
町丁の冒険b-中央区-江戸の橋と銀座、歌舞伎、明治の外人居留地、昭和に実現しなかった万博、鏑木清方の新富、初プラネタリウム明石町
町丁主に国勢調査などの行政統計で使われ、市区町村内を分ける区域をおおまかに指す。「町丁・字等」「町丁目別人口」といった表現で目にすることが多い。
だから『町丁歴険記』は『タンタンの冒険』から名前を借りているけれど、「町丁」そのものは私が勝手につくった言葉ではない。
このシリーズを始めた頃は、東京23区を町丁単位まで分解して、自分がどこまで行ったことがあるのかを一つずつ地図に打っていた。今回の引っ越し版では、点打ちは自分用に残し、本文はAIを散々叱りつけながら、あとで読み返したいことだけ補ってもらうことにした。
中央区
中央区はわずか10.21平方キロメートル。東京23区で3番目に小さい一方、水辺率は15.7%で23区トップ。中央区自身の防災資料にも、区内の大部分の土地は江戸時代以降の埋め立てによってできた、と書かれている。現在の中央区が誕生したのは1947年。旧日本橋区と旧京橋区が合併した。
1603年に架けられた日本橋は、のちに五街道の起点となった。銀座という地名は幕府の銀貨鋳造機関「銀座」に由来する。京橋では江戸歌舞伎の猿若座が興行し、日本橋の越後屋はのちの三越へ。明治になると築地・明石町には外国人居留地が置かれ、兜町は近代金融の中心になった。
町名には「町」が付くものと付かないものがある。AIにとって、この違いはかなり大きいらしい。
東京都中央区の町名
日本橋地域
日本橋|日本橋大伝馬町|日本橋蛎殻町|日本橋兜町|日本橋茅場町|日本橋小網町|日本橋小伝馬町|日本橋小舟町|日本橋富沢町|日本橋中洲|日本橋人形町|日本橋箱崎町|日本橋浜町|日本橋馬喰町|日本橋久松町|日本橋堀留町|日本橋本石町|日本橋本町|日本橋室町|日本橋横山町|東日本橋|八重洲(一丁目)
京橋地域
明石町|入船|京橋|銀座|新川|新富|築地|八丁堀|浜離宮庭園|湊|八重洲(二丁目)
月島地域
勝どき|月島|佃|豊海町|晴海

京橋地区
八重洲
以前の八重洲は、私にとって週末の死んだ街だった。
ヤエパブができてから、ようやく立ち止まる理由が一つ増えた。ここから東京駅を眺めるのはちょっとロマンチック。でも高い。
八重洲という地名は、オランダ人航海士ヤン・ヨーステンに由来する。1600年にリーフデ号で日本へ漂着したのち徳川家康に重用され、江戸城近くに屋敷を与えられた。彼の名前から「やよす河岸」「八代洲河岸」などの呼び名が生まれ、最終的に「八重洲」になった。
京橋
アーティゾン美術館と私は、だいたい同じ時期に東京で爆誕した。
私が東京に来たのは2019年。長期休館していたブリヂストン美術館は、建て替えを経て2020年にアーティゾン美術館として再開した。それ以来、だいたい3か月に一度は行っている。
近くには国立映画アーカイブがあり、京橋一帯には古美術商や画廊も多い。毎年開催される「東京アートアンティーク〜日本橋・京橋美術まつり」にも行く。最近はTODA BUILDINGも加わった。
ただし、現在の京橋に「京橋」という橋はない。
江戸初期の京橋は京橋川に架かっていた。明治期には石橋となり、1922年に再び架け替えられたが、1960年代に京橋川が埋め立てられ、橋も撤去された。現在は中央通り沿いに、明治・大正期の親柱が残っている。
ここは江戸歌舞伎の出発点の一つでもある。1624年、現在の京橋一丁目付近で猿若座が興行し、のちに中村座と改称した。
銀座
ブランドには詳しくないし、銀座の高いバーで飲めるほどでもない。でも中央区の中で、地図の点がいちばん密集しているのはたぶん銀座だ。
主な理由は画廊。
銀座には約200〜250の画廊が集まるとされ、日本でも特にギャラリー密度の高い地域の一つ。ggg、資生堂ギャラリー、奥野ビル、GINZA SIX内のギャラリー、そのほか各ビルに入っている大小の展示スペースまで、年に一度どころか何度も行く場所がかなりある。
