家族が空を見ていることについても、
「自分たちだって、空を見るんじゃないか。まるで夢見る乙女だね。」
などと考えます。
普通なら、
「空襲が怖い」
と書いてもいい。
でも主人公は、冗談や皮肉でごまかします。
これは、
怖いからこそ、冗談を言っている
とも考えられます。
人間は、あまりにもつらいことが起きると、真正面から受け止められないことがあります。
だから笑ったり、ふざけたり、どうでもいいことを言ったりする。
主人公の「皮肉」は、単なる性格ではなく、
自分の心を守るための方法
なのかもしれません。
③ 「肺は紙風船、心はしゃぼん玉」ってどういうこと?
これは面白い比喩です。
主人公は、
僕の肺は紙風船よりも、僕の心はしゃぼん玉よりも、いとも簡単に潰れて割れてしまう。
と言っています。
つまり、
自分はとても弱っている
ということです。
紙風船は簡単につぶれます。
しゃぼん玉は、ちょっと触っただけでも割れます。
だから、
「僕の体も心も、もう限界に近い」
という意味になります。
ただし、主人公は、
「僕は限界です」
とは直接言いません。
こういう比喩を使うことで、読者に感じさせています。
④ 「窓の米印」は何?
窓に「米」の字のようなものが貼ってあります。
主人公は、
あの黄ばんだ米印なんかは、もう剥がしてもよかろうな……
と言います。
これは、窓ガラスの飛散防止などのために貼られたテープを連想させます。
戦争中の生活を直接説明しなくても、
「こんなものが家に貼られている」
と書くだけで、
この家は普通の家ではない
とわかるわけです。
しかも主人公は、それを最初は面白がっていました。
ところが今では、
すっかり興醒め
しています。
つまり、
戦争が日常になってしまった
のです。
これがかなり怖い。
⑤ 「蜂」が何度も出てくる理由
この作品では蜂も重要です。
庇の下に蜂が巣を作っている
そして、
働き者の蜂が、窓を叩く。
と出てきます。
普通、蜂は「働き者」の象徴です。
一生懸命働く。
毎日同じことを繰り返す。
ところが主人公は、
起きろ、起きろと窓を叩く。
と蜂を人間のように描いています。
ここには、
戦争の中でも生活を続けなければならない人間
と、
ひたすら働き続ける蜂
の重なりがあるように読めます。
主人公は「働くこと」にも疲れています。
だから「働き者の蜂」という表現が、少し皮肉に感じられます。
⑥ なぜ妹は主人公を起こしたの?
ここから物語が大きく動きます。
妹が、
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
と起こします。
そして外が騒がしい。
つまり、空襲が始まったと考えられます。
主人公は家族の荷物を背負って逃げます。
ここで重要なのは、
主人公が家族を見捨てていない
ということです。
口では、
「うるさい」
「面倒くさい」
などと言っています。
でも実際には、
家族分の荷物を背負って逃げている。
つまり、
口では冷たくても、行動では家族を守っている。
このギャップが主人公の人間らしさです。
⑦ 「ポケットには、芥川とか……」
ここは面白いところです。
主人公はポケットに、
芥川とか、ちょっと言いづらいものをぎちぎちに詰め込んで。
とあります。
ここでいう「芥川」は、作家の芥川龍之介の本などを指している可能性があります。
つまり主人公は、逃げるときにも本を持っている。
食べ物や大切な生活用品だけではなく、
文学を持って逃げている
わけです。
これは主人公が、
「ただ生き延びればいい」
という人間ではないことを示しています。
本や言葉や想像力も、主人公にとって大切なのです。
⑧ 「虎穴」と言う主人公
主人公は、
「虎穴。」
と言います。
これは、
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
ということわざを途中まで言っているのでしょう。
簡単に言えば、
危険なところに入らなければ、大きなものは手に入らない。
という意味です。
でも、ここではそんな立派な意味ではありません。
主人公は、危険な状況なのに、わざと大げさな言葉を使ってふざけています。
これも、
怖さを冗談に変えている
と考えられます。
⑨ そして「彼女」が現れる
物語の雰囲気がここで変わります。
主人公は夜の中で、彼女と出会います。
二人は、
「雷……?」
「さあ。見なかったから、わからない。」
と話します。
何が起きているのか、はっきり説明しません。
でも遠くから轟音が聞こえます。
読者は、
これは本当に雷なのか?
と思います。
実際には空襲の音なのかもしれません。
この「あえて説明しない」という書き方が重要です。
⑩ 「星」が怖いものに変わる
二人は星を眺めます。
ところが主人公は、
星。
あれは、鉄の星だった。
と考えます。
ここが作品の中でも非常に重要な部分です。
普通の星は、空に浮かんでいる美しいものです。
でも戦争の空では、
空から降ってくるもの=爆弾
です。
だから主人公には、それが「鉄の星」に見える。
つまり、
美しい星
↓
戦争の星
↓
死をもたらす鉄
へと変わっています。
美しいものと恐ろしいものが、同じ空に存在しているのです。
⑪ 「清少納言」まで出てくる理由
主人公は、
清少納言も今宵の空には興醒めだろう。
と考えます。
清少納言は『枕草子』を書いた人です。
『枕草子』では、季節や夜、星、自然などの美しさが描かれています。
だから主人公は、
「清少納言なら、この夜空を美しいと思うだろうか?」
と考えているわけです。
でも、この空には「鉄の星」が降っています。
つまり、
文学が描いてきた美しい自然と、戦争によって壊された現実
を比較しているのです。
ここはぜひ覚えておきたいポイントです。
⑫ 「惜しいものはなにもない」は本当?
