メインコンテンツへスキップ
見出し画像

号外:東京湾大華火祭、あの日の記憶

    花火の向こうに、あの夏の仲間がいる


    10月24日の夕刻、遠くから花火の音が聞こえてきました。
    そうだ、今日は東京湾大華火祭の日だ。11年ぶりに、あの花火が帰ってきたのです。
    あいにく、小雨交じりの曇り空でした。ネットの生中継を見ると、花火のかなりの部分が低く垂れ込めた雲に隠れています。
    せっかくの復活なのに、惜しいなあ。
    そう思う一方で、私が気になったのは、運営本部のことでした。
    実施するのか、しないのか。天候を見ながら、どんな判断を重ねてきたのだろう。
    本部の実際のやり取りを知っているわけではありません。それでも、画面の向こうにいる人たちの緊張が、わが事のように感じられました。
    私も、この花火大会の最初の夜に関わった一人だからです。

    自分で動くことから、人に任せることへ


    1988年8月13日、土曜日。 第1回東京湾大華火祭が開催されました。
    私は41歳。紆余曲折を経て、ようやく見つけたイベントの世界で、仕事を続けていました。
    小さな制作室から始まった組織は、時代の追い風も受けて成長し、次の段階へ進もうとしていました。私自身も、現場で動くことから、人と組織を育てることへ、役割を移していく時期でした。
    実力をつけてきた若い世代に、仕事を渡していかなければならない。
    頭では分かっていても、現場が好きでここまで来た人間です。自分の手を離れる寂しさもありました。
    そんな時に舞い込んだのが、東京湾を舞台に、新しい大規模な花火大会をつくる仕事でした。

    何も起きない」をつくる


    イベントは、やり直しの利かない仕事です。
    あらゆることを想定して、準備して、準備して、また準備する。そして、本番を無事に終える。
    華やかな催しの裏側で、「何も起きない」をつくる。それが、私たちイベンターの誇りでもありました。
    ただ、今回は初めての花火大会です。
    花火の打ち上げには専門家がいて、積み重ねてきた技術もあります。私たちが組み立てなければならなかったのは、大勢のお客さんを迎えるための運営でした。
    どこから来てもらい、どこで見てもらい、どう帰ってもらうか。周辺道路の混雑や交通事故をどう防ぐか。打ち上げ台船の周囲に、一般の船が入り込まないようにするにはどうするか。
    そして、誰が、どこまで責任を持つのか。
    他の大会に学ぶことはできても、この場所、この規模で開催するための答えは、自分たちでつくるしかありませんでした。

    大規模イベントの要


    まさに、こうした大規模イベントの要は運営計画なのです。
    その運営を担当したのが、入社してまだ数年の若いプロデューサー、M君でした。
    中央区をはじめ、警察、消防、海上の安全に関わる機関、公共交通機関。それぞれの専門家が持つ知識や経験を引き出し、一つの計画にまとめていく。
    それは、単にお願いして回る仕事ではありません。立場も事情も違う人たちと話し合い、実際に動く仕組みにしていく仕事です。
    M君には、その調整を進める力がありました。
    そして彼は、見事に役割を果たしてくれました。
    任せたM君が自分の力で仕事を進めていく姿を見ると、頼もしさが増していく。
    私にとっても、仕事の喜びが少し変わり始めた頃だったのだと思います。

    夜空に花が開く、その瞬間に


    私は、晴海埠頭に設けたステージの総合演出に専念しました。
    取り組んだのは、花火と音楽、さらにレーザーを組み合わせた演出です。
    音楽は、作曲家の三枝成章さんに依頼しました。太鼓奏者の林英哲さんをフィーチャーしたオリジナル楽曲で、東京湾の夜空を盛り上げようと考えたのです。
    もちろん、私自身、花火を演出するのは初めてでした。
    苦労したのは、打ち上げの合図を出してから、実際に夜空で花が開くまでの時間差です。
    音楽のここで、大きく開いてほしい。
    そう思っても、その瞬間に合図を出したのでは間に合いません。地上のステージとは違う時間の感覚を、つかまなければなりませんでした。
    長く現場を経験していても、初めての仕事では、また一から学ぶことになる。その難しさに向き合いながら、やはり私は、こういう仕事が好きなのだと感じていました。
    大会は、大きなトラブルもなく終了しました。
    華やかな花火をつくる人がいて、その下で人々の安全を守る人がいる。表からは見えない調整を、一つずつ積み重ねてきた人がいる。
    その仕事が重なって、初めての夜を無事に終えることができました。
    私たちが組み立てた運営の経験は、次の大会へと引き継がれていきました。
    一夜の仕事が、街の記憶になる
    東京湾大華火祭は、その後、東京の夏の風物詩になっていきました。

    やり直しの利かない、一夜限りの仕事。


    その夜につくったものが、翌年につながり、街の恒例行事になり、誰かの夏の思い出になっていく。
    最初の一回に関わった者として、それはうれしいことでした。
    大会は2015年を最後に、選手村整備などの影響で休止しました。もう、思い出の中で振り返るだけの花火になってしまうのかもしれない。そんな気持ちもありました。
    それが11年を経て、「東京湾大華火祭」という名前とともに帰ってきました。
    中継の花火は、雲に隠れて、よく見えないこともありました。それでも音を聞いていると、あの夏の仕事や、仲間たちのことが浮かんできます。
    運営を任せたM君のこと。 初めての演出に頭を悩ませたこと。 無事に終えるために、それぞれの持ち場で力を尽くした人たちのこと。
    半分、自慢の昔話です。
    でも、今になってうれしいのは、自分が関わったということだけではありません。
    あの時、若い仲間に託した仕事が、次の年へ、その先へとつながっていったこと。そして今も、誰かが準備を重ね、この夜を支えていることです。
    遠くから届く花火の音を聞きながら、私は、かつて一緒に働いた仲間たちに、この復活の夜のことを話したくなりました。


    その頃の記事


    画像
    朝日新聞2回目の告知記事
    写真は第1回目のステージ
     
     
    東京在住、団塊の世代 テレビを皮切りにメディア、エンタメ業界を経て、電通グループでイベントを手掛る。退職後、子供の頃の夢を実現して絵描きになる。

    あなたへのおすすめ