
哲学書とジーロクサン|シロクマ文芸部
借りた本が一冊だけ自宅の本棚に紛れていることに気付いた。休日の午後、一週間後に控えた引っ越しのために、ダンボール箱に本を詰めているときだった。
その本は四六判の大きさで五センチほどの厚みがあり、黒の表紙で装丁された哲学書だ。数年前に会社の同僚だった三浦から借りたものだった。
当時、三浦は社内の喫煙ルームで「存在とは何か」について熱弁を奮っていた。居合わせた同僚は眉をひそめ、私は加熱式タバコを吸いながら訳も分からずただ肯いていた。三浦の目には私が哲学に興味がある人間に映ったのだろうか。タバコ休憩のあと、「返すのはいつでもいいから」と言って私のデスクにこの本を置いていったのだった。
私は家に持って帰ったが、一ページも開くことがなかった。毎晩寝る前に読書をする習慣があったのだが、興味が湧かないものに手を伸ばす気にならなかった。ただ、書店では見かけない佇まいから、古本屋へ持って行けば、定価の倍近くの値段で買い取ってくれそうな気がした。
親切に貸してくれた本をすぐ返すことに気が引けて、とりあえず本棚に立て掛けたのだと思う。そろそろ返さなくては、と思いつつ、いつからか借りていたことすら忘れてしまっていた。
三浦は一年前に会社を辞めた。仕事帰りに二人で会社近くの居酒屋へ行く仲だったが、退社してからお互い連絡を取っていない。情報通の総務の長谷川さんの話だと、従業員三十人ほどのサイバーセキュリティ会社の取締役になっているらしい。
三浦も私に本を貸したことなんてきっと忘れているだろう。借りたものは返すのが筋だが、子会社へ出向することになった私は、三浦と連絡を取りたくなかった。新卒で会社に入って十二年、同期の三浦とはずっと肩を並べてきた。今の私の立場を訊かれたくなかった。
借りていた哲学書を、要らなくなった本と一緒に手提げの紙袋に入れて、近所のブックオフへ向かって歩いた。
歩道から、白抜きで「本」と書かれた看板が目に入ったとき、右側にある車道から、ドロドロドロと低いエンジン音が聞こえた。その重低音を響かせた車は、十メートルくらい前方で歩道に寄せて止まった。黒くて背が高く、角張った車だった。
私がその車の横を通り過ぎようとしたとき、
「石井!」と私の名前を呼ぶ声がした。
声の方へ振り向くと、左ハンドルの運転席の窓から、髭を生やしたセンター分けのパーマの男が手を振っている。
私が眉間に皺を寄せると、
「俺だよ。もう忘れたか?」とその男は言った。
車も髪型も変わって、髭もあって、すぐに分からなかったが、三浦だった。
「皺々の破れかけの紙袋なんか持ってどこへ行くんだ?」
三浦は笑みを浮かべながら私に訊いた。口元から覗く三浦の歯は、以前より白くなっている気がした。
「あ、ああ、そこのブックオフだよ」
私は看板を指差した。
「そっか。……少し痩せたか?」
「そうか? それより、車変えたのか?」
「ああ」
「なんてやつ?」
「ジーロクサン」
「へえ、高そうだな」
「まあな。あ、ちょっと人と待ち合わせしてるからさ、行くわ。また連絡くれよ。飲みに行こうぜ」
ああ、と私が返事をすると、三浦は、指先を揃えた左手を眉の辺りにあて、じゃあな、と言った。そして、ドロドロドロとマフラーから低音を響かせながら走り去って行った。小さくなっていく車の後ろ姿を眺めていると、なぜか、三浦とは終わった気がした。
短パンのポケットからスマートフォンを出し、「G63」を検索すると、私は目を見張った。
「に、にせんはっぴゃくろくじゅうはちまんえん?」
私は新車価格を見て思わず声を出してしまった。一般社員の私だと、とても手が出ない金額だ。それに出向後は給料が下がる。三浦には逆立ちしながら棒高跳びしても勝てなくなった。
紙袋に入っていた本を全てブックオフで買い取ってもらった。レシートを見ると、三浦から借りたままだった哲学書の金額は十円だった。
了
こちらの企画に参加させていただきました。
小牧幸助さま、宜しくお願いします。