
[シロクマ文芸部]月を見る
約2000文字
ジャンル:SF
月を見る。
満月である。
こうして地球から満月を眺めることができるのも今日が最後だということで、真夜中だというのに世間はたのしいピクニックに興じている。
明々とした公園にレジャーシートを敷いて、花見のように月見に興じる人々の喧騒。より近い場所、月に近い場所を求めてマンションのベランダやビルの屋上で満月に向かって盃を掲げる人々。
さようなら、満月。
「ただいま~」
帰ってきたリサの呑気な声。ヒールを脱いだ音がケニーの耳に届いた。
普段はリビングの中央に向いているはずのソファは、外に向けられていた。床に引きずった跡が残っている。
ケニーは、ソファに座って空を見上げていた。
雲間からのぞく星空に、一際輝く満月が見える。
「今日はもうダメね、どこもお祭り騒ぎ。スーパーも閉まっていたし、こんなものしか買えなかったわ」
ソファが背を向けたテーブルの上に、帰りがけに買ってきたスナックと赤ワインを置いたリサは、ケニーの首にそっと腕を回して抱きしめた。
「もう、まだそうやってふさぎ込んでいるの?」
「……これから俺は、この罪を一生背負っていかなければならないんだ」
「あなただけじゃないわ」
ケニーの瞳が、虚ろになっているのをリサは認めた。ソファの足元には、何本ものストロングゼロの空き缶が転がっている。
ここ最近はずっとこの調子だった。
酒毒が回っても、ケニーに安息は訪れない。
「決めたのは“人類”よ。だからこれは、人類の罪」
「だけど、最初にその選択肢を提示したのは、俺なんだ」
ソファに挟まったリモコンを押すと、ゆっくりと壁掛けテレビが反応した。
『ごらんください。今日この日をもって、月の一部が破壊され、地球温暖化を食い止めるための傘へと姿を変えるのです。我々が、先祖代々、地球に生きとし生ける全生物が見てきた月が、今夜、破壊されます』
リサは、ケニーの手からそっとリモコンを奪って、テレビを消した。
チャンネルを回しても、どこも同じような内容なのは容易に想像できた。そして、その内容こそがケニーを苦しめているということも。
「だいたい、そうせざるを得なくなるまで環境問題へと目を向けなかったのは、他ならぬ人類よ。あなたは、その二進も三進もいかなくなった地球環境に対して、延命策を提示しただけ」
「そして採用され、月は欠けていく。三つの星の位置関係からでなく、ただ暴力的に」
「エコノミカルだからよ」
「エコロジカルではない」
ケニーはゆっくり立ち上がると、リサが買ってきたワインのボトルを手に取り、スクリューキャップを開けてそのままラッパ飲みした。
強引に傾けたせいで、口の端から赤ワインが鮮血のように流れる。
「体を壊すわよ」
「壊してしまいたいんだよ」
「そんなことをしたら、私が悲しいわ」
「さようなら、満月!」
誰かが、マイク越しに叫んでいるようだ。
住宅街はどの家も、前庭でパーティをしている。カラオケ機材を持ち出して楽しむ家族もあれば、スピーカーで空に吠える者もいる。
満月。
リサには、彼らのパーティがウェアウルフたちの晩餐のように感じられた。これで満月に悩まされる必要はない、と。
『さようなら、満月』とは、月の一部が破壊されて地球温暖化を食い止めるための傘にすることが決定されてから、人々の間で増殖したキャッチフレーズである。
私たち人類は、一部とは言え、とうとう月を破壊できる技術力を手に入れた。そして実際にそれを行使する。
月が破壊されたときに及ぶ地球への影響は、人工知能とともに世界中で計算され、直ちに地球環境への重篤な影響はないと結論づけられた。それよりも、地球温暖化による環境問題の方が地球環境に大きな影響を及ぼすだろうとされたのだった。
ケニーの論文は発見され、そして支持された。
破壊される地球環境に対して延命処置を行うために、月を破壊する。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」
「藤原道長ね」
「だけど、人類は今、自らその満月を欠いてしまおうというんだ」
「地球環境のため、でしょ?」
ケニーがラッパ飲みした赤ワインのボトルを取り上げて、リサも彼と同じようにワインを口に含んだ。
上等なワインではなかった。
土の香りと、わずかにバニラの香るワイン。タンニンが舌をキュッと締めて、味わいを深める。
「俺は……」
何か言おうとしたケニーの声を遮って、窓の外から大きな歓声が聞こえてきた。
一瞬、空がわずかに明るくなったように、二人は感じた。
月表面が爆発によって輝き、レゴリスが重力から解き放たれて粉塵へと変わったのである。
それは人類史上、類を見ない、星規模の大工事が始まった合図だった。
ケニーの身体は震えている。リビングの窓から外へと飛び出して、己の提案してしまったことの結果を見届けたい気持ちと、月はまだ破壊されていないと信じたい気持ちとが、彼の中で暴れまわっている。
「どんなに大規模な出来事でも、私たちは2メートルにも満たない人間よ」
リサは、そっとケニーを抱きしめた。
シロクマ文芸部。5回目の参加です。
人間にとっては地球それ自体よりも、天体として月は身近な存在です。
人間を含むあらゆる生き物は、地球と月との関係が体調に様々な影響を受けるという話をどこかで聞きました。
今回の短編小説は月の一部を破壊して、そこから生じるレゴリス(=月の砂)を太陽光を遮る傘にしようという話でした。実際に、地球温暖化に対して月の砂を宇宙にまいて、太陽光を遮るシールドにするという構想の論文があります。そこからアイデアを膨らませました。
そのようなラストリゾートに逃げ込む前に、よりよい手段があれば良いのですけれどね。
前回の「 #シロクマ文芸部 」発表作品はこちら。
面白いと感じた方は、スキやコメント等、よろしくお願いします。
作者の励みになります。
それでは、また来週。