
ミーディアム:『100日後に別れる僕と彼』論考②
※できれば「ケアワーカー:『100日後に別れる僕と彼』論考」からご覧ください。シリーズについてはマガジンをどうぞ。
※主として感想についての感想を述べています。
Appendix 1「メディアの暴力」
多くの読者評が本作に「メディアの暴力」という現代的なテーマを読み取り、樹の暴発を「おもちゃにされた当事者の切実な抵抗」と認識している。
だが、この読みは不誠実である。
一般論としてのメディアの暴力という一般的命題を、当事者個人の逆ギレの免罪符として不当に溶接しているからである。
A1-1 主体的参加
確かに、一般論としては真実である。被害者へのメディアスクラムや、加害者とされた人への早すぎたり過剰すぎたりする断罪、捏造や印象操作は、事実として存在する。
――だが、そもそも、このドキュメンタリー企画の前提は何であったか。
持ち込み元は佑馬のサークルの先輩(片桐)である。
すでに破局していた事実を隠蔽し、恋人としてカメラの前に立ち続けることを選択したのは、他ならぬ佑馬と樹の二人である。
むろん主導的であるのは佑馬ながら、樹も後に「お前(佑馬)のために無理をしていた」と認めている通り、自らの意志でその欺瞞のゲームへの参入を承認している。
……と、いう事実群である。
彼らはおもちゃに「された」のではない。
自らおもちゃになることと引き換えに、佑馬にとっては承認や関係性の維持という、樹にとっては一抹の情や住居の確保という果実を得ようとした、責任の主体である。
志穂へのセカンドレイプが不当であるのとは異なり、樹は「戦場に自主的に突っ込んでいった」のであり、撃たれた苦痛を誰かのせいにすること自体が間違っている。
※なお、もちろん樹のBLを描いた人間は別個に批判されるべきであることは間違いないが、「別個に」である。また、樹が佑馬を批判することは、内輪もめではあるが問題ない。
A1-2 檻の中の獣
もちろん、途中でその「無理」が限界を迎え、ゲームから降りたいと願うこと自体は、一人の迷う人間に許された権利である。
しかし、契約放棄に際して彼が取るべき態度は、関係各所への謝罪と、自らの見通しの甘さに対する反省である。
苦痛を語ること自体は正当だが、その責任の所在を他者(BL読者、BL作者、志穂の誰であれ)に求めることは、彼が自ら選び取った公的可視化の帰責のみを外部化する試みであり、語の本来の意味での「自己責任」に帰りつかなければならない。
しかし、樹がBL本棚の前で行った行為は何か。
それは、自ら為した欺瞞から目を背け、カメラを向ける側、あるいはそれを消費する読者層、さらに代表でさえない志穂個人に対して、被害者の座から弾を撃つという、極めて不当な逆ギレであった。
望んで檻に入り、餌を食べておきながら、都合が悪くなると「見世物にしやがって」と飼育員を噛む獣の身振りが、そこにはある。
言うまでもないが、これはトーンポリシングではない。仮に樹が冷静な口調でメディアやBL読者や志穂を非難していたとしても、不当性はまったく変わらない。
カスタマーハラスメント同様、正当性の有無とは「別個に」態様の問題は論じうるし、態様においても加害性が大きいとは評せるが。
A1-3 透明化される加害責任
真に驚くべきは、彼の「被害者仕草」が、作中でも、そして視聴者からも、あたかも抑圧されたマイノリティの正当な告発であるかのように好意的に受容されてしまうという歪みである。
メディアの暴力性という実在するが抽象的な「悪」を参照することで、彼らが犯した「嘘をついて他者の労苦を搾取した」という個別的かつ具体的な加害責任は、綺麗に脱色され、忘却される。
危機に際して嘔吐し機能停止する佑馬と、被害者特権を使って暴論をまき散らす樹。
ここでもやはり、男たちは自らこそが主体となって開始した茶番劇の始末をつける責任から免除されている。
メディアというシステムを悪者に仕立て上げることで、彼らは「傷つきながらも闘った悲劇の主人公」の椅子を無傷で手に入れるのだ。
その椅子の脚が、志穂という一人の女性の、割を食わされたケア労働によって支えられていることにも気づかないままに。
Appendix 2 告発性の去勢
さらに、本作が「メディアの暴力性」という現代的な記号を免罪符として機能させる上で、ドラマ版の尚美が放つテーゼは決定的な役割を果たしている。
A2-1 誠実さの罠
「撮る側の思いは、まずどうでもいい。大切なのは、相手を知ろうとすること」
一見すると、傲慢なメディアの暴力性を排し、被写体の個別性に寄り添う誠実なドキュメンタリストの態度に見える。
しかし、本稿がここで見出さなければならないのは、この言葉が孕む「去勢のロジック」である。それはメディアが本来持つべき告発の主体性を、制作者から剥奪するための罠に他ならない。
A2-2 補助線――ハゲワシと少女
メディア論の極北として、スーダン飢饉の取材で知られるケビン・カーターの「ハゲワシと少女」を補助線に引こう。
