
弥縫策の破断:ドラマ版『100日後に別れる僕と彼』論
今回はドラマ版が主な考察対象です。小説版メインのこれまでのあれこれはマガジンをどうぞ。
ドラマ版『100日後に別れる僕と彼』では、他の男を連れ込むという最悪の形で破局を見せつけ、佑馬の家から出ていったあとの樹は、姿を消すということを知りました。小説版では、山田の家に転がりこむ展開でした。
けれど、ドラマでは樹は従来から子ども食堂を手伝っていたりしたことが分かり、遠くへは行かないだろうとみなされる、というのです。
なるほど、さすがに小説版の樹は明白な「クズ」※なので、手当てしたくなるのは分かります。
不良が子犬を拾うように、クリシェですけど、うまく使えばもちろん効果的です。
草野翔吾氏も苦労されたのですねぇ。あるいは脚本家さんが。
――と、言えるでしょうか? 少し考えてみましょう。
※私じゃありません、佑馬くんが言ったわるくちです! ほんとうです!
1.小説の「一貫性」
小説の樹は、クズとして一貫していると言えます。
いえ、作者は意図していないでしょうけれど(居酒屋のシーンとかで樹をあくまで師匠として描こうとしていて、クズだと認識していないですよね)、出力としては「クズ:しかし一貫した」です。
刹那的で他人はどうでもよく、佑馬にだけ最初自分を見て泣いた驚きから妙な執着をおぼえている。
よってドキュメンタリーの話を受けたのも佑馬のための無理で、それが予想より大変だったら志穂や片桐への迷惑など少しも考えず暴発する。
片桐の名前を覚えてすらいない。
そして唯一執着する佑馬に忘れられたくないということを、恥ずかしくて素直には口にできないので、自分が執着する佑馬が執着する「世間」に記憶を求める形に誤変換して出力する。
これらは、ほぼすべて本人の口から語られた内容です。
いえ、「誤変換」だけは推測ですけど、刹那的なら世間に覚えていてほしいと求める必要性はないのですから、じゅうぶん合理性のある推測です。
こんな人は志穂や片桐から見れば「天災」でしかありませんが(どうして災害と思った志穂が自己批判させられるのでしょう? 100%正確な状況認識では?)、小説版のお好きな言い方で言えば、属性ではなく個人として一貫はしています。
そんな天災を(樹自身が望む)肉体的関係を越えて強く好きになる人間がいるのは曰く不可解ですけど、まあ蓼食う虫も好きずきで、だめんず好きはいるのでしょう。
2.ドラマの弥縫
このだめな人への手当てが、「子ども食堂を手伝う」という、捨て犬を拾う式のクリシェだったわけです。
完結した展開をわざわざ変えるのですから、意図があったとみるのは当然で、ドラマ版が樹を原作どおりではまずい、小説のままでは災厄の族だ、と認識したことを明らかにしています。
では、この改変は成功しているでしょうか。
結論から言うと、成功失敗以前に、一貫性が破断してあちこちから論理が水漏れしてしまっている、と判定されます。
2-1.論理整合性の漏水
小説の樹を、再確認しましょう。
「刹那的であり、行きずりの関係にとどまりたい」が、「おまえ(佑馬)のためなら無理できた」しかし「佑馬以外の他人はどうでもいい」という行動原理は、身勝手で、女性や連れ込まれた男性などを踏みにじってもいますけれど、主張そのものとしては一貫しているのでした。
この一貫性を、「子ども食堂を手伝う」という改変は、ひそかに、そして決定的に言い換えようとしています。
「顔を知っている相手のためなら無理できた」と。
佑馬⇔名前も覚えていない女性(片桐)や志穂や連れ込んだ男性を含む他人すべて、から、佑馬を含む顔を知っている相手⇔顔も知らない世間一般、へと。
けれど、これは不可能なすりかえです。
顔を知っている相手のためなら無理できるなら、なぜ片桐の名前も覚えておらず、彼女の大義を踏みにじるのでしょうか。
なぜ志穂を類型として扱い、社長の性的言動に困っていることに無関心で、ドキュメンタリーに非協力的なのでしょうか。
もし彼女たちは自分を素材として見てくるからだとかミソジニーなのだとか擁護しようとしても(い、いえ、後者は擁護と言えるかも怪しいですけど、行動の説明原理として…)、
では樹を素直に認めていたバイト先の店主や、樹のために泣くほどだったアルバイトの女性、さらにある程度打ち解けた山田はどうなのでしょうか。
客を殴ることは、樹の中での必然性があったことは確かですけど、店に多大な迷惑をかける可能性があります。
※そもそも急に辞められること自体、どのバイト先であれ困ります。アルバイトだって民法上2週間前までの告知義務がありますよ?
