
【完結済】摂氏、三十七度二分【二年九組十二番 白石椋】ep.7/8
西の空が、真っ赤に燃えていた。
ちょうど、この赤茄子のように。
階下では誰かが喋っている。
ひどく一本調子だ。
まるで経だな、和尚でも来ているのか。
お数珠を探してやろうかと思ったが、そもそもそんないいものを自分ははなから持っていない。
「ああ。」
僕の肺は紙風船よりも、僕の心はしゃぼん玉よりも、いとも簡単に潰れて割れてしまう。
今にも崩れていきそうな色斑のひどい砂壁に踵を当て、ぼろの畳に背の汗を飲ませつつ、普段の通りに窓を見る。
あの黄ばんだ米印なんかは、もう剥がしてもよかろうな……
あれも初めの頃はおもしろかった。
空が万華鏡の如く分けられて、それはそれはもう、終日眺めていたって飽きないほどだった。
けれども、今ではすっかり興醒めて、むしろ枠ごとどこかへ棄ててやろうかと思っていたところだ。
とはいえ、庇の下に蜂が巣を作っているものだから、そうもいかず、日々悶々と正三角の空を眺めているのであった。
そこに来て、今日は変な黒い筋が走っている。
窓を拭こう。
気が向いたなら。
蜂のいぬ間に。
煙たい、長い夏は終わった。
終わったのだ。
働き者の蜂が、窓を叩く。
起きろ、起きろと窓を叩く。
ある晩のこと。
僕はもう、いい加減うんざりしていた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
真っ暗なはずの部屋で、妹の顔がはっきりと見える。
さては僕を驚かそうと、どっかの泉で蛍をどっさり捕まえてきたんだろう。
おてんばさんだね。
「なに、冗談やめてよ! 起きて、起きて!」
「ああ、うるさい。まだ夜だろう? それとも、いよいよ二十四時間、働きなさいと怖い顔の誰かさんが来ましたか。」
「ばか! ばか、ばか!」
またあれが鳴っている。
けたたましい、けれどももう慣れてしまったのだ。
妹に揺り起こされて初めて、外が騒がしいことに気づいたのだった。
僕の中の本能のうちのひとつは、もうすっかり、麻痺か死ぬかしてしまったのだろう。
あれだけ背骨の隙をガーゼで撫でられるが如く悶絶したあの音ですら、何の感触も警告も与えないのだった。
僕はもう一眠りするつもりだったのに、妹が枕を庭へ放ってしまったから仕方なく靴を履いて、家族分の荷物を背負って外へ出た。
ポケットには、芥川とか、ちょっと言いづらいものをぎちぎちに詰め込んで。
走りながらも、母と妹はやたらに空を眺めているらしかった。
東がどうだとか、西がどうだとか、大いに騒いでいる。
なんだ。
僕が空を見ていると、また茫っとしてだの、ぼんやり坊主だのと言ってばかにしたくせに。
自分たちだって、空を見るんじゃないか。
まるで夢見る乙女だね。
塀下に咲く、松葉牡丹だけが僕の言葉を聴いていた。
証人代わりに、赤ばかりを五、六摘んでおいた。
二人は早く、早く、と僕を急かした。
応えることが億劫だった。
もう、堪えたのだ。
僕は雑に首で返事をして、見せかけだけの駆け足をした。
「虎穴。」
もう、母は咎めもしなかった。
勝手に言っていなさい、僕はそう受け取った。
「勇猛果敢な挑戦者どもが大挙して──」
間合いよく赤ん坊の泣くのが聴こえた。
「暗くて怖いんだろ、兄ちゃんが蛍、とって来てやる。」
背中の荷物を妹に押し付けた。
──こっち。
夜闇に手招かれ、僕は真っ直ぐに声の方へ向かう。
「待った?」
「今、来たところ。」
嘘だね、ちっとも息が上がっていない。
先回りして、言い訳を塞いでやった。
「雷……?」
「さあ。見なかったから、わからない。」
「そう。」
「君は、見た?」
「まさか。」
遠雷かしら、彼女はそう言うと姿勢を低くした。
確かにどこからか、微かな轟音が聴こえる。
左の耳には、鮮明な囁きが聴こえる。
甘やかな倒錯に、僕は身を横たえた。
空の遠近がわからなくなった。
真っ黒な掛布に包まれているようでもあり、はたまた絶対に触れることのできない幻のようでもあり。
「今夜はまた、随分とよく降るね。」
「あなたみたいのが、そこらじゅうにたくさんいるんでしょう。」
「なんだよ、人を虫けらみたいに……」
穴にも入らず、僕は彼女と並んで星を数えた。
──星。
あれは、鉄の星だった。
清少納言も今宵の空には興醒めだろう。
星は絶え間なく、降り注ぐ。
僕はそれを背で受け止める。
咎める大人の声すら、もう、蟋蟀か鈴虫ほどにしか聴こえなくなっていた。
なんだってよかった。
惜しいものはなにもない。
努めて思い込んだのだ。
そして僕は花の匂いを嗅いでいた。
赤赤と降る、星の下にて。
「摂氏、三十七度二分。」
「なに、それ。」
彼女は首を傾げる。
僕はさっき摘んだ花を、彼女の耳の横の髪へ挿した。
「ほろびんそうだよ。」
「やだ、なに。どこの言葉?」
「知らない?」
西の空が、真っ赤に燃えている。
ちょうど、髪に飾った花のように。
また彼女が言いかけるのを、僕はすっかり隠してしまった。
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今回の連載も、その前も、読切も、井上と白石のお話が全部入ったマガジンできました。
ちょっとズレた、高校生の日常を「馬鹿なの?」の視点で、十五歳なら十五歳、十六歳なら十六歳、その年齢の時点で描きました。
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これまでの修学旅行編です。
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昨日、特に読んでいただいた小説三選です。
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勝手におすすめ二選。
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【エッセイ】
創作しすぎると、訳がわからなくなる。
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ゆきお様・解説
真っ向から、戦争について。
分析してくださっています。
花の名前なんかも。
ありがとうございます。