このときカーターに、被写体である子供の出自や、何日食べていないのか、さらには今どんな気持ちなのかさえ、「知ろうとする」必然は、撮影の第一義としては存在しない。
なぜならその撮影は、飢餓という巨大な構造的暴力が、今まさに「人々」を傷つけているという告発だからである。そこでは「撮る側の私情=大義(構造を世界に伝え、止めなければならない)」が、「人」の個別的内面への配慮を上回っている。
(なお、撮影後に彼はハゲワシを追い払ったか、少女―実際は少年だったそうだが―が助かったか、取材倫理についての論争は「ナパーム弾の少女」等ともども認識しているが、事後の倫理については本稿では論じていないことを明記する。ただしカーターの事例が今なお倫理的論争の的であることは、むしろ本稿の主張を裏付ける。すなわち、「撮る側の私情」は、「どうでもいい」ものではなく、常に検証と応答可能性/責任を伴う、重い選択の主体であるということである。尚美の言葉は、この重みそのものを消去してしまっている点でも誤っている。)
A2-3 千里眼の仮構
むろん、一瞬を切り取る写真と、100日間にわたって関係性の持続を構築するドキュメンタリー動画を完全に同一視することはできない。ドキュメンタリーにおいては、撮影対象の個別的な事情を「知ろうとする」ことは、映像の質に資する可能性がある。
では、ここで一つの思考実験を行ってみよう。
千里眼を持つディレクターがいて、一目で佑馬たちの偽装を見破り、彼らを説得して、「普通に別れること」を伝えるドキュメンタリーへと切り替えたとする。
そのディレクターは、メディアの作り手として高く評価されるであろう。なぜなら、「睦まじい同性カップル」という嘘の奥にある「人間の生々しい一致と不一致」という、より巨大で批評価値のある真実を発見し、真実のほうをこそ社会へ伝達したからだ。
この意味において、尚美の言う「知ろうとする」ことには、ドキュメンタリーの技法・職能としての一面の真実が含まれている。
※他方、佑馬と樹の偽りを知りながら、彼らの望む映像を完璧に仕上げるディレクターも、それはそれで評価されるであろう。樹が途中で離脱しない前提でではあるが。
しかし、だからこそ尚美の「撮る側の思いはどうでもいい」という言葉の欺瞞が際立つ。
思考実験におけるディレクターが偽装を見破るのは、theyが「ドキュメンタリーとは真実を伝えるものである」という私情=大義を保持しているからに他ならないためだ。
私情に駆動されなければ、千里眼という能力は何の意味ももたない。
撮る側の主体的な問いを「どうでもいい」と切り捨てる尚美の論理は、私情に基づき優れたドキュメンタリーを作るための能動的な取材・ハントという正論を、私情を捨てて相手の見せたいものを「分かってあげ」、彼らの感情をなだめてあげるケア労働と、都合よく溶接して志穂に押し付けているのである。
さらに、もっとも注目すべき事実は、思考実験におけるディレクターは、撮られる側の表面上のお気持ちを粉砕していることである。
樹の「撮られたくない」気持ちも、佑馬の「嘘を撒き散らして世間によく思われたい・樹と復縁したい」気持ちも、「普通に別れる」ドキュメンタリーとは合致しない。彼らの私情よりも、事実に即したドキュメンタリーという、自らの私情=大義を優先しているのである。
むろん、theyは彼らが同意しなければ、番組自体を諦めることもあろう。
――ただし、最初から計画主体たる佑馬らがそういう企画を持ってくればよい、は物語でも思考実験でも完全に真であり、志穂をセカンドレイプするつもりは全くないことを申し添える。加えて片桐も完全なる被害者である。
A2-4 世界の檻
志穂は実際に、その悲しいほどの誠実さによって、破綻した現実を「別れと傷のドキュメンタリー」へと見事に作り替えた。
しかし、その誠実さを発揮すれば発揮するほど、彼女は自ら抱いた「世界を変える」という私情=大義をどうでもいいと切り捨てられ、男たちの「寂しい」インナーチャイルドを慰めるためのケアワーカーへと転化させられていく。
本作の罠は、「ディレクターとしての正しい職能」を突き詰めていけばいくほど、なぜか自動的に「男たちのケアワーカー」というジェンダーの檻に閉じ込められてしまうように、世界のルールが初めからハッキングされている点にある。
「私は春日さんの人生を変えました。長谷川さんがいなくなったのも、春日さんが転職したのも、私の仕事がきっかけです」
「もし春日さんがドキュメンタリーを観て、あれだけ引っかき回してこんなものかと感じたなら、遠慮なく仰ってください。どれだけ罵倒されても構わない。私は今日、そのためにここに来ました」
It's all Greek to me!!!
地獄のような傍証
鳴海唯「100日後に別れる僕と彼」インタビュー
特に印象に残っているシーンは
最終話のラスト、佑馬と樹の独白のシーンです
独白のシーン……独 白 の シ ー ン !