
消えたのは、声だけかもしれない。|ようさんの『みどり』をもう一度読む
※この記事では、ようさんの超掌編小説『みどり』の結末と、作者による解説に触れています。
まだ作品を読んでいない方、まずはご自身の解釈で味わいたい方は、先に原作や朗読をお楽しみください。
死を暗示する結末かもしれない。
それでも私は、あの声に希望を聴いてしまう。
消えたのは、「わたし」ではない。
ようさんの超掌編小説『みどり』を朗読させてもらった。
朗読のあとには、作品を読んで感じたことも少しお話しした。
けれど、ようさんの作者解説を読み、しーなさんの「私の『みどり』は、未来へ向かう」を拝読して、もう一度、この物語について語りたくなった。
ようさんの解説によれば、ラストの「消えた」は、あとから加えられた言葉なのだという。
落語の『死神』を意識した、語り手の死を暗示する結末。
そう知ってから読み返すと、夏の終わりの景色も、枯れていく葉も、遠くから届く声も、最初に読んだときより暗い色を帯びて見えた。
たしかに、あの声は「わたし」を迎えにきたものなのかもしれない。
けれど、ようさんは同時に、生存する読み方も残してくれていた。
しーなさんは、遠くから届いた声によって、主人公を覆っていた負の妄想が「消えた」と読んでいた。
死の気配をなかったことにはせず、それでも未来へ向かう物語として読む。
その解釈に触れて、私も希望を手放したくないと思った。
物語の最後には、こうある。
遠くからわたしを呼ぶ声がこだまして、消えた。
ここで消えたのは、声である。
「わたし」が消えたとは、まだ書かれていない。
声は、誰かに届くために放たれ、こだまし、やがて消えていく。
消えてしまったとしても、一度届いた事実まではなくならない。
誰かが「わたし」を呼んでいる。
名前を知り、居場所を探し、返事を待っている人がいる。
その声が叔父のものなのか、それとも別の何かなのかは、わからない。
けれど、何者にも呼ばれず、ひとりで消えていく結末ではなかった。
そのことに、私は希望を感じる。
物語のはじめでは、絵の具を洗った水が、ぐちゃぐちゃに濁っている。
それでも、洗われた筆が画用紙に置いたのは、目にまぶしい青だった。
濁った水を、透明に戻すことはできない。
不安も、病も、死の気配も、きれいになくなるわけではない。
それでも、ぐちゃぐちゃの中をくぐった筆で、次の色を置くことはできる。
主人公は、病気が治ると信じられないまま、外へ出た。
景色を見た。
美しいと思った。
そして、絵を描いた。
それだけでも、彼女(もしくは彼)の手はまだ、生きている側にあったのではないだろうか。
希望とは、必ず助かると信じることではないのかもしれない。
暗い結末の可能性を残したまま、それでも返事のできる余白を残すこと。
声が消えたあと、「わたし」は顔を上げたのではないか。
そして、小さく答えたのではないか。
——ここにいるよ。
物語には、その返事は書かれていない。
だから私は、空白の中にそっと置いてみたい。
死の気配を消さずに、希望も消さない。
それが、読み直した今の、私の『みどり』である。
喜木 拝