
女ひとり、カウンターで日本酒を飲んでいたら。
私はひとり旅が好きだ。
観光地を巡り、ご当地グルメを食べ、気の向くままに街を歩く。
誰にも気を遣わず、自分の好きなように過ごせる時間がたまらない。
そして、そんなひとり旅で、私が特に楽しみにしていることがある。
旅先の居酒屋で、日本酒を飲むことだ。
できればカウンター席がいい。
地元のおいしい料理をつまみながら、その土地の日本酒を楽しむ。
これだけでも十分幸せなのだが、旅先の居酒屋では、思いがけない出会いが待っていることもある。
そして、そんな経験を重ねるうちに、私はある法則を発見した。
「女ひとり、居酒屋のカウンターで日本酒を飲んでいると、おじさんに話しかけられやすい」
というものである。
なお、サンプル数は私ひとり。
統計的な信頼性は一切保証できない。
ただし、実績はなかなか豊富だ。
ちなみに、こちらから話しかけた記憶はほとんどない。
いつも向こうから話しかけてくれるのである。
もしかすると、私の背後には、自分にだけ見えない看板でも立っているのだろうか。
「おひとり様です。話しかけ歓迎。日本酒談義、随時受付中。」
そんな私の居酒屋遍歴から、特に印象に残っている三つの夜を紹介したい。
すべては松本の小さな居酒屋から始まった。
2021年5月、長野県松本市を訪れた。
その日の夕食に選んだのは、「和酒とおばんざい 蔵音」という小さな居酒屋だった。
当時の私に、地元の人と交流しようという目的はない。
ただ、おいしい日本酒を飲みたかったのである。
お店はカウンター席だけのこぢんまりとした空間。
女将さんは東京から松本へ移住してきた方だという。
店内には地元のお客さんたちが集まっている。
カウンターでひとり日本酒を楽しんでいると、隣のおじさんが話しかけてくれた。
「どこから来たの?」
確か、そんな一言がきっかけだったと思う。
大阪から来たことを伝えると、ありがたいことに、私も自然と会話の輪に入れてもらえた。
話題は松本の街のことへ。
松本は、市内のあちこちに湧水があるという。
「ランニングするときも、ペットボトルを持っていかなくていいんだよ」
そんな話を聞いて驚いた。
観光客にとっては名所になる湧水も、地元の人にとっては日常生活の一部なのだ。
ほかにも、松本は雪が比較的少ないのに冬は厳しく冷え込むことや、市街地の標高が約600mもあることを教えてもらった。
大阪で暮らす私にとって、標高600mの街というのは、なかなか想像しにくい。
生駒山の山頂が約642mだから、ほぼ山の上に街があるようなものだ。
しかも、松本市の人口は約23万人。
生駒山の山頂付近に、八尾市くらいの人口の街が広がっている。
もちろん、実際には標高の高い盆地にある街なのだが、そう考えると、なんだかすごい。
そんな話を聞きながら、日本酒を飲む。
観光ガイドを読むのとは、また違った面白さがあった。
その夜、どんな銘柄を何杯飲んだのかは、正直なところ、すぐには思い出せない。
けれど、地元の皆さんと話した内容は、今でも旅ノートに残っている。
そして、この夜を境に、私の旅の楽しみがひとつ増えた。
旅先の居酒屋で、地元の人と話すのって、めちゃくちゃ楽しい。
それまで私にとって、居酒屋はおいしいものを食べて飲む場所だった。
そこに、「その土地に暮らす人たちと出会える場所」という新しい魅力が加わったのである。
新潟で、両隣のおじさんからお裾分けをいただく。
それから私は、旅先で居酒屋を訪れることが、ますます楽しみになった。
新潟市を訪れたときのこと。
夕食に選んだのは、地元のお客さんたちが集まる「大佐渡たむら」という居酒屋だった。
お目当ては、お得な刺身盛り合わせのセット。
その内容が、なかなかすごい。
お通しに、6〜7品の刺身盛り合わせ。さらに、生ビール、瓶ビール、焼酎、日本酒2合から選べるドリンクまでついてくる。
そして、気になるお値段は……。
なんと、1,480円!!