それなのに殴り、理由も言わずに辞め、共感する女性に誰にも告げないよう動きを禁じる選択は、かれらのために少しも無理(=配慮・譲歩)をする気がないことをあらわにしています。
山田の仕事でもあるドキュメンタリーを破壊して平然としていることは、山田のために少しも無理をする気がないことを明らかにしています。
それから、佑馬に別れを見せつける道具にするために、家に連れ込んだ男性はどうなのでしょうか。
一時的なものとはいえ密接な関係を築いた相手です。
にもかかわらず、佑馬たちが現れたあと、傷つきへの配慮もせず追い払うことは、彼のために少しも無理をする気がないことを明らかにしています。
よって、「子ども食堂を手伝う」という改変は、他の行動と整合しません。
樹は、佑馬以外の他人はどうでもいいと思っている人物のままです。
志穂を好きなはずの山田が、樹の志穂へのやつあたりに怒らずむしろ樹を心配するとか、社長の志穂への性的発言に怒らないとかといった小説版の不整合を、主要人物のレベルで拡大再生産してしまっています。
これが、水漏れということです。
2-2.倫理的危険
不整合なのでこれ以上考えても仕方ないかもしれませんが、見過ごしにもできないのでいちおう深刻な倫理的危険についても書いておきます。
いえ、子ども食堂を樹の免罪に都合の良い記号として扱わないでください、文化の盗用の類似物ですよ、というしごく当然の趣旨だけではなくですね。
どういうことかというと……樹は、アルバイトも、消極的にとはいえ自分の意思と目的があって受けたドキュメンタリーも、事前告知義務さえ守らずに勝手に投げ出す人物です。
そして辞める理由を、職場の責任者にも、パートナーにも伝えない人物です。
女性を「姉ちゃん」「女」と呼び、「他人を信用しないタイプ」という雑かつ外れてさえいるカテゴリー視をする人物です。
そしてなにより、怒りを即座に暴力に変換する人物です。
子ども食堂に来る子供たちのなかには、生育環境などから、試し行動をすることもある人がいます。
同性愛について、十分な理解をまだもっていない人もいます。
(樹自身が中学生のときまさにそういう人に直面し、ゾンビを見るような目で見られましたよね?)
女性である人もいれば、他人を信用するまで時間がかかる人もいます。
子ども食堂を運営する人たちは、こうした子供に向き合うとともに、スタッフどうししっかりと連絡し合い助け合いながら、適切な場をつくっていこうとしています。
――勝手に投げ出し、意思疎通をせず、女性を軽んじる呼び方をし、カテゴリー視し、暴力を振るう人物が、子ども食堂の提供側にいて、よいのでしょうか。
不良が犬を拾う展開が感動的な演出として成立するのは、その不良は弱者に
は手を出さない信念がある、グループ拡大や復讐といった一貫した望みをもって計画的に仲間を増やしている、など、もともと犬を拾うことに整合的で、そして拾ったことに責任をもてる性質がある場合です。
サディストで場当たり的な不良が犬を拾うのはむしろKick the dog、危機の演出です。
さて、樹は、どちらの不良でしょうか?
2-3.止まった時計
不整合なので以下略ですけど、「子ども食堂との約束を破らない人だから遠くへは行かない」という佑馬の推論は、もう笑うしかありません。
約束を破らない人は、アルバイトを半年続けると約束したら続けます。
約束を破らない人は、ドキュメンタリーを撮影すると約束したら逆切れしませんし、そもそも最初からインタビュイーに対してオープンに接します。
ミームに沿えば「いろんなことに手を付けるが、ひとつだってやり遂げられない」――アルバイトも、ドキュメンタリーも、同居も――、店の人にも志穂にも片桐にも多大な迷惑をかける樹が、なぜ子ども食堂との約束だけを守れるでしょうか?
当たっていたのは、ご都合主義でなければ、止まった時計も1日に2回は正しい時刻を指すことにすぎません。
3.「忘れないでいて欲しい」?
