
『100日後に別れる僕と彼』論インデックス
はじめに
このシリーズは、浅原ナオト氏の小説『100日後に別れる僕と彼』について、発見のままに書き継いできた一連の批評です。長大化したので、見取り図を作成します。
起点にあったのは、単純な違和感でした。
一見それぞれの人物に寄り添っているように見える物語は、その実、志穂を男たちをケアする感情労働者へとすり替えている。
そのことを最初の「ケアワーカー」で十分に論じたつもりでした。
①ただし、もう少し考えを進めると、個人への負担の押し付けだけではなく、物語全体を貫く傾斜構造が存在することが見えてきました。
②一方で、個々の場面や語彙、人物の内面もさらに掘り下げる余地がありました。
③また、媒体や物差しを変えても、同じ傾斜が再生産されることも分かりました。
そして最後に、これらすべての症状がなぜ生じたのかを、作者自身の言葉に立ち返って検証した「最終論」を、結論として配置しています。
起点
ケアワーカー:『100日後に別れる僕と彼』論考
一方の女は、当初おなじ大義を掲げながら、物語が進むにつれてその大義の主体であることを剥奪され、ケアワーカーへと役割を変換されていく。
すべてのはじまり。
志穂・佑馬・樹、三人の個々の行動を検証し、大義を掲げていたはずの志穂が、物語の進行につれて「傷ついた」男たちのケア労働の奉仕者へと変換されていく様を追っています。
三者それぞれの行動について、気になった点を書きだすだけで、かなりの分量になってしまいました。それだけに個々人についての物語の課題は筆を尽くせているつもりです。
この段階ではまだ「女性に」ではなく「志穂に」負担が集中する個人の現象として考察しています。
ですが、①②③の展開も起点を踏まえた検討になっていますので、できるだけ最初にこれをご一読ください。
①構造への拡張
「志穂個人への負担の押し付け」ではなく、「特定属性の異常な免責」「特定属性以外の者すべてへの負担の押し付け」という構造であることを示していくラインです。
「許し」という溶接:『100日後に別れる僕と彼』
性別によって適用される論理が変わることを、もっている権利が変わることを、普通は差別と呼びます。
許す女性・許さない男性、という配分の非対称を最初に明確に言語化した回。
感情的な許しをする女性/行動的な許しをしない男性、という二分法は、以降の記事でも繰り返し参照される視点となっています。
『100日後に別れる僕と彼』とのおわかれ
必要ないはずの負債が生まれたのは「馬鹿」だからだと言えても、必要ないはずの負債を担わされるのが女性であることは「馬鹿」だからで説明できませんから。
作者が志穂に負担を押し付ける以外に話を進める方法が思いつかなかった「馬鹿」ではなく、構造的になされる「差別」だと初めて言語化した短い記事です。
タイトルどおり、当初は構造だと言明したこの記事で終える予定でした。
『100日後に別れる僕と彼』はOnly G's lives matterか:片桐から考える
その片桐が、正当なはずの怒りを表明せず、加害者の心理を理解し慰撫する役回りへと配置転換され、個人の事情を反映していない空文のみを与えられる。
片桐という大義をもつはずの女性を通し、マイノリティであってさえ特定属性以外は特定属性のケアワーカーにしかならないという構造を解明した記事です。「人質事件」と茶化すしかない惨状ですが、解像度が一段上がった転換点です。
※志穂と佑馬のエンディングを再度検討し、佑馬が、特定属性に対しては否定されたはずのふるまいを、特定属性以外(志穂及び片桐)には行い続けていることも示しています。
主体性の配給券:『100日後に別れる僕と彼』の傾斜
どうして、男性が行動し、怒り、罰するときに、女性は感情を受け止め、耐え、許すのでしょうか。
「別の物語も書けたはずだ」という反実仮想を、社長・久保田・片桐・尚美・志穂全員について積み上げ、偏りが特定属性以外の全てに及んでいることを示す記事です。
冒頭にあるとおり「おわかれ」に類似しますが、ドラマ版監督・草野翔吾氏インタビューの検証も併載しています。そちらはだいぶ致命的な自家中毒が観察できるので、そこだけ読むのでも。
②個別事例を掘り下げる
構造への拡張とは逆に、特定の人物・特定の場面・特定の語彙に集中し、なにが問題となっているのかを精読していくラインです。
ミーディアム:『100日後に別れる僕と彼』論考②
望んで檻に入り、餌を食べておきながら、都合が悪くなると「見世物にしやがって」と飼育員を噛む獣の身振りが、そこにはある。
なぜ他の感想で「メディアの暴力」や「被写体と向き合う」といった一見綺麗な、しかし作中の現実にまったくそぐわない反応がみられるのだろう、と疑問に思った記事です。
いずれも「私情の法廷」でより作品自体に即して論じてはいます。
嘔吐:『100日後に別れる僕と彼』論
「罵倒」されても構わないとその身を差し出す。(中略)意識が高く、大義を掲げ、世界を変えようとする女性が最後にこの姿勢を取る物語を書く、作者。――気持ち悪い。
物語終幕に現れる、「厚化粧」「罵倒」という不気味な単語に絞り込んだ精読。単に日本語が独特なだけでは、とも論じていますが。
なお、「特定属性のみは人権がある」という①構造ラインのキーフレーズも、初出はここです。
対話篇:女性建築家と『100日後に別れる僕と彼』
――見世物にされるのが性に合わない、他人の生き様を玩具にするな、そう啖呵を切るキミが、他の人間を見世物にし、玩具にした。
――人間扱いしてほしいキミは、他人を人間扱いしていただろうか?
