メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【読書記録 -200】コミュニティ

    2か月かけて読んだ本

    『コミュニティ』

    本書の著者のジグムント・バウマンは、1925年にポーランドで生まれた社会学者だ。現代社会の流動化を「リキッド・モダニティ」という概念で捉え、個人の自由や不安、共同体の変容について数多くの著作を残した。

    画像

    ボクがこの本を買ったのは2024年の12月だ。
    買った当時、少しページをめくってみたものの、あまりの読みづらさにすぐに断念した本だったと記憶している。

    それから1年10か月経った今年の9月、本書を改めて読み始めた。

    本書の読みづらさは以前と変わらない。

    だけど、今回なんとか読み進めることができたのは、ボクの文章に対する解像度が上がったからだと思っている。それはおそらく、この2年間にボクがインプットとアウトプットを繰り返してきたこと… つまり「訓練を積んだ」成果だろう。

    とはいえ、ボクがこの220ページほど(文庫版で)の社会学の本を読むのにかなり苦心したのは間違いない。

    本書は他の論文などからの引用が多いのだが、その引用先があまりに馴染みがなさすぎる。そして(日本語に訳しづらかったからか)あちこちに英単語がそのまま記載されていたり、日本語にカタカナ英語がルビとして振られていたりする。

    さらに、ひとつの論調を説明するまでに、あちこちに寄り道し、あれこれと引用し、著者の導く結論にふわっと着地する。ずっと集中して読んでいないと帰結への導線を見逃してしまうのだ。

    そうこうしてる内に、読了まで2か月を要してしまった…

    ソリッドとリキッドの対比

    人間はコミュニティに属することで安心を得る。

    だけど、コミュニティの一員であるためには、一定のルールや価値観を受け入れなければならない。つまり、自由の一部を手放す必要があり、安心と自由はトレードオフの関係性にある。

    バウマンは、一時的な関心や出来事によって人々が集まるコミュニティを「ペグ・コミュニティ(壁の釘に衣服を引っかけるように、一時的にその場に身を寄せている共同体)」、継続的な相互責任によって結びつくコミュニティを「倫理的コミュニティ(真の連帯と他者への責任に基づく、本来あるべき強固な共同体)」と分類している。

    また、バウマンは現代社会を、かつての安定した社会構造を意味する「ソリッド(固体)」と、人間関係や所属が流動的になった「リキッド(液体)」という対比で捉えている。

    バウマンが本書『コミュニティ』を出版したのは2001年のことだ。そうすると、おそらく1999年 ーいわゆる「ミレニアム」と呼ばれた世紀末頃に本書の構想を練っていたんだろう。当時は世界的なドットコムバブルがピークを迎える直前であり、且つ国際テロが頻発していた時代だ。

    そして、ヨーロッパにおいてはEU(欧州連合)の統合の気運が最も高まった時期で、実際に1999年に通貨Euro(の決済・会計)が導入されている。それは、冷戦後最大の変革の時代だったと言える。

    つまり本書は、世界(特にバウマンが過ごした東欧・西欧)の「液状化(リキッド化)」が急速に進み、その変化が社会のいたるところに現れていた時代に書かれた本なのだ。今の時代の日本に当て嵌めて考えるには、あちこちを少しずつ読み替えていかなければならない。

    これがまた、本書を読み解くのに時間がかかる所以だろう。

    コミュニティは自由を制限する

    本書の第8章では「ゲットー」について20ページにわたって考察されている。

    ゲットーとは、歴史的には特定の集団が隔離され、居住や移動を制限された区域を指す。日本人には馴染みがない言葉だが、日本にも被差別部落の歴史があり、現在まで続く差別の問題がある。ゲットーには、外からだけでなく内側からの圧力もあり、よっぽどの幸運と本人の意思と努力がない限り、そこから抜け出すことは難しいのだ。

    そういった歴史的な意味とは区別して…
    ボクは、外部との比較を難しくすることで、特定のコミュニティから抜け出したくとも抜け出せない状態を生み出す仕組みを「ゲットー戦略」と呼ぼうと思う。

