
ケアワーカー:『100日後に別れる僕と彼』論考
※本稿は小説版を対象とする論述です。シリーズについてはインデックスを参照してください。
序論 なぜ志穂の物語なのか
浅原ナオトの『100日後に別れる僕と彼』。
多くの感想のように、プロットを追えば、この物語はビターながらも開かれた結末を迎えたように見える。
春日佑馬は元恋人との訣別を乗り越え、長谷川樹も言うべきことを言い、ドキュメンタリーは放送を控え、茅野志穂は静かな覚悟を語る。
一見、誰も断罪されず、誰もが自分なりの決着をつけたかのような幕引きである。
だが、本当にそうか?
志穂と佑馬は、しばしば「似た者同士」として本文中で並べられる。ともに「世界を変えたい」という大義を掲げ、ともにその大義のために他人を巻き込む。
この並置は、一見公平な物語的配置のように見える。
しかし本稿が明らかにしたいのは、この並置が実際には全く公平な展開をしないということである。
男は最後まで「世界を変える」側の主体であり続け、男の世界は確かに変わる。一方の女は、当初おなじ大義を掲げながら、物語が進むにつれてその大義の主体であることを剥奪され、ケアワーカーへと役割を変換されていく。
作業仮説としての序論を念頭に、以下を読み進められたい。
1章 真のターニングポイント:樹の暴発
一般に、志穂の物語のターニングポイントは日出社長への激怒であると受け取られやすい。志穂が初めて感情を爆発させ、「女だからって舐めてんじゃねえぞ!」と叫ぶ場面は、確かに劇的である。
しかし本稿は、物語の実質的な分水嶺はそれ以前、長谷川樹が佑馬のBL本棚を指し示し、志穂に「人のセックスに萌えるな」という趣旨の弾劾を浴びせる場面にあると考える。
ここで強いられた沈黙、受けた傷こそが、化膿し、社長への怒りとそれに続く崩壊まで一直線に繋がっているからである。
1-1 「責任者として」
佑馬の家に他の男性を連れ込み、ことさら性行為をした樹。
後述するが無責任にも戦線離脱した佑馬をよそに、志穂は「長谷川さんの気持ちを汲み取れず、不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。責任者として謝罪します」と謝罪する。
むろん、単に場を収めるだけの発言ではある。
だが、まず、彼女が場を収めざるを得ない構造には問題がある。
そして根本的に、この企画のイニシアチブは、佑馬(や、そもそもの持ち込み元である片桐)にある。二人がすでに破局しているという事実を隠し、偽りの恋人を演じて撮影を受け続けたのも佑馬の判断である。樹に強いたのも佑馬である。
にもかかわらず、志穂は「責任者として」という言葉で、本来彼が負うべき帰責までもを、自ら進んで吸収してしまっている。
何故かと言えば、場を収めざるを得ないからである。当の男はその場で嘔吐して機能停止しているからである。
1-2 BL本の弾劾
構造に強いられて頭を下げた志穂に対し、樹はBL作品を指し、「あそこの本、あんたも読んでるんだろ」と迫る。むろん事実である。
しかし、そこから導かれる後半の告発――ジャンルの読者であることが、目の前の樹という個人の性行為に「欲情している」ことの証明になる――には、明確な論理の飛躍がある。
(また、BL作品が単純な性的消費物のみでないことも、『真夜中の天使』『翼あるもの』『舞え水仙花』をみるだけでも明らかである。)
いずれにしても、仮に志穂がBLというジャンルを性的な関心とともに読んでいたとしても、それは樹個人への欲情を意味しない。
樹個人に欲情する誰かがいたことは事実だが、BL読者が全てそうであるわけではない。樹が全てのBLに出演しているとでも言うのであろうか。
ジャンルと個人は別のものであり、樹はこの二つを意図的に、あるいは激情の中で無自覚に、混同している。
そしてきわめて重要な事実は、この論理の粗さが、物語の中で一度も検証されないことである。
このときの志穂は黙りこむ。