もう一つは歌舞伎。
2021年から2023年4月までは、ほぼ毎月歌舞伎座へ四代目市川猿之助を観に行っていた。最後の一年は最前列に座った回もかなり多い。近くには新橋演舞場もある。
「銀座」という地名そのものも貨幣由来。1612年、幕府が駿府にあった銀貨鋳造機関を現在の銀座二丁目付近へ移し、その「銀座」がのちに地名となった。
1970年には銀座中央通りで歩行者天国が始まり、初日には約23万人が訪れたという。

新富
私にとっては、まず鏑木清方の《新富町》。
1930年の作品で、明治時代の新富町を描き、背景には新富座が見える。《築地明石町》《浜町河岸》とともに、清方が明治の東京を振り返った作品群をなす。
明治初期の新富町は芝居町でもあった。1872年、守田座が浅草猿若町から移転し、のちに新富座と改称。周辺には役者の住居、芝居茶屋、料理の仕出し屋、道具方、囃子方などが集まった。
現在の正式な町名は「新富」。1971年の住居表示実施時に、旧町名「新富町」から「町」が取れ、新富一丁目・二丁目となった。
前の版でAIはここを「新富町は消えた」と書いた。消えたのは「町」の一文字だった。
新富一丁目には、関東大震災後の帝都復興期につくられた木造の看板建築も残っている。
明石町
明石町まで書いたところで、ちょっと無理だった。
一度しか行っていない……でも、かなり好きだった。
ここはかつて築地外国人居留地の一部で、現在も慶應義塾発祥の地記念碑、アメリカ公使館跡、カトリック築地教会、聖路加国際病院、トイスラー記念館などが残っている。
「指紋研究発祥の地」まである。
イギリス人医師ヘンリー・フォールズは築地外国人居留地に住み、日本で指紋を研究し、1880年にその成果を『Nature』誌へ発表した。現在も聖路加ガーデン付近に記念碑がある。
初代市川猿之助も明石町に住んでいた。
でも私にとっていちばん直接的な記憶は、中央区立郷土天文館「タイムドーム明石」。
初めてプラネタリウムを見た場所だった。
2022年に「本の森ちゅうおう」が開館したあと、タイムドーム明石の一般向けプラネタリウム投影は終了。設備自体は現在も残り、中央区内の小学3・4年生向け教育投影に使われている。
一般人は見られない。
クソ。
明石町には、鏑木清方《築地明石町》、川瀬巴水《東京二十景 明石町乃雨後》(1929)もある。
築地
日本に来た一年目に、私はもう豊洲市場へ行っていた。
築地市場がまだあると知ったのは三年目。しかも当時は、今みたいに外国人観光客が大行列していなかった。
移転したのは中央卸売市場の主要な卸売機能で、築地場外市場や築地魚河岸はそのまま営業している。
安さにつられて大きな牡蠣を買ったら、自分で殻を開ける羽目になった……。
波除稲荷神社、築地本願寺。
「築地」という地名もかなりそのままで、明暦の大火後、この一帯を埋め立てて土地を「築いた」ことに由来する。
浜離宮庭園
本当に広い。
また機会があれば行きたい(

川瀬巴水『東京二十景 明石町乃雨後』(1929年)
日本橋地区
ここは何にでも「日本橋」が付く。
名前が長い。
日本橋室町
日本橋、三越日本橋本店、三井本館、三井記念美術館、COREDO室町が集まっている。
三越の前身・越後屋は江戸時代から日本橋で商売をしていた。「三越」という名前も、三井家の「三」と越後屋の「越」を一文字ずつ取ったもの。
1904年には「デパートメント・ストア宣言」を発表し、欧米型百貨店への転換を打ち出した。
三井と日本橋の関係は今も続いているため、室町周辺は「三井村」と呼ばれることもある。
日本橋そのものは、日本の道路のゼロ地点でもある。橋の中央には「日本国道路元標」があり、道路距離の基準となっている。
日本橋小伝馬町
ここにはかつて小伝馬町牢屋敷があり、江戸時代でも大規模な拘禁・刑罰施設だった。
未決囚・既決囚を収容するだけでなく、死刑、敲き、入墨などの刑も執行された。吉田松陰、高野長英らもここに収容されている。
