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ゆでるおと

    シチューをつくるときに「煮沸音」がするのはおかしいと、ちょっと前に考えました。「沸騰音」では、と。

    ですが、本当にそうでしょうか?

    鍋から聞こえる音は煮沸音なのか沸騰音なのか、もうちょっとくわしく調べてみましょう。
    ……棺にもう一本釘を打つだけになるかもしれませんけど。


    さて、初出や用例を調べるときには、国立国会図書館デジタルコレクションが便利です。
    全文検索をすることができ、タイトルや目次だけでなく本文中で使われている場合にも見つけられ、年代順に並べたりもできるので。
    読むためには図書館に行く必要がある本も、なかみの検索まではでき、今回の目的にはじゅうぶんです。

    まずは「煮沸音」と検索してみます。
    結果は92件。
    意外とあります。
    しかし沸騰音は547件なので、比率は1:6です。
    (アクセス日:2026年9月4日)
    じゅうぶんドライマティーニと言えますけど、モントゴメリー・マティーニが好きな人だったら満足しないかもしれません。
    モンティは戦力比が15対1にならないと攻撃しない将軍に由来する、ジンが15でベルモットが1のマティーニです。

    ただ、もう少し細かく見てみると、興味深い傾向がうかびあがってきます。
    左ペインをみて、出版年ごとの件数をグラフにしてみると、こうです。

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    煮沸音vs沸騰音

    現代に近づくにつれて、差がひらいていくことが分かります。
    90年代は9:138で、無事にモントゴメリー・マティーニができあがりました。9:138は1:15.3ですから。
    まして00年以降は「煮沸音」はゼロで、0:23です。
    これなら、ベルモットの瓶を見ながらジンを飲んでいたチャーチルも満足でしょう。ゼロはゼロですから。
    いえ、私は『バー・ブック』に倣って、1:1くらいの比率が好きですけど……。

    ※00年代以降の絶対数が少ないのは、まだデジタル化されておらず検索対象でない本が多いからです。ただ、条件は沸騰にも煮沸にも平等で、煮沸と書いてある本だけデジタルにされていないなんてことはありえません。

    ことばは生き物ですから、どちらを使うかが変わっていくのはとうぜんです。
    少なくとも最近は、沸騰音が圧倒的であることが分かりました。
    煮沸音はなかなか独特で、かつ古い言語感覚なのですね。


    しかし。
    よのなか、数だけが正しさではありません。
    「姑息」は7割以上が「卑怯な」という意味でとらえていても、本来の意味は「一時しのぎ」です。
    とはいっても姑息でさえ比率はモンティやチャーチルより有利ですし、小説で伝わらない言葉を使わないでください、などはさておきまして、「煮沸」の語義もちゃんと確かめるべきでしょう。

    『日本国語大辞典』を引いてみると、「煮沸」は「水、また器物などを入れた水などを火にかけて沸騰させること。煮えたぎらせること。」とあります。「沸騰」は「物、特に液体が、沸きあがること。また、高く起こり立つこと。(後略)」です。
    煮沸は、沸騰「させる」。
    ここがポイントだと、私は思います。いわば、他動詞と自動詞。

    たとえば、自動車を走行「させる」ことは、運転と言います。
    走行音はしても、運転音はしません。
    運転音があるとしたら、シフトレバーをがちゃがちゃさせたり、ブレーキをふみつけたりする音で、エンジンの爆音やタイヤの摩擦音、車体の風切り音は「走行音」です。

    いっぽう、エアコンの場合は、運転(作動)「させる」ことは、操作と言います。こちらは運転が自動詞的です。
    運転音・作動音はしても、操作音はしません。
    操作音があるとしたら、リモコンのボタンを押すかちっという音や機械の電子音で、風の吹き出す音や室外機が回る音は「作動音」です。

    ですから。
    沸騰「させる」ことを、煮沸と言います。
    よって沸騰音はしても、煮沸音はしません。
    煮沸音があるとしたら、なんでしょう、ガスコンロのスイッチを入れるかちっという音とか、火が燃えるごーっという音でしょうか? IHヒーターだったら起動するときぴろりろと音がするかもしれません。

    ちなみに、「メスを熱湯で煮沸消毒する」といった場合には、煮沸消毒にともなう音であるごぽごぽいう沸騰音を「煮沸音」と表現するかもしれませんけれど、シチューは「メスを・熱湯で」とは違います。
    メスになぞらえたら、私が前回書いたように、シチューをおたまに入れて熱湯の中で煮沸することになります。
    ……もちろんそんなことをしたら、わたあめを洗ったあらいぐまのように、シチューがなくなってしまいます。

    ことばの語義に沿っても、やはり煮沸音は怪しそうだということが分かりました。

    そういえば私の高校には煮沸会という秘密結社がありましたけど、沸騰させる会だからよいのですね。これが沸騰会だったら、じぶんたちが湧きあがって暴走する会になります(……そういう集団だったような気もします)。


    と、いうわけで。
    用例の数からも、語義からも、「煮沸音」はしないと考えられます。
    鍋からするのは「沸騰音」です。

    ただ、その、「煮えたぎらせ」ても(煮沸)、「高く起こり立」っても(沸騰)、シチューはたいへんなことになりますから、シチューを作る描写としてはどちらであってもだめですよ、が、みもふたもない最初からの結論ではありますけど……。
    おかわいそうに、でした。


    別のシステムを使ったりした補遺は以下の記事です。


     
     
    本を読む人。ノンジャンルで本の感想を書いたり雑記を放流したりしています。写真は基本的にすべて自分で撮影したものです。

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