樹自身も、自らは個人として見てほしいと述べつつ、BL読者に投げつけた十把一絡げの非難を振り返ることなど決してない。
飛躍を含んだ告発が、誰にも訂正されないまま、物語の"真実"として定着してしまうのである。
1-3 佑馬の不在――嘔吐という離脱
改めて、この場面での佑馬の行動を見よう。
樹が別の男を連れ込んでいたことを知った直後、彼は激昂する。しかしこの怒りは、個人間の感情に過ぎず、彼が表面上掲げる大義を毀損したというものではまったくない。その後、樹が志穂を名指しで攻撃している間、佑馬は一言も割って入らない。
つまりこの場面は、当事者の男二人の間で、女性だけが誰の擁護もないまま独りで矢面に立たされる、という構図として完成している。
これは本稿が以後の章で繰り返し確認していく物語の力学――女性は世界を変える存在ではなくケアワーカーである――の、最初にして最も凝縮された実例である。
2章 志穂の暴発、尚美の虚偽
表面上のターニングポイントである、社長の性的な発言に対する志穂の暴発は、1章から必然的につながるものであり転換点ではない、というのが本稿の主張であった。
とはいえ、志穂の暴発はともかくも、その後の尚美のテーゼを分析することは非常に重要である。
2-1 志穂の暴発
この場面の引き金は、山田の「もう少し待ってくれれば」という、おおむね筋の通った提案を、志穂が高圧的に撥ねつけたところから始まる。そこに日出社長が割って入り、両手を自分の胸に当てて「せっかく便利なものついてるんだから、揉んで落ち着いたら?」と言い放つ。
社長の仲裁は、内容としては誤っていない。この場は本来の目的を果たしづらい不要な緊張状態にあり、鎮静化させようとすること自体は正しい判断である。問題は、彼がその正しい判断を、態様として性的な形でしか実行できなかったことにある。
したがって、この場面全体を「志穂の正当な怒り」として一括りにするのは誤りであるし、だからこそ彼女自身も気落ちしている。いっぽうで、彼女の暴発には溜まり溜まったものがあったことも事実であり、その大きな一つが1章である。
よって、これは表面上の派手さとは裏腹に、火ではなく煙にすぎない。
2-2 尚美の虚偽
尚美の行為は、一見道に迷った後輩を諭す優れた師匠のように見える。だが、実際には、全くそうではない。
「あなたの葛藤なんて、ドキュメンタリーにとってはどうでもいいの。それはあなたがあなたの人生でどうにかするもの。(略)ドキュメンタリーにそれは乗らないし、乗せてはいけない」
一面の真実はある。仕事と育児の両立に悩むディレクターであっても、成功した女性のドキュメンタリーを求められれば、職務専念義務がある。
だが、この場合の志穂においては、私情とドキュメンタリーの大義は合致している。
本件において私情を捨てよと命ずることは愚行に過ぎず、個別性を唱える物語からの決定的な逸脱である。
一面の真実を接合することで、誤りを受容されやすくすることは、ウィルスや細菌の典型的な手法である。
「あなたは春日さんや長谷川さんを知る側で、分かってあげる側。それをちゃんとやろうとした?」
また、これも一面の真実であると同時に、分かられようとしなかったのはそもそも佑馬(偽装カップルだと「知」られては困る)であり樹(見世物にされたくない)であることを無視した誤りでもある。そのウィルス的な機序がいかなるものかは、数行前を参照されたい。
ドキュメンタリーのレベルでは、志穂は十分に善管注意義務を果たしていたと言えようし、逆に踏み越えることこそ「私情」である。
「それでもこうなったのは、あなたが長谷川さんに触れることを避けてきたからじゃないの?」
これに至っては真実のような雰囲気だけで、実態ある真実は無い。
雰囲気、あるいは一般論としては、AだけでなくBとも会話して信頼関係を築くのは重要である。だが、今回樹と信頼関係を築くと何が起こるか。
「佑馬と違ってあなたはいい人なので打ち明けます、もう別れてます」「……え」
こうなるか、
