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「死」、が

    注:もし「死」という話題に不安や不快感を覚えるにもかかわらず、この記事をクリックしてしまったという方は、ここでお読みになるのをやめると良いと思われます。

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    実は最近、「死」について思いを巡らせています。一般的に言えば、こうした思考にとらわれるキッカケは様々ですが、今回の場合、その引き金となった出来事については別の記事で触れることにします。

    その「別の記事」

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    先日、大きな墓地の外の歩道を歩いていると、向こうから一人の年配の女性が歩いてきました。

    すれ違う直前のこと。女性は突然立ち止まり、墓地の方を向いて両手で顔を覆いました。

    女性の背後を通り過ぎる際、その左手にティッシュのパックが握られているのが目に入りました。

    場所柄を考えれば、女性は悲しみに打ちひしがれており、その顔を他人に見られたくなかったのだろうと推測できます。

    立ち止まって、女性の様子を尋ねてみようかとも思いまいた。しかし、状況を素早く分析した結果、次のような理由から、頼まれもしないのに声をかけることは、女性に感謝されるよりもむしろ迷惑がられる可能性の方が高いだろうと判断しました。

    ・一人で悲しみに浸りたいという思い

    ・声をかける人に対する不信感

    ・悲しげな顔を見せたり、その場で会話をしたりすることを避けたいという望み

    そうして小生はその場を後にしましたが、自分の判断に対する疑念や、人としての基本的な温かさを示すことの難しさに対する苛立ちは、心に残ったままでした。

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    1年ほど前のこと。知り合ったばかりの Noter の話ですが、自身が癌と診断され、余命3ヶ月と宣告されたことを伝える記事を投稿しました。

    その後、折に触れて Noter の新しい投稿がないか確認していましたが、投稿されることはありませんでした。本記事を書く直前にも改めて確認してみましたが、やはり更新されていないとわかりました。しかし、依然としてその方の Note アカウントには今もアクセスでき、過去の記事もそのまま閲覧できる状態になっています。

    こうした状況からまず推察されるのは、活動を停止する際に記事やアカウントをすべて削除する人もいる中で、件の Noter がそれらを行わなかったこと、そして今や実際に亡くなられているということです。

    「死」ということを念頭に置きつつ、先日、件の Noter のことを考えていました。彼はもうこの世にはいないでしょうが、本サイトに残された彼の作品は今も存在し、私たち読者がそこにコメントを寄せることも可能なのです。

    著者がすでに故人であっても、コメントを残すことには意義があると考えました。それは、著者が天国からコメントを読めるだろうと信じているからではありません(そのようなことについて推測するつもりはありません)。むしろ、著者の遺したアカウントを訪れた愛する人々や知人にとって、著者が亡き後もなお読者にポジティブな影響を与え続けていることを確認できるこうしたコメントが、心の慰めになるかもしれないと思うからです。

    同様の理由から、現在は活動していない Note 友がネット上に残した記事にコメントすることも意義深いと考えており、そうしていこうと思っています。

    しかし、ふと別の考えが頭をよぎりました。

    多くの場合、私たちが Note で親しくなるのは、すでに何ヶ月、あるいは何年も活動を続けている方々です。私たちは彼らの新しい投稿を読みますが、知り合う以前にどんな記事を書いていたかについては、知らないことが結構あると思います。そうした過去の投稿には、私たちの読書体験を豊かにし、相手への理解を深めてくれるような有益な情報が含まれていることも多いはずです。もし、すでに活動を終えた Noter の記事にコメントすることが意義深いのだとしたら、現在交流のある Note 友が過去に書いた記事にコメントすることには、それ以上に大きな意義があるのではないでしょうか。

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    実際に、昨日、特に親しく交流させていただいている Note 友の過去の記事にコメントをしてみたところ、楽しくて有意義なやり取りがたくさん生まれました。あなたも、こうした Note での活動を楽しめるかもしれません。

     
     
    趣味:長距離散歩と小難しい漢字関連の研究。別に冷たい人間やないけど、フォローはせえへん。ご容赦を。

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