物語には登場しない女性が、物語でなされたような樹・佑馬の独白的主張の垂れ流しを許すのではなく、真の「対話」をしていたら、という対話篇です。
異色の記事ですが、熱帯魚の比喩の破綻、普通というくくりの乱暴さ、樹こそが他者を玩具にしていること、佑馬の詐欺行為と、行動の問題点を剔抉しています。
③足場を変える
①構造・②行動とも、媒体や物差しを変えても繰り返し確認できることを論じるラインです。
弥縫策の破断:ドラマ版『100日後に別れる僕と彼』論
このだめな人への手当てが、「子ども食堂を手伝う」という、捨て犬を拾う式のクリシェだったわけです。(中略)では、この改変は成功しているでしょうか。
ドラマ版の「子ども食堂を手伝う樹」という改変に注目し、原作の樹が共感を呼ばないと判断したための弥縫だとみなしたうえで、樹の身勝手さをとうてい覆い切れていないと判定する記事です。
別メディアによる介入により、余計に②の課題が露見しやすくなったと言えるでしょう。
私情の法廷:『100日後に別れる僕と彼』論
ドキュメンタリーの被写体は、番組作成に同意し、進んで参加している、主体のひとつです。自分の望む映像を得たい、役者にこそ近いでしょう。
契約法・情報の非対称性という、実務的客観的な物差しによって、特定属性であろうと本来存在するはずだった義務の不履行、ドキュメンタリーをケアされることと勘違いしている甘えを批判する記事です。
法廷により、①を掘り下げるとも言えます。
なお、ドラマ版脚本家・三浦直之氏のコメントが、シェイクスピア並みの高度な皮肉である可能性も合わせて検討していますが、さて?
終点
浅原ナオトを読む:『100日後に別れる僕と彼』最終論
強い言葉である。そして強いがゆえに、脆い言葉である。「絶対」という全称命題は、反例が一つでもあれば崩れるからだ。
最終論として、作者自身の言葉である「属性に対する配慮は、属性の「あるべき姿」を定義しないと絶対できません」という思想を検証します。
なぜ樹が樹であり、この物語がこうなのか、メタテクスト的な読みによってエンドマークを打とうとしています。
ピーマンを無批判にありがたがる前に、ぜひ。
おわりに
書き始めたときは、一本で終わるつもりでした。終われるつもりでした。が……気づけば十本を超え、小説だけでなくドラマ版、インタビューにまで考察の射程を伸ばしてしまいました。
しかしどれだけ繰り返しても、また違う入り口から違う物差しで検証しても、同じ場所に行き着いてしまいます。
――特定属性の生だけが価値がある。
「配慮は、属性のあるべき姿を定義しなければ絶対できない」ならば、そうもなるでしょう。
ですがそれは偽です。
配慮は、属性のあるべき姿を定義しなくても行える。
ただし、これは、私の確証バイアスかもしれません。
だからみなさん自身に、考えていただきたいです。
それでは、(できれば「ケアワーカー」は最初に読んでから)お好きな順番でどうぞ。
余談
『100僕』は料理をしらないので、ばくはつする
エクスプローディングキットゥンズ、もとい、エクスプローディングキッチンの危機がおとずれるとは思いませんでした……。
「嘔吐」で独特な日本語をあちこちに見つけて苦しんでいたら、文章レベルでも独特な表現をよりによって幕引き部分で見つけてしまった記事。
加圧調理中の圧力鍋の中身をつつくっ!? どうやって??
ゆでるおと
まして00年以降は「煮沸音」はゼロで、0:23です。
全文検索や辞典を使って、「ばくはつする」で触れた「煮沸音」なる語用が誤用ではないかとさらに詳細に考証する記事です。
調べ方案内として汎用的なので、100日後タグはつけていませんが、合わせてご紹介でした。