(佑馬と違ってあなたはいい人なので偽りを続けます)
こうなるか、である。まさか後者を望むわけではあるまい。
樹をグリップできず破綻に至った原因は、100パーセント、佑馬にあり、被害者への非難はセカンドレイプである。
このように、ありとあらゆる点で破綻している論理が、毒として志穂に浸透する。
浸透させる尚美自身の醜い私情については、物語の中でも認められているので、その点は論じない。
ただし志穂が「今なら、いくらでも尚美さんを満足させられます」とその醜い私情に寄り添っている、ケア労働者となっていることは、注目してよい。
2-3 物語が志穂に与えた致命的な毒
この作品の毒の作用機序が、ようやく正確に見えてくる。
毒は、完全に根も葉もない濡れ衣ではない。そうであれば、解毒は容易である。
しかしこの物語においては、むしろ、一部正当な自己検証(苛立って山田に高圧的であったこと、作品向上のために樹も見ておくべきであったこと)と、不当な断罪(正当な相手に正当に怒ったことの恥化、樹の第一義的グリップは佑馬が行うべきであること)を、意図的にか無自覚にか、分離不可能な形で融合させている。
「めちゃくちゃ、『女』って感じじゃないですか」は、この融合の完成形である。
「焦りに駆られて山田に強く当たった」という検証に値する反省と、「性的発言に対して正しく怒った」という反省の対象になり得ない行為が、同じ「女」という一語の中に溶け合わされてしまう。
前者だけを反省するなら健全な自己修正だが、後者までもがその反省の中に巻き込まれることで、志穂は「ハラスメントに正しく怒ったこと」までも、女性性に紐づく恥として学習してしまう。
これは、1章で確認したBL弾劾の構造と、全く同じ接合の型である。BLを読んでいるという事実と、だから樹に欲情しているという虚偽。視聴者内およびBL内の多様性の忘却。第一義的責任の所在の無視とその責任者の戦線離脱。
一片の真実に、無関係な断罪を溶接し、両者を抵抗不可能な一つの塊として押しつける――これがこの作品全体を貫く加害の文法であり、この場面は加害の文法が、志穂自身の自己認識の内部にまで浸透した瞬間として記録されるべきである。
2-4 志穂と樹の対比
ここで1章と本章を並べて検討する。
樹の暴発と、志穂の暴発は、形式上、驚くほど相似している。どちらも、実際に受けた不当な扱いへの、正確に制御しきれていない怒りの発露である。しかし、その後の処理のされ方は相似形とは言い難い。
樹の暴発は、内容に飛躍があり、そもそも向ける相手さえ間違っていても、以後の物語の中で論理が検証されたり、樹自身が恥じたりする場面は一度も描かれない。
彼の怒りは、彼が置かれた抑圧の証として、無条件に肯定される。物語によしよしされる、と言ってもよい。
一方、志穂の暴発は、内容において樹の暴発よりはまだしも標的選択的に正確であったにもかかわらず、直後に本人自身の口によって「女って感じ」という自己嫌悪の対象へと変換されてしまう。
同じ「感情に任せた暴発」でありながら、一方は検証を免除された真実として、もう一方は恥として処理される。
かかる落差は、この物語では、怒る者の属性によって、感情の正当性そのものの適用範囲が変わってしまうことを残酷に示している。
2-5 「志穂ちゃん」呼びについて
なお、理解を得たように見える社長だが、志穂の呼び方は最後まで「志穂ちゃん」である。山田についても「志穂さん」であり、彼が男性の先輩を「太郎さん」と呼ぶ人物であるとは思えない。やや薄暗いものであると指摘しておく。
2-6 どの口が
ところで。
樹はこのシーンで「カメラ回されて、見世物にされて、性に合わねえわ。他人の生き様を玩具にすんなっての」と言う。
だが、その彼がしていることは、すでに別れていることを見せつけるために他人を連れ込み、ことさらに佑馬に性行為を見せつけることである(志穂らが居合わせてしまったのは偶然だとしても)。
他者を見世物にし、玩具にしていると評するほかに、何と言えるだろうか?