主人公は、
なんだってよかった。
惜しいものはなにもない。
努めて思い込んだのだ。
と言います。
ここがものすごく重要です。
最後の、
「努めて思い込んだのだ」
がポイント。
本当は、
「惜しいものはない」
と思っていないのです。
むしろ逆。
失いたくないものがあるから、「ない」と自分に言い聞かせている。
家族。
妹。
彼女。
花。
本。
自分の命。
全部、大切なのかもしれません。
だから、
「惜しいものはなにもない」
という言葉は、主人公自身への嘘なのです。
⑬ 「花」がものすごく重要
主人公は花の匂いを嗅ぎます。
そして、さっき摘んだ花を、
彼女の耳の横の髪へ挿した。
これは、とても美しい場面です。
周囲では戦争が起きている。
空から「鉄の星」が降ってくる。
それなのに主人公は、
彼女の髪に花を飾る。
つまり、
戦争=破壊するもの
に対して、
花=生み出すもの、美しいもの
を置いている。
この対比が、この小説の核心の一つです。
⑭ 「ほろびんそう」は何を意味する?
主人公は花を見せながら、
「ほろびんそう……だよ。」
と言います。
彼女は、
「どこの言葉?」
と聞きます。
もちろん普通の植物名ではありません。
「ほろび」という言葉を含んでいるように聞こえます。
つまり、
「滅びそうな世界の中に咲く花」
というイメージを作っているのだと思います。
戦争によって世界が壊れていく。
その中で、主人公は花を彼女に渡す。
これは、
「滅びの中にも美しいものがある」
という象徴として読むことができます。
⑮ タイトル「摂氏、三十七度二分」の意味
最後にタイトルを考えましょう。
37.2℃。
これは体温です。
つまりタイトルには、
人間の身体の温度
が使われています。
戦争という大きな出来事を描いているのに、タイトルは「戦争」でも「空襲」でもありません。
「体温」です。
これは、
歴史の中で何万人が死んだ
という大きな話ではなく、
「一人の人間が今、生きている」
という小さなところに焦点を当てているからだと思います。
戦争は巨大です。
でも人間は小さい。
その小さな人間の、
37.2℃の体温。
それが、この作品では非常に大きな意味を持っているのです。
この小説の構造を図にすると
かなり簡単にすると、こうなっています。
夕焼け
↓
暑く長い夏
↓
空襲
↓
家族と逃げる
↓
彼女と出会う
↓
夜空を見る
↓
星を見る
↓
でも星は「鉄の星」だった
↓
花を彼女に渡す
↓
「ほろびんそう」
↓
赤い空
↓
37.2℃という人間の温度
という流れです。
実は「最初」と「最後」がつながっている
最初は、
西の空が、真っ赤に燃えていた。
最後も、
西の空が、真っ赤に燃えている。
です。
つまり物語は、同じ赤い空から始まって、同じ赤い空に戻ってくる。
でも主人公は、その間に、
家族
彼女
星
花
体温
を経験しています。
世界そのものは変わっていない。
でも、
主人公の見え方が変わっている。
これが文学的に面白いところです。
ここを押さえればかなり深く読める
この作品を読むときは、次の5つを意識するといいです。
① 「赤」
夕焼けだけではなく、火や戦争、生命、花などを重ねている。
② 「星」
美しい自然であると同時に、爆弾を思わせる「鉄の星」でもある。
③ 「花」
破壊される世界の中で残る、美しさや人間らしさ。
④ 「僕」の冗談
本当にふざけているだけではなく、恐怖や疲労を隠している可能性がある。
⑤ 「37.2℃」
巨大な戦争ではなく、最後には「一人の人間が生きている温度」に戻ってくる。
そして、一番大事な読み方
この小説は、
「戦争は怖いですよ」
と直接言っている作品ではありません。
むしろ、
「空を見た」
「花の匂いを嗅いだ」
「誰かと話した」
「誰かの髪に花を挿した」
という、ごく小さな出来事を書いています。
だからこそ怖い。
戦争によって奪われるのは、単に「命」だけではありません。
普通に空を見ること。
好きな人と話すこと。
花を眺めること。
本を読むこと。
家族と一緒にいること。
そういう、何でもない日常そのものが失われてしまう。
この作品は、そのことを「37.2℃」という小さな数字にまで縮めて見せている。
そこまで読めると、この短編のタイトルが急に重く感じられてきます。