
コンクリートに消える|掌編小説
知子は、そっとため息をついてスマホを置いた。
「次はいつ帰ってくるの?」
「ちゃんとご飯食べてる?」
「送った荷物、届いた?」
自分の送信した言葉だけが、画面に残っていた。
娘の小春は、遠くの大学に進学してから、ほとんど連絡を返さなくなった。
私が何か悪いことをしただろうか。
たぶん、たくさんした。
何も間違えない完璧な母親とはほど遠い。
五十代になっても、六十代になっても、きっと間違え続けるのだろう。
そもそも、何が間違いなのかさえ、わからない。
気分を変えようと、知子はゆっくりとハーブティーを淹れた。ベランダのテーブルの丸椅子に腰掛け、そっと口をつける。
熱かった。
少し、コンクリートの床にこぼれた。
知子はあわてて拭こうとしたが、お茶はみるみるうちに染み込んで消えた。
知子は、しばらくその跡を見つめていた。
重いお腹を抱えて、仕事に通った日々。
寝ない小春を抱いて、真夜中に散歩した日々。
職場に頭を下げながら、急いで帰っては夕飯を作り続けた日々。
知子は、はっきりと小春を憎いと思った。
そして、そんな自分に驚いた。
かわいくて仕方のない、最愛の娘だった。
娘のためにしてきたことだと思っていた。けれど、本当にそうだったのだろうか。
娘に幸せになってほしい。
娘に困ってほしくない。
娘に、いつまでも自分を必要としてほしい。
最後の一つだけ、口に出すのはためらわれた。
知子には、忘れられない人がいた。
知子が保育課にいた頃、窓口で数回会っただけの、ある母親だった。
彼女は、保育園に預けていた幼い息子を亡くした。
職業は救急救命士だった。命を救う仕事をしている彼女が、どうして自分の子どもを失わなければならなかったのか。
他人事ながら、知子は深く絶望した。
彼女は気丈だった。窓口で決して涙を見せなかった。
ある日、彼女は言った。
「保育園の前を通るのが辛いんです。息子は亡くなったのに、保育園は変わらない日常を送っていることが」
まだ独身で若かった知子には、何と声をかければよいのかわからなかった。
それきり、彼女と会うことはなかった。
二十年以上が過ぎた今も、知子は時折、彼女のことを思い出しては幸せを祈った。
小春が生まれたときも、小春が彼女の息子の歳を越えたときも、小春が成人したときも。
最近、町で彼女を見かけた。
もう一人の息子と、朗らかに笑っていた。
知子は、心から嬉しかった。
他人には、こんなにも純粋に幸せを願える。
どうして、娘にはできないのだろう。
知子は、読みかけの『源氏物語』を開いた。
昔は、登場人物がなぜあんなにも出家したがるのか、滑稽に思えた。
けれど今は、自分もそうしたいと思う。
小春はもう、親が保護する歳ではない。大学を卒業するまでのお金さえ渡しておけば、自分がいなくなっても困らないだろう。
何も語らず、寺にこもって、ひたすら小春の安寧を祈り続ける。
その方が、ずっと美しい気がした。
そう考えて、知子は笑ってしまった。
その方が、美しい。
それすら、エゴではないか。
スマホの画面が光った。
「今度、帰る」
また、何かあったのだろうか。
都合のいいときだけ連絡してきて。
親を何だと思っているのか。
「今度っていつ?」
「今まで何してたの?」
「荷物が届いたなら、一言ぐらい連絡しなさい」
言いたいことはいくらでもあった。
もう一度画面が光った。
「お母さんは、元気?」
知子はスマホを握ったまま、動けなくなった。
目から涙がこぼれた。
テーブルに落ちた雫は、染み込むことなく、夕陽を受けて光っていた。
知子は、しばらくしてから本を閉じた。
帰ってきたら、小春が大好きなえのきをたっぷり入れた味噌汁を作ろう。
追記 しばらく、ここを離れます。
こんにちは。
最近、いろんなことに疲れておりまして、しばらくおとなしくしておりました。
11月から、松田くんのモデルとなった方の仕事も引き継いで担当することになりました。夫も繁忙期に入り、ただでさえ回っていない家庭生活が、さらに慌ただしくなりそうです。
これを機に、noteをお休みしようと思います。
でも、これまでここでいただいたものが、あまりにも尊くて。まだまだ読みたい方々の文章も、たくさん思い浮かびます。そう簡単には離れられそうにありません。
noteって、不思議ですよね。
ここにある膨大な文章は、全部、人の頭の中から出てきたものなんですよね。
色とりどりで、一つとして同じものはない。
でも、少しずつ響き合って、韻を踏んでいる部分もあって。
とても不思議で、とてもきれい。
私は、そんなキラキラしたトンネルの中を歩かせてもらっているような気分でした。
スキや素敵なお人柄が滲むコメントをくださった方、マガジンに追加してくださった方、交流してくださった方。
心から尊敬できる方にも出会いました。
本当に、本当にありがとうございました。
短い間でしたが、皆さんの文章やコメントから、とてもたくさんのものをいただきました。ここで出会った言葉たちは、noteを離れても、ずっと私の中に残り続けると思います。
私が好んでスキやコメントを送らせていただいていた方は、数えてみると30人近くいらっしゃいました。本来なら、お一人おひとりに心からの感謝を伝えたいところですが、今はその余力がなく、申し訳ありません。
言わなければ伝わらないこともあるので、最後にこれだけはお伝えしておきたいです。
本当に、皆さんの文章が大好きでした。
私のスキは、全力のスキです。
これまでのスキは、そんなふうに受け取っていただけたら嬉しいです。
私は、好きで始めたことでも、やるからには真面目に取り組みすぎてしまうようです。楽しむために始めたことが、いつの間にか、頑張らなければならないことに変わっていった部分もあるのかもしれません。
やるからには全力。だから、力を抜いてここに残るという選択ができない。不自由な性分です。
でも皆さんの記事が大好きなので、もしかしたら、こっそり記事を読んでいることもあると思います。
これからは、少し離れたところで、皆さんの歩む道が明るく、幸せなものであるようにと願っています。
今まで、本当にありがとうございました。
ここで出会った大切な方々へ