3章 物語は何を真とするか
本章で検討の対象となるのは、以下の一節である。
「だから世界を変えようとする。新しい色を加えるのではなく、全く違う色で塗りつぶす形で。長谷川は、きっとそれを察したのだろう。志穂や春日の語る『世界を変える』が、世界にありのままを受け入れさせるという意味ではなく、世界を自分好みに作り変えるという意味だと正しく理解した。だから警戒したのだ。塗りかえられた世界に居場所がないと思ったから、その試みに抵抗を示した」
この一節は、2章で確認した「めちゃくちゃ『女』って感じじゃないですか」という自己嫌悪の直後に置かれている。
つまり、尚美との電話によって注入された毒(正当な私情=大義を女性性への嫌悪に変換する回路)が、志穂という人格全体への総括的な断罪にまで拡大されている。
3-1 トートロジー、もしくは進次郎構文
「世界を変える」という言葉から、「世界を自分好みに作り変える」という意味を導き出すことに、「察する」能力は必要ない。
「変える」とは、「作り変える」ことである。
また、自分の嫌いな形に作り替える変人もいないから、「自分好みに」も自明である。
それを「正しく理解した」とわざわざ強調するテクストは、何も語っていないに等しい。ここには、実質を伴わない修辞的な重々しさだけがある。
3-2 偽りの二項対立
より深刻なのは、このテーゼが掲げる二項対立である。
「世界にありのままを受け入れさせる」ことと、「世界を自分好みに作り変える」ことは、対立する二つの目標として提示されている。
しかし、「志穂や春日」が認識している現実、すなわち女性が二級市民扱いされる、同性愛者が偏見の目で見られる、ことを踏まえれば、この二つは同じ目的の異なる形容にすぎず、対立するものでは決してない。
彼女らの認識する現状の世界とは、女性やLGBTQの「ありのままを受け入れていない」世界である。
ありのままの個人であることを受け入れず、性的玩弄物とのみ見たり、異様な存在として見たり。
であるからして、世界を「自分好みに作り変える」とは、即ち「ありのままを受け入れ」るようにすることである。「作り変える」ことと「ありのままを受け入れさせる」ことは、同義であって対義ではない。
あたかも「世界を自分好みに作り変える」道以外に、志穂たちが選ばなかった、より穏当な道があるかのように書いているが、具体はどこにも示されていない。
3-3 全く違う色とは何色なのか
「新しい色を加えるのではなく、全く違う色で塗りつぶす形で」という一文も、同様に空虚である。
志穂が実際に目指しているものは、「舐められない」「人間として扱われる」という、既存の枠組みへの参入の要求であって、他者の生き方を塗りつぶすことを含意する具体的な主張など一度も語られていない。
この「全く違う色」が指す内容は、最後まで定義されない。定義されないまま、汚名だけが彼女に着せられる。
3-4 一人称的三人称と物語の主張
むろん、これは志穂自身の内面が生成した自己弾劾であり、物語が真とする批判だとこの時点で断定はできない。「長谷川は、きっとそれを察したのだろう」という推量も、彼女が自分に対して行っている、想像上の断罪である。
では、一人称的三人称のテーゼは、誤謬として掲げられているのか、真実として掲げられているのか。
もし誤謬であるなら、物語のどこかで、志穂が世界を変える側の主体として振る舞い直す場面、彼女自身の大義である女性が人間扱いされる社会のために、再び立ち上がる姿が描かれるであろう。
しかし、それは一度も描かれない。代わりに描かれるのは、樹と向き合うという、そして佑馬の主張を伝えるという、ケア労働に自らの「私情」を明け渡していく姿だけである。
100日目における「対話」とはなにか。テクストが志穂の声を消しているとおり、それは対話ではなく、佑馬と樹による一方的な主張の垂れ流しである。
4章、6章で考察するように、彼らの主張などいくらでも論駁できる。少なくとも、健全な疑問を呈することができる。それが対話である――が、ケア労働は疑問を呈さない。苦情/主張を傾聴するというケア労働が、彼女の辿り着いてしまった、作品が辿り着かせた、「対話」である。
一人称的三人称のテーゼが、誤謬として掲げられているのか、真実として掲げられているのか、もはや明らかであろう。少なくとも読者がテクストから受け取る効果として、比重は明白である。
4章 佑馬とは何なのか
志穂をかくも搾取して、受益する者は誰か。
まずは春日佑馬を見よう。彼は、直接に志穂を攻撃したことはない。しかし、彼の不作為こそが、搾取の構造を静かに、確実に形作っている。