小説版の解読では、樹の最後の独白(対話ではない)で発された「俺みたいなやつがいることも忘れないでいて欲しい」をカテゴリーエラーとみなしました。
刹那的な人間が世間の記憶を欲する必要はないので、真意は佑馬個人への記憶の懇請であり、あけすけにそうは言えないためのおそらくは無意識の誤変換だ、と。
もちろん、それで各種の加害が免罪されるはずもなく、咎めない物語は偏っていますが、「各種の加害」じたいとのふるまいの一貫性はある、のでした。
では、ドラマ版の、子ども食堂の一件で密輸入を図られた「顔を知っている相手のためなら無理できた」という行動原理を仮に真と置いた場合、同じ発話はどう理解されるでしょうか。
置換すれば、「顔を知っている相手に忘れないでいて欲しい」が、照れくさいので「世間に忘れないでいて欲しい」に誤変換された、となります。
けれど、これは2-1.で確認した内容と正面から矛盾します。
もし真意が「身近な人々に忘れないでいて欲しい」なのだとしたら、言い換える必要はありません。
覚えていてほしい当の相手――店主、バイトの女性、山田、連れ込まれた男性――に対して、もっと適切に接すればよいだけです。
実際の樹は理由も告げず、迷惑も顧みず、道具にして、追い出しています。
忘れないでいてほしい相手に毎回的確に悪い記憶を残していく動機が、いったいどこにあるでしょうか。
悪名は無名に勝るだとむりやりこじつけることもできません。子ども食堂でのふるまいと矛盾しますから。
と、いうわけで。
とても綺麗な背理法です。
「顔を知っている相手のためなら無理できた」を真と置くと、「覚えていてほしい」が説明できない。
つまりけっきょく、「覚えていてほしい」を説明できるのは、やはり小説版と同じ、佑馬個人への執着のカテゴリーエラーとしての読みだけ。
ドラマ版の新設定は、一貫性をそこなっています。
なお、字義通りに世間に記憶を求めているのだとすれば、答えはひとこと「ふざけるな」です。
ドキュメンタリーに非協力的であっておいて、自分は退場しておいて、そして世間を「普通」とくくっておいて、片務的に記憶を求める。
そのようなことは、認められません。
「実際に世間に覚えていてほしい樹」がすべきことは簡単で、「俺はクズで、佑馬とも別れていますが、世間には覚えていてほしいので、そういう方向のドキュメンタリーでよろしくお願いします」と最初に頭を下げることです。
メディアとは「使いこなす」ものなのですから。
それをしない人には、ダムナティオ・メモリアエから、テロリストの名を口にしないことまで、適切な対応は一意に定まります。
けれど、世間めあてではないと思っているので、記録抹消刑はしないであげましょう。
(あ、真の宛先である佑馬が宣告する権利はあると思いますけど、あの人はできないでしょうね。)
おわりに
子ども食堂という改変は、ドラマ版が樹をクズだと思ったことを、じつに見事に明らかにしています。
しかし、じつに見事に破綻しています。
小説が多用したのは、真実と虚偽の溶接でした。
一片の真実に、過大な虚偽を溶接し、無理矢理に呑みこませるしぐさ。
いっぽう、ドラマは醜い現実を隠そうとして、独自展開という「もうひとつの現実」を溶接したものの、溶接した追加の現実はあまりにも小さすぎたと喩えられるでしょう。
小さすぎた現実は、残留応力で周囲に緊張をもたらし、破断させます。裂け目からは、醜いながらに一貫している、という要素が漏れ、失われていきます。
これが、論理整合性の漏水です。
逆に言えば、子ども食堂で安心して働かせられる樹なら、その他の場面での行動も軒並み変わってきます。
そうであればどれだけよかったかと思いますけれど、それはもはや全面的改稿です。
ドラマには、そこまでの改変はできなかった。
不足していたのは権限か、能力か、意思か。おかわいそうに、です。
おまけ
社長が樹と佑馬に、悪意はないにしてもノンデリ全開な発言を繰り返す際に、樹は普通に応答しています。
これはオープンな相手にはオープンに接するとも、刹那的なのでどうでもよく適当にあしらっているとも取れますけど、少なくとも確定なのは「社長が他人に対しても同様なのをなんとも思っていない」ことです。
佑馬は嫌がっているのに樹は気にしていないし、社長が志穂の肩に手を置いているところなんかも見ているのに気にしていない。
久保田は志穂の話を聞いただけであるにもかかわらず「許せなければ許さなくていい」を発していますし、
佑馬も詐欺師だし自分優先ですけどそれでも「人間として見てほしいんですよ」と告げて志穂も「私もです」と(実際はこんなうそつきを信じてはいけないですけど、ともかく)応答しているのに。
もちのろん、片桐の名前は覚えていないし、佑馬の復縁を裏に隠したタテマエとはいえ理屈のついた説得にさえ「他人のための無理はできない」とまったく乗ってこない。
一時的に乗ったのは佑馬への私情からだけです。
こうなると、久保田を殴った理由さえ、佑馬が傷つくからではなく自分が不快になったからではないでしょうか。
いえ、佑馬に執着しているところまでは主観的事実と認めてよいと思いますけれど、「俺のモノである佑馬を悪く言ったから不快だ」であって、「佑馬という主体の尊厳が貶められているから許せない」ではない、と。
佑馬に言わないと彼が久保田をよい上司だと誤認し続けてしまうのに、真相を告げないことは、そう考えないと説明しづらい。
つまり、佑馬に執着していることは確かであっても、佑馬の身になって考えているわけではないのです。
本人も「俺もお前を人間扱いしていない」と自白していましたから、ある意味では一貫しています。
けれど、けれど――忘れないで欲しい、でしたっけ? 樹さん?
それはまた、どうしてでしょう?
これではまあ、ドラマ版もお手当したくはなるでしょうけれど、その……。