いや、ちょっと待ってほしい。
日本酒2合がついて、この値段である。
価格設定を間違えていないだろうか。
こちらが心配になるレベルだ。
ちなみに、これは私が訪れた当時の価格。
もちろん、選んだドリンクは日本酒2合。迷う余地などなかった。



さらに単品でバイ貝のお刺身も注文した。
これがまた、コリコリとした食感で実においしい。
ほかにも野菜のおひたしなども。
すでに大満足である。
そんなふうにカウンターで海の幸と日本酒を堪能していると、両隣に座っていたおじさんたちが話しかけてくれた。
右隣の方は京都出身で、新潟には単身赴任で来ているのだという。
旅先の新潟で、同じ関西から来た方と出会うとは。
おしゃべりを楽しんでいるうちに、なんと両隣のおじさんたちから料理のお裾分けまでいただいてしまった。
ハマグリの酒蒸しに、枝豆。
お刺身を食べに来たら、おかずが増えた。
なんということでしょう。
もちろん、ありがたくいただいた。
ひとりで居酒屋に来たはずが、気づけば両隣の方と話し、お裾分けまでいただいている。
カウンター席、恐るべし。
そして、この夜にはもうひとつ、驚くべきことがあった。
お会計、なんと2,950円。
日本酒を2合飲み、お刺身を堪能し、お裾分けまでいただいて、3,000円でお釣りが来た。
当時の私にとって、旅先の晩ご飯最安値記録である。
お財布にも胃袋にも優しい、実に素晴らしい夜だった。
もっとも、いちばん嬉しかったのは、見ず知らずの私に気さくに話しかけ、親切にしてくださったことだ。
あのときのおじさんたち、お元気だろうか。
酒田で、日本酒がつないでくれたご縁。
そして、2025年。
山形県酒田市を訪れたときにも、忘れられない出会いがあった。
この日の夕食は、お母さんと娘さんが二人で切り盛りする居酒屋「おばこ」へ。
いつものようにカウンター席に座り、日本酒を楽しんでいると、左隣に座っていたご夫婦の旦那さんが話しかけてくれた。
お二人は山梨県から車で旅行に来ているのだという。
お互い日本酒を飲んでいたこともあり、話題は自然と日本酒のことへ。
これまで飲んでおいしかった銘柄や、おすすめのお酒の話で盛り上がった。
日本酒好き同士、話題には事欠かない。
さらに、右隣に座っていた地元の男性、Aさんも会話に加わった。
Aさんは親子三代にわたって酒田で暮らしているそうで、昔の街の様子や、橋の開通式の思い出などを聞かせてくれた。
なかでも印象に残っているのが、プロゴルファーの宮里藍さんの話だ。
昔、宮里さんが酒田にホームステイしたことがあり、雪の残る山を見て驚いていたのだという。
さらに、後年には酒田市の成人式にお祝いの電報まで送ってくれたそうだ。
もちろん、これはAさんから伺ったお話だが、そんなエピソードまで聞けるとは思ってもみなかった。
酒田の歴史や暮らしの話に、日本酒談義。
話は尽きず、最後にはなんと4人で記念撮影までしてしまった。
居酒屋にひとりで入ったはずなのに、帰る頃には記念写真が増えている。
我ながら、なかなか愉快な旅である。
しかも、山梨のご夫婦とは、次に私が山梨へ旅行するときに連絡する約束までした。
おいしい日本酒を出してくれるお店を紹介してくださるという。
酒田へ旅行に来たのに、山梨旅行の楽しみまで増えてしまった。
そして、最後にもうひとつ嬉しいことがあった。
なんと、ご夫婦とAさんが、お会計のほとんどをごちそうしてくださったのだ。
この夜、私が支払った金額は1,750円。
思いがけないご厚意が、本当に嬉しかった。
おいしい日本酒を飲み、たくさん笑い、最後にはごちそうまでしていただいた。
なんとも幸せな酒田の夜である。
ひとり旅だけど、ひとりで飲んでいるとは限らない。
松本で、初めて地元のおじさんに話しかけてもらった夜。
新潟で、両隣から料理のお裾分けをいただいた夜。
酒田で、初対面の4人が記念写真を撮った夜。
どれも、居酒屋へ入る前には想像もしていなかった出来事だ。
もちろん、毎回こんなことが起こるわけではない。
誰とも話さず、ひとりで静かに日本酒を楽しむ夜だってある。
それはそれで、私にとっては幸せな時間だ。
ただ、こうして旅を振り返ると、お酒や料理と同じくらい、そこで出会った人たちのことを覚えている。
松本で教えてもらった湧水の話も、新潟でいただいたハマグリも、酒田で撮った記念写真も。
旅先でたまたま隣に座った人たちが、私の旅の思い出に登場する。
考えてみれば、なんとも不思議なことだ。
そして、これからも私は、旅先の居酒屋でカウンター席を選ぶのだと思う。
おいしい日本酒が飲めれば、それだけで十分。
もし誰かが話しかけてくれたら、それは嬉しいおまけである。
さて、次の旅ではどんな夜になるだろう。
ひとまず、日本酒を注文するところから始めよう。
今では旅先の居酒屋で日本酒を楽しんでいる私。
しかし、かつては日本酒を「なんとなく強そう」という理由だけで敬遠していました。
そんな私が日本酒に目覚めたのは、ある温泉旅館での出来事がきっかけ。
白ワイン一本刀だった私に、いったい何が起きたのか?