4-1 BLシーンでの沈黙と爾後の怠慢
1章で確認した通り、樹が別の男を連れ込んでいたことを知った直後、佑馬は激昂する。
しかしこれは私情への反応であり、企画の当事者としての怒りではない。そして、樹が志穂を攻撃する間、佑馬は吐瀉物にまみれている。
自分の痴情のためには声を荒げられるが、他人の名誉のためには沈黙する、という選択は、実に評価に値する。
狂気に陥った――あるいは装った――A級戦犯の姿を思い浮かべることは、さして困難ではあるまい。
さらに重要なのは、樹が「出て行く」と宣言した後の行動である。この企画の主体であり、樹を巻き込んだ張本人であるにもかかわらず、佑馬が主体的に樹を追いかけ、探し、対話を試みる場面は一度も描かれない。
「一週間様子を見て、状況に変化がなければ茅野たちで対応を決める」という決定を、佑馬は「無条件で受け入れ」、通常業務に従事している。
「佑馬はドキュメンタリーの主役ではあるが、投資をしているわけではない。進退を決定する権利なんて、最初からあるわけがなかった」
これは実に奇妙な論理である。自分自身の恋人が失踪し、関係が破綻の淵をはるかに通り越した状況で、「決定権がない」という理由にもならない理由によって、当事者としての行動を放棄している。
企画の主体でありながら、危機に際しては観客の位置に後退する。カップルでありながら、相方を探そうとはしない。この人を見よ。
4-2 フリーライダー
樹の一定の信頼を得たのは山田であり、樹の過去を調べ上げたのは志穂である。
志穂は「人間扱いして欲しいと願うあまり、他人を人間扱いすることを忘れていた」という、大義を放擲させられたことはさりながらそれそのものとしては誠実な省察に基づき、樹を取材によって理解し直すという方針を自らの意志で立てる。
彼女の言葉を聞いた佑馬は言う。
「僕も、一緒について行っていいんですよね」
驚くべき受動性である。
志穂の労働は、すべて佑馬のための土台として消費され、彼女自身が果実を受け取ることは、一度もない。樹との和解の場に立ち会うことも、恋人の丘での会話を聞くことも、真の意味での対話をすることも、ない。
4-3 Does he take sugar?
恋人の丘の場面で、佑馬は極めて重要な言葉を樹から受け取る。
「お前は俺の自我を認めてないって言ったけど、断らなかった判断も含めて俺の自我なんだよ。長谷川樹はノーを言えないから、代わりに自分が全部考えてやらなきゃならないなんて方がよほど自我を認めてない。それは大人と子どもの関係だ」
この言葉を受けて、佑馬自身も一人称的三人称でこう反芻している。
「――許せるなら、許してもいいだろ。いつかの樹の言葉を思い出す。大事なのは結果ではなく、自分で判断すること。そしてその判断に他人が口を挟まないこと」
つまり佑馬は、この瞬間、樹の主張の核心――自我とは、拒否する権利も含めて初めて成立するものだ――を、正確に理解している。アリストテレスの『詩学』において、選択が性格を示すとしているとおりである。
しかし、ああ、しかしながら、彼は直後、こう告げる。
「俺たち、別れよう」
理解していたはずの教訓と真っ向から矛盾する言葉である。樹に決断を委ねず、佑馬が先に結論を提示している。
たとえ結論が樹の望む方向と一致していたとしても、構造としては「相手に判断させない」という、まさに樹が告発していたパターンの反復に他ならない。
彼はここで、自らの私情に基づき、「別れないでくれ」と乞い、樹に「断る」という選択をさせるべきだった。たとえ結果が同じであっても、樹に初めて拒否権を返す行為になったはずである。
彼は砂糖を入れるのか?
※なお、理論上は別れようへのノー、すなわち「別れたくない」はありえるが、実務上このときそうなることはありえないため、別れようも否定する権利を返しているというのは強弁に過ぎよう。
4-4 運命論への自己陶酔
佑馬は「これは天災だ。自然現象だ」と自らに言い聞かせる。「何度繰り返しても同じである」とカメラに言う。
運命論は、便利な避雷針である。何をしても同じであれば、己の責任を真摯に振り返る必要などないからだ。
志穂に対して、彼は同じ言葉を言えるのだろうか? ああ、言うであろう。
このような人物に会いに行くことが「天命を迎えに行」くことであってよいだろうか? 世界を変えようとした女性の天命は、ただひとりの男であるというのだろうか。
※志穂のほうは「天災だと思った」と自己批判させられているのだが。虚偽を持ち込む佑馬と、自己開示しないのに自己理解を求める樹に遭遇するほうがよほど「天災」である。ダブルスタンダードもはなはだしい。