現在は十思公園周辺に関連史跡が残る。
日本橋人形町・浜町
「人形町」という名前は、江戸時代、この一帯に人形師、人形店、人形芝居に関わる人々が集まっていたことに由来する。
元吉原とも関係が深い。江戸初期の吉原遊廓は最初この周辺に置かれ、のちに浅草北部の新吉原へ移転した。
私がよく歩いたのは、人形町駅から甘酒横丁を通って明治座へ向かう道。
あの通りはきれいだった。
2023年5月の市川猿之助奮闘歌舞伎公演も、ここを歩いて観に行った。その後は北山を観るためにも明治座へ行っている。
日本橋蛎殻町
水天宮と、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションがある。
一方は安産祈願で有名。
もう一方には浜口陽三の銅版画と、少しの静けさがある。
日本橋箱崎町
町名の由来には、筑前国の筥崎宮にちなむという説と、かつて「箱池」「箱崎池」と呼ばれる池があったという説がある。
日本橋馬喰町・横山町・東日本橋
日本に来たばかりの頃、都営新宿線をよく使っていたので、馬喰横山駅の名前だけはかなり早く覚えた。
横山くん♥
なんでやねん。
あとになって、馬喰町・横山町が東京でも代表的な問屋街で、特に服飾・繊維関係の卸問屋が集まる場所だと知った。
去年は初めて、開催日限定の「大江戸問屋祭り」へ。
新宿線から羽田方面へ行くときは、馬喰横山で一度地上に出て、東日本橋まで歩いて浅草線に乗り換えることもあった。
江戸時代にはすでに大伝馬町・横山町一帯が奥州街道沿いの商業地で、旅籠や商店、さまざまな商人が集まっていた。そこから大規模な問屋街へ発展していく。
日本橋兜町
兜町は東京証券取引所があることから、長く日本の証券市場そのものを指す地名として使われてきた。
明治期には第一国立銀行、東京株式取引所など近代金融機関が相次いで置かれた。1980年代には、ニューヨークのWall Street、ロンドンのCityと同じように、「兜町」という地名だけで金融市場を指すことも多かった。
証券取引の電子化以降、従来型の証券街としての機能は縮小。近年は平和不動産などによる再開発が進み、旧銀行やオフィスビルがホテル、レストラン、カフェ、商業施設へ転用されている。
「兜町」の「兜」については、平将門の兜、源義家の兜など複数の伝説があり、由来は確定していない。

月島・湾岸地区
月島
何度か、もんじゃ焼きを好きになろうとはした。
やっぱりgetできない。
私はチヂミのほうがおいしいと思う。
月島西仲通りには現在、多数のもんじゃ専門店が集まり、東京でも有名な飲食観光エリアになっている。外国人観光客もかなり多い。
勝どき
「勝どき」という地名は勝鬨橋に由来する。
1940年に完成した勝鬨橋は、中央部の二枚の橋桁が上へ開く双葉跳開式の可動橋。完成当時は「東洋一の可動橋」と呼ばれた。
もともとは1940年に開催予定だった日本万国博覧会の主要入口として計画されていた。博覧会は戦争の影響で開催されなかったが、橋は完成した。
可動部分は約4000トン。二枚の橋桁はそれぞれ約900トンあり、カウンターウェイトでバランスを取りながら、約70秒で70度ほどまで開く構造だった。戦後も定期的に開閉していたが、1970年を最後に開かなくなった。
晴海
自己検閲で去勢された中国本土勢が、ここでタワマンを爆買いしていて、せっかくの「晴海」という名前がもったいない。
戦前には1940年日本万国博覧会の主要会場の一つになる予定で、前売券まで発売されていた。博覧会は結局開催されなかったが、一部の未使用券はのちに1970年大阪万博、さらに2005年愛知万博でも交換利用できた。
戦後の晴海は、実際に東京を代表する展示会エリアになった。1959年から1996年まで晴海見本市会場で国際見本市をはじめ多くの大型イベントが開催され、その機能はのちに江東区有明の東京ビッグサイトへ移った。