
世界まで、二つに分かれているわけではない。
先週の休日、4歳の娘と行き先を相談していた。
候補は、公園か、ビックカメラ。
私は当然、どちらかに行くつもりで聞いた。
「公園とビックカメラ、どっちにする?」
娘は、迷う様子もなく、自信満々に答えた。
「りょうほう!」
えっ。
「どっちにする?」って聞いたじゃん。
どっちかを選ぶんじゃないの?
そう思った時点で、私はもうずいぶん「大人」だったのかもしれない。
いつからだろう。
二つ差し出されたら、どちらか一つを選ぶ。
「どっち?」と聞かれたら、そのなかに答えがある。
そんなふうに、差し出された選択肢のなかで考えることを、いつの間にか覚えていた。
選べるようになったはずなのに。
子どもの頃より、ずっとたくさんのことを知っているはずなのに。
もしかしたら、見えなくなった選択肢もあるのかもしれない。
考えてみれば、子どもの頃から、たくさんの「どっち?」を聞かれてきた。
どっちが好き?
どっちが欲しい?
どっちにする?
小さな頃は、お菓子や遊びだった選択肢が、大きくなるにつれて少しずつ重たくなっていく。
文系か、理系か。
進学か、就職か。
続けるか、やめるか。
もちろん、本当に一つしか選べないこともある。
時間にも、お金にも限りがある。
一つを選ぶことは、もう一つを選ばないことでもある。
どちらが正解だろう。
どちらを選べば後悔しないだろう。
迷って、比べて、決める。
そんなことを繰り返してきた。
そして、いつの間にか。
問いのなかに用意された選択肢から答えを選ぶことに慣れてしまった。
けれど、本当は。
両方でもいい。
どちらも選ばなくてもいい。
まったく別の答えを出してもいい。
「どっち?」と聞かれたからといって、世界まで二つに分かれているわけではない。
4歳の娘は、そんなことを考えていたわけではないだろう。
ただ、公園にも行きたかった。
ビックカメラのおもちゃ売り場にも行きたかった。
どっちも好きだった。
だから、素直に、
「りょうほう!」
と言った。
その自由さが、少し羨ましい。
これから娘も、たくさんの「どっち?」に出会うのだろう。
どっちが好き?
どっちが正しい?
どっちを選ぶ?
将来はどうする?
そうやって少しずつ、「選ばなければならない」というルールを覚えていくのかもしれない。
もちろん、選ぶことは必要だ。
両方は無理なことだって、たくさんある。
それでも。
「どっちにする?」
そう聞かれたとき、自信満々に、
「りょうほう!」
と言える自由を、できるだけ長く持っていてほしい。
【後記】
この記事は、以前公開したエッセイを、せきさんの「ガチ添削」を受けてリライトしたものです。
今回の添削で、とくに印象に残ったのが「思考コスト」と「ふり・うけ」、そして「最大化」という考え方でした。
読者が「これは誰のセリフ?」「今はどんな場面?」と立ち止まらなくてもいいように、思考コストを減らす。
そして、文章には「大・中・小」の「ふり」がある。
記事全体での大きな「ふり」。
段落単位での「ふり」。
次の一文、次のひと言を生かすための小さな「ふり」。
伝えたいところをただ強い言葉で書くのではなく、そこへ読者の感情が追いつけるように「ふり」と「うけ」を重ねながら進み、いちばん届けたい場面を「最大化」する。
教えていただいたことを意識しながら、もう一度、最初から書き直してみました。
そして、
「そう思った時点で、私はもうずいぶん『大人』だったのかもしれない。」
「『どっち?』と聞かれたからといって、世界まで二つに分かれているわけではない。」
この二文を拾っていただけたことも、とても嬉しかったです。
添削は、直すべきところを教えてもらうだけではなく、自分では気づいていなかった「ここがあなたらしい」を見つけてもらうことでもあるのだなと思いました。
せきさん、このたびは丁寧なガチ添削をありがとうございます。
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