4-5 セーブポイント
余談だが、セーブポイントという比喩もやや奇妙である。通常、セーブとは「リセットすればやり直せると思うゲーム感覚」のような批判的文脈で使われ、本作の「現実世界という名のダンジョンの中で見つけた、敵の出現に怯えず息をつける唯一の場所」とする用法は寡聞にして知らない。
ゲームの実運用的にも、確かに敵は出ないが、HPが回復する場所ではないので、シニフィエである「サークルで息をつける」ことと照応しない。
読書家である佑馬なら「登山や探検のベースキャンプ」などの正確なシニフィアンを選べるはずであるし、そもそも変に例えなくても「居場所」という普通名詞(かつ立派なテクニカルターム)を使えばよい。
よしんばどうしてもゲームの比喩を使いたいとしても「宿屋」「町」のほうが的確かつイメージにも合致する。
彼が自分の居場所、実際には他者に満ちた、恋人ができ、仲間ができた場所を、ことさらに「他者のいない装置」の比喩で語ってしまっているのだとしたら――この論考全体で確認してきた作品の性向、すなわち志穂を、志穂そのものではなく、男をケアする機能として捉える傾向と、余談の域を越えて符合するのかもしれない。
サークルも、樹との関係も、志穂も、彼にとっては「そこにいる人々」ではなく「自分が息をつける機能」としてのみ認識されているとすれば、比喩の不正確さそのものが、彼が他者をどう見ているかを、図らずも漏らしてしまっている……と。
5章 山田という不整合
山田は、いわゆる「Just Folks」の粗雑な模倣のように見える。しかし、彼は物語の都合で動かされる人形でしかない。
江の島で志穂に好意を打ち明けた感情は、久保田への嫉妬じみた感情を示した段階から、読者にとっては明瞭である。
しかしながら、樹の暴発シーンにおいて彼は「二人とも、おかしくないっすか」と、樹の心配より善後策の検討を行う志穂と佑馬に苦言を呈する。
まず、この「二人とも」という括りは、非対称な当事者を対称に扱う誤りである。
佑馬には、出演者として撮影を成功させる義務、パートナーとしての樹への義務、そして単純な感情としての心配という、三重の当事者性がある。
一方志穂にあるのは職業的義務だけであり、しかも彼女はこの直前、樹その人から人格批判を受けている。
なぜ、志穂に佑馬同様の義務が生じるのであろうか。
※ところで、このシーンは当然ながら樹が出て行った直後である。先ほどまで泥酔し嘔吐していた佑馬は、ずいぶんと早く復活するものだ。志穂をかばわねばならないときには無力化し、ほとぼりが冷めれば起きてくる。この人を見よ。
そしてキャラクターとしても、山田が志穂に慕情を抱いているなら、直前に樹の暴言を受けた志穂に対し、佑馬とひとくくりにした批判をするとは思い難い。
これは志穂の暴発シーンにおいても同様で、是非としては非ながら、他者へのセクハラは看過・加担しても、身内へのそれに対しては怒りを覚えることは自然な感情である。
ひとくくりに志穂を含めた非難を口にする姿は、物語の都合か、あるいは、彼も志穂という女性に樹という男性のケア労働を無意識に期待しているからか。
なお、「離れた実家の近くでめっちゃでっかい地震が起こって、最初に心配するの家のローンじゃないでしょみたいな話っす」も逆ご都合主義である。この場で「樹を心配せよ」という趣旨が伝われば物語は終わるのだから。
単純に「長谷川さんの心配をしないんすか」と言えば済むし、よしんば比喩を使いたいとしても「実家の近くで地震があったときまず心配するのは親の安否でしょ」で十分である。
論語の「厩焚けたり。子、朝より退きて曰わく、人を傷えりや、と。馬を問わず」の二文目がなければどうなるであろうか。
6章 樹とは何なのか
もうひとりの受益者は、むろん樹である。彼は受益に値するか。
6-1 物語によしよしされた人
1章で確認した通り、樹が志穂への非難において用いた論理には、明確な飛躍があった。
だが物語はこの論理を、一度も問題として扱わない。樹自身がこの発言を悔い、撤回し、あるいは検証し直す場面は、テクストを通じて一つも存在しない。
むしろ後述のとおり、彼の最終的な他者像は、この時の認識をそのまま引き継いでいる。
「見世物にされ続けてきた」という、現象としては一定程度正当な批判は、志穂を不当に断罪した非難に溶接され、無傷のまま保存される。
6-2 樹の運命論と、「寂しいですよ」
物語終盤、樹は自らの資質について、極めて率直な述懐を残す。
