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【読書記録 -194】はてしない物語

    失われた未来と想像力

    『はてしない物語』の著者 ミヒャエル・エンデは1929年、ドイツに生まれた。

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    エンデが4歳のとき、ナチスが政権を掌握する。10歳で第二次世界大戦が始まり、終戦を迎えたのは15歳のときだった。父親のエドガー・エンデは画家で、その作品はナチスによって「退廃芸術」とみなされ、活動を制限された。エンデは、子供時代のほとんどを、戦争と思想統制の中で過ごしたのだ。

    その経験がエンデにどんな影響を与えたのか、それはボクには知る由もない。

    ただ、1973年に発表された『モモ』では、人々から時間を奪う灰色の男たちが登場する。そして1979年の『はてしない物語』では、世界そのものを消滅させる「虚無」が描かれている。

    戦争によって人命や財産が失われるが、それだけでなく本来なら経験できたはずの未来も失われる。誰かと出会うこと、どこかへ旅すること、何かを学ぶこと。そうした無数の可能性が、戦争によって奪われてしまう。

    『モモ』も『はてしない物語』も、どちらも「これから生まれるはずだった可能性が、失われていく物語」として読むこともできるのではないだろうか。

    結末を定めない

    1977年、エンデのもとを出版社の担当者が訪ね、新作について相談した。

    エンデは、さまざまな着想を書き留めたメモを靴箱に保存していたという。その中から取り出したひとつが、物語の中に入り込んでしまい、そこから出られなくなる少年のアイデアだった。

    当初、エンデはそれほど長い作品になるとは考えていなかったようだが、書き始めると物語はどんどん膨らんでいき、どうやって主人公のバスチアンを現実世界に帰還させればよいのか、作者自身も悩むことになったという。

    ー「Open-Endness」だ。

    『目標という幻想』の著者 ケネス・スタンリーらは、その著書の中で「あらかじめ設定した目標に向かって進むことが、必ずしも優れた発見につながるとは限らない」ということを説いている。

    目標に近づくことばかり考えていると、一見すると遠回りに見える可能性を見逃してしまう。一方、興味深いものを見つけ、その先にあるものを探索していくと、当初は想像もしなかった場所にたどり着くことがある。

    ケネス・スタンリーらは、その探索の連続を「目標を定めずに、近くにある踏み石に飛び移ってみること」と表現している。

    ボクたちは小説家というものを、最初に物語の全体像を構想し、結末まで設計してから文章を書き始める人だと想像しがちだ。しかしエンデは(少なくともこの作品については)そうではなかったように思う。

    エンデは、結末を決めてから物語を書いたのではなく、書きながら結末を探していたのだ。だからタイトルを「Die unendliche Geschichte(終わりのない物語)」と名付けたのかもしれない。

    ネーミングセンス

    著名な作家は皆、優秀な命名者だ。

    逆に言うと、登場人物や起きゆく事象に名前を付けることができなければ物語を書くことはできない。それがファンタジー作品だったりSF作品であればなおさらだ。

    本作の主人公の名前は、バスチアン・バルタザール・ブックス(Bastian Balthasar Bux)。もう一人だけフルネームが明かされているのは、古本屋の主人 カール・コンラート・コレアンダー(Karl Konrad Koreander)だ。

    これ(頭文字の英単語を揃えるネーミング)は子供向けに考えられたものだろう。ディズニー作品やアメコミなどにも多く見られる、割と伝統的な手法のようだ。Mickey Mouse、Minnie Mouse、Donald Duck、Daisy Duck、Goofy Goof、などがそう。

    そして、この『はてしない物語』には、奇妙で魅力的な名前を付けられた多くの登場人物が登場する。

    モンデンキント、アトレーユ、フッフール、アウリン、ウユララ、グラオーグラマーン、サイーデ、アイゥオーラおばさま…

    …エンデは自分の創造物にいくらでも名前を付けることができた人なんだろう。

    何だかわからないものであっても、それに名前を与えることによって、そこに確かに何かが存在するようになるのだ。多くの著名な作家が「登場人物が勝手に動き出す」という表現をするが、それは、まず名前を与えることから始まるんだろう。

    だからエンデは、この作品『はてしない物語』において「名前を付ける」という行為そのものに重要な意味を与えたのかもしれない。

    失われなかった可能性

    映画版の『ネバーエンディングストーリー』は、原作の前半部分を中心に描かれている。

    アトレーユとフッフール(映画版では「ファルコン」)が冒険を繰り広げ、最後にバスチアンが幼心の君に名前を付けることによって消滅しかけた物語の世界を救う。映画はそこでハッピーエンドだった。

    しかし下巻に進んでいくと、バスチアンはさらに願いを叶え続け、傲慢になり、記憶を失い、自分が何者なのかさえわからなくなっていく。それは一旦ハッピーエンドに浸った読者が不安になってしまうくらいの転換だ。

    物語は延々と続いていく。
    それはきっと、エンデがOpen-Endnessのマインド ー目の前の踏み石にどんどん飛び移っていく感性ー を持っていたからだろう。ボクはそんな風に感じた。

    そして長い旅の末、やっとバスチアンはコレアンダーの古本屋に戻ってきて、壮大な冒険を終える… けれど、本作の中にはたくさんの「別の物語」が埋め込まれていて、それが解決しないままになっている。

    それが、この物語の「はてしない」ところなのかもしれない。

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