    多くの企業は、社員に外部との比較を避けさせるような仕組みを作りたがるように思う。それは、テレワークをやめさせてオフィスに出社させる方針だったり、社内で開催する懇親会だったり、秘密保持のルールの制定だったり… 思い当たることはいくつかある。

    「外の世界は厳しい」
    「ここにいる方が安心だ」

    そうした価値観が共有されれば、コミュニティの構成員は他の選択肢を検討しなくなるかもしれない。上手くいけば(手遅れになるまで)他の選択肢に気づかないかもしれない。

    しかし、逆の戦略を取る企業があることも知っている。

    その企業が「どうぞ、他と比較してください」と言えるなら、それは、技術やサービス、資本やリソースなどによって選ばれようとしているということだ。

    前者は比較を抑制することで、後者は比較を促すことで、人々を組織に留めようとする。コミュニティに所属する人は抜け出せなくなってとどまっているのか、それとも自分の意志でとどまっているのか…

    数年経つと、その違いは「企業文化」というレンズを通してくっきり見えるようになるだろうと思う。

    不確実性と無駄の関係

    本書の中に「規範の不倶戴天の敵である過剰は、それ自体が規範となった」という一節があった。

    現代において「過剰」は不可欠だ。
    余剰という言い方のほうが適切かもしれない。

    それがエコでないことは誰もが知っている。
    だけど、現代の需要を満たすため(そして競争優位性を維持するため)には、過剰に製品を作らなければならず、そのために過剰に人員を抱えていなければならない。

    それは製品だけに限らない。
    例えば、道路工事の交通誘導員は、ほとんど車も歩行者も通らない場所に、何人も配置されていたりする。それは法令や安全基準に基づいたものであるとは思うが、実際には何も誘導しないまま一日が終わることもある。

    サプライチェーンのネットワークもそうだ。
    販売需要と供給能力を完全に一致させることはできない。その場合、サプライチェーンの下流側の行程を担う企業が、需要変動に備えた余剰能力を抱えるようになる。

    総合的に考えるとその余剰は無駄である。
    しかしその無駄も、各々の企業がそれぞれの制約の中で合理的に行動した結果、生じているのだろう。

    不確実性への備えという意味では、保険も似た仕組みを持っている。

    保険料は、将来起こるかどうかわからない事故に備えて支払うものだ。結果的に事故が起きなければ保険金を受け取ることはない。しかし、個人では予測できないリスクを大勢で分担することで、不確実性に合理的に備えることができる。

    一方、ギャンブルはその逆方向にある。
    保険は不確実性による損失を抑えるためにお金を払い、ギャンブルは不確実性による利益を期待してお金を払う。

    どちらも「不確実性を前提に成立している仕組み」であることが共通しているように思う。つまり、不確実性に対して合理的に行動することが、社会のさまざまな仕組みを成立させているわけだ。

    コミュニティ内のメンバーが、それぞれ合理的に行動しているうちに、過剰な備えや選択肢が当たり前になっていくこと… つまり「誰も明示的に決めていないのに、誰もがそれを前提として行動するようになった状態」のことを、バウマンは「規範」と表現したのかもしれない。

    読者自身が問いを持つこと

    バウマンが生活していた当時のヨーロッパと、ボクたちが今生きている現代の日本。たかが25年くらいしか経っていないが、コンテクストは大きく異なっている。

    少子高齢化、労働力不足、インターネット。
    そしてAIの急激な進化。

    当時に比べると、情報へのアクセスも、個人が持てる能力も、組織と個人の力関係も大きく変化してしまった。そして、それに伴ってコミュニティの形も役割も、きっとバウマンにも想像し得なかったものになったことだろう。

    それは誰のせいでもない。

    だが、過去の人が未来について考察したことを、現代から解きなおしてみるということは、非常に意義のあることだ。それは、当時の最高峰の識者が考えていた問いの答え合わせでもあるが、その答え(それが正しかったかどうかではなく)の延長線上に、ボクたち自身が新しい問いを置くことができるからだ。

    そう、本を読むというのは、著者の答えを受け取ることではなく、著者の問いを借りて自分で考えることなのかもしれない。

    参考リンク

    Amazon:コミュニティ

    ジグムント・バウマン:Wikipedia

    この記事が参加している募集

    あなたへのおすすめ