そして、結婚という制度化された関係を仮に持ちかけられたとしても、佑馬は断っていただろうという趣旨の発言とあわせて受け、佑馬はこう結論づける。
「なんてことはない。要するに長谷川樹という人間が、そういうやつというだけなのだ。間違えたわけでも、足りなかったわけでも、合わなかったわけですらない。どこの誰が相手だとしても落ち着く気なんてなかった。それだけの話」
これは、4章で確認した彼の「天災」という自己弁護と同型の運命論である。ただし、樹の場合、この運命論は同時にもう一つの真実と両立していることに、彼は気づいていない。
「寂しいですよ」
構造的な不一致、永続を拒む自分の性質を認めながら、なお「寂しい」と言える。運命論と、それでもなお残る喪失の痛みは、両立しうる。
樹の中では、この二つは矛盾なく共存している。ただし――
6-3 「そういうやつら」という括り――個体化の要求と、その不履行
本章で――あるいは本稿全体で最も重要な指摘は、ここからである。
樹は、佑馬という一人の人間について「あいつは『普通』なんですよ」と、あくまで個人として語り始める。しかし、この個人の観察は、次第に集合的なカテゴリへと拡張されていく。
「この先の時代を作っていくのは、どうしたって俺みたいなやつじゃない。世間に認められたくて、祝福されたくて、日の当たる場所で生きていきたいやつが世界を変えていく」
ここで樹は、佑馬という一個人への評価を、「日の当たる場所を目指す側」という、顔のない集合へとすり替えている。
そして重要なのは、樹自身が、まさにこの種のすり替えを拒否する論理を、既に自分の言葉として語ったことである。
「ゲイに色々なやつがいるように、熱帯魚にも色々なやつがいる。だったら暑がりな熱帯魚がいてもおかしくない」
これは、カテゴリ内の多様性を擁護する論理である。
ゲイという括りの中にも、佑馬のような人間もいれば、樹のような人間もいる。一つの型に押し込めるな、というのが、この比喩の核心だ。
※比喩は佑馬には通じていないし、さすがにこれを理解しろというのは樹自身さえ認めているように酷であると思うが、しかし所詮モノローグであり、佑馬は不在であるため異議を言えず、志穂は存在しても異議を唱えない。
だが、樹はこの同じ論理を、「日の当たる場所を目指す側」には一度も適用しない。
「そういうやつら」の中には、佑馬のように、大義を掲げながら、その実、樹への執着と承認欲求を満たすという私情に大きな比重を割き、しかも危機の場面では一貫して他人任せである人間もいる。
しかし同時に、志穂のように(尚美の不当な説教によって強制された結果ではあるにせよ)取材を通じて樹という個人を知ろうと動いた人間もいる。
この二人は、「日の当たる場所を目指す」という表面上の括りでは同じでも、他者への向き合い方において、全く違う個体である。
むろん他の人々においてをやである。
樹は、佑馬と志穂を区別しない。「そういうやつら」という一語の中に、両者を等しく溶かし込んでいる。
自分は個人として見られたいと願いながら、他者は集合体としてしか見ていない。BL糾弾の場面においてもそうであった。
これは、熱帯魚の比喩で求めた正当性のある要求の、要求者自身による不履行である。
そして、この不履行は、物語の中で一度も咎められない。
志穂は、「人間扱いして欲しいと願うあまり、他人を人間扱いすることを忘れていた」と、自らを厳しく検証し直した。
樹には、検証の苦行など用意されていない。彼は「俺みたいなやつがいることも忘れないでいて欲しい」という、個体化を求める願いを、物語の最後の言葉として残す。だが、彼が「そういうやつら」と一括りにした中には、彼の願いをまさに体現しようとした人間が含まれていたことに、彼自身は最後まで気づかない。
そして物語も、気づかせようとはしない。
いや、志穂に対しては最後に「信じてますから」とは言っているが、過去の反省はなされないし、志穂の側にも樹の暴言や非協力的態度への正当な批判を口にする機会は与えられない。
信じているというのも、自分の言い分を伝えてくれるケア労働を信じている、に過ぎないとも言える。
志穂に課される役割だけが、最初と最後で、異なる。佑馬に「罵倒されても構わない」と自己を差し出す志穂の姿は、ケアの搾取でなくてなんであろうか。
自分が人間として見られたいなら、他人も人間として見なければならない。
この規範は、志穂には不当なほど過剰に課され、佑馬には課されない。そして樹にも決して、課されない。
これが、これまでの全ての章を通して確認してきた構造の、最後の、そして最も悲痛なまとめである。
6-4 Are you an idiot?
なお、樹・山田・佑馬の居酒屋のシーンは、作者が樹を立てるシーンとして描いているだけに、非常に興味深い。
「あの姉ちゃん、他人を信用しないタイプだよな。分かるわ」
「姉ちゃん」からして絶句するしかないが、「他人を信用しないタイプ」は明白に間違いである。
なぜならば志穂は佑馬を「信用し」ている。
実際にはすでに別れているという事実を隠蔽しているので信用してはいけない相手なのだがそれはさておき、他人を信用しない「タイプ(=個人として見ていない!)」でないことは明らかだ。
非協力的な樹や、偏見をあらわにしている未熟な山田を、個別に信じていないだけである。
※なお山田の「気が強いんすよね」という認識のほうがまだしも正確で、男社会で肩肘張って生きているから「気が強い」のであり、全員を信用しないわけではない。男社会だという根本を認識していないので山田も不十分ではあるが、樹よりはまだしも知能がある。
「まあ君からしたら、好きな女には頼りにして貰いたいわな」
そう気づくのは(佑馬以外)当然なのでなんらの知見でもないが、「女」が、How dare you?である。なぜ「好きな人には」ではいけないのか?
志穂は女ではなく人間として見られたい人物なのだが。
「当たってても外れてても怒られるんだから、そういうこと言っちゃダメだって」
ここが決定的に愚かである。
「怒られるから」ではない。偏見だから、言ってはいけないのだ。
怒られなくても言ってはいけないことがあるし、正しいことなら怒られても言わなければならない。
山田が――「好きな」志穂に言われたからではあろうが――「『女が男の前で機嫌がいい時は恋愛』は偏見だって」と、言ってはいけない正確な理由を少なくとも言葉としては記憶し、この場で樹に伝えているにもかかわらず、樹の言い草はこれである。
「おまえなよなよしてゲイみたいだな」と言い、「『ゲイがなよなよしている』は偏見だって」と言葉としては反省した人間に、「当たってても外れてても怒られるんだから、そういうこと言っちゃダメだって」と説教するのだろうか?
樹の知性は山田にも劣り、「人間として見る」どころか「姉ちゃん」「信用しないタイプ」「女」と雑なくくりをし、人間の倫理的な指摘を女の機嫌――怒られる――にすり替える人物だと、結論できてしまう。
だが、しかし、作者は樹をこそ師匠として描いている。もはや言うべきこととてもない。
総括
男は最後まで「世界を変える」側の主体であり続け、男の世界は確かに変わる。一方の女は、当初おなじ大義を掲げながら、物語が進むにつれてその大義の主体であることを剥奪され、ケアワーカーへと役割を変換されていく。
作業仮説は、どうだっただろうか。
1章で見た樹の弾劾は、全体と個人を不当に溶接したものであった。にもかかわらず、その不当性は一度も検証されず、嘔吐する男をよそに、女にだけ謝罪と沈黙が課された。
2章で見た志穂の怒りは、形式として同様に不当な溶接があったことは確かであるが、相対的に正確さが高いのは志穂でさえあったにもかかわらず、女のみが恥に変換された。
3章では、この恥の変換が、もはや個別の場面を超えて、彼女の思想そのものへの、検証に堪えない起訴状にまで拡大されていたことを示した。
4章・6章は、この構造の受益者を確認した。改めて対比すれば、その落差に眩暈がするばかりである。
5章は短いものであったが、山田までもがケア労働を求めていたという派生の読みが正しいとすればより救いがない。
これらすべての帰結が、志穂のケアワーカーへの変換である。
「世界を変えたい」という大義を掲げた女が、最終的に配置される場所は、一人の男の心の始末をつけるケア労働であり、しかもそれは、彼女が誰よりも嫌悪していた「女」という役割の、最も伝統的な形そのものだった。
物語は、この転落を悲劇として提示するのではなく、肯定的な体温のまま幕を閉じる。
彼女の大義は、失敗する資格すら与えられていない。
「ケアワーカー」という表題は、告発であると同時に、要求でもある。
彼女に押し付けられた歪みを、正しくケアすること。
むろんそれは自己の内面においてであり、他者を道具化することではない。
――正しい対象へのケアこそが、本稿が最初から最後まで求めてきたものである。
「ミーディアム――『100日後に別れる僕と彼』論考②」もよろしければどうぞ。樹と佑馬の独白の理路については「対話篇――女性建築家と『100日後に別れる僕と彼』」で疑似対話的に検討しています。
シリーズについてはマガジンをどうぞ。