
浅原ナオトを読む:『100日後に別れる僕と彼』最終論
はじめに
浅原ナオトは、『100日後に別れる僕と彼』文庫版所収のインタビューで以下のように述べている。
属性に対する配慮は、属性の「あるべき姿」を定義しないと絶対できません。「子供はピーマンが嫌いだよね」という前提があるから、「給食からピーマンを抜こう」みたいな話になるわけですが、そうすると今度はピーマンを食べたい少数の子が悲しむ。そういうことが世の中のいろいろなところで起きているし、特にいわゆるLGBTに関する話ではすごく多いんです。
(中略)
だから「属性ばかり見ていると、原理的に絶対に取りこぼす」ということ、属性として扱う限り「誰一人取りこぼさない」というのは嘘だということを、分かった上で発言や行動してほしい。「30人中28人の子供が喜ぶから、給食からピーマンを抜く」という選択肢はあり得るでしょうが、その時に「けれども、残りの2人が悲しんでいる」ことは忘れないでほしいんです。
樹の「暑がりな熱帯魚」比喩に直接的に照応することは、容易く理解されよう。(なお、これまでの議論はインデックスを参照されたい。)
1.藁人形と、成立しない比喩
「①前提」「②比喩」「③要望」「④改めて比喩」という構成となっているが、まず、比較的軽微な二点を処理する。
1-1.要望
まず、③要望。
要望が「比較的軽微」で済んでしまうのもどうかと思われるが、なにしろ、これは典型的なストローマンである。『「誰一人取りこぼさない」というのは嘘だということを、分かった上で発言や行動してほしい」と唱えるのは、具体のであれ一般のであれ他者が「嘘」を「分かっ」ていないと断ずるからだが、はて、分かっていない者がいるだろうか。
「通行人を辻斬りしてはいけない」という発言は、通行人を辻斬りする現状を分かっているからなされる。よってNo One Leftという発言は、取りこぼされる現状を分かっているからなされる。
存在しない強い主張を捏造してから論難するのは、藁人形論法にすぎない。
※作中では志穂が他人を「分かっていない」と断ずると自己批判させられていたが、断じているのは誰だろうか?
1-2.比喩
次に、②④比喩。
セーブポイントや暑がりな熱帯魚同様、これも適切でない比喩である。
給食から「ピーマンを抜く」ことは、唯一の選択肢に対する操作であり、全員に不可避の得失が生じる。しかし比喩の対象であるパートナーシップ制度や同性婚は、既存の選択肢――異性婚――に対する操作ではなく、新しい選択肢を追加する加算的な営為である。
ニュージーランドで同性婚が導入された際に、「明日も太陽は昇るし、世界は終わらない」と議会で演説されたとおりに。
あえてピーマンの比喩にとどまるなら、給食で「ピーマンのない献立も選べるようにする」ことだ。そのとき28人の子供は喜び、そして、2人は悲しまない。
よって比喩として成立していない。選択肢の追加と規範の押しつけを混同する誤謬は、③を導く要因でもある。
2.致命的誤認
そして、①前提。
そもそも照準がずれていれば、どれだけ推進力のあるロケットでも目的の星には到達できないのだから、推進力の偏向と不足はすでに確認されたとしても、前提となる認識が正確かどうかが最大の論点となるのは必然と言えよう。
属性に対する配慮は、属性の「あるべき姿」を定義しないと絶対できません。
強い言葉である。
そして強いがゆえに、脆い言葉である。「絶対」という全称命題は、反例が一つでもあれば崩れるからだ。
これまでの考察で、スロープがあると生きられないという主張は想定できない、と述べた。スロープが配慮であることは明白である。よって、『スロープはどのような「あるべき姿」を定義しているのか』と問える。
どのような姿だろうか?
2-1.「あるべき姿」??
正直、スロープだけでも十分であろうが、せっかくなのでもう何点か問うてみよう。
書類の性別記入欄をなくす/その他・無回答等を設ける
手話言語条例
子供を対象とする商品等の陳列棚が低いこと
LLブック、りんごの棚
情報の違いを色のみで示さないこと
制服選択制、ユニセックス制服
手話通訳、バリアフリー字幕
だれでもトイレ
店舗等の通路幅が十分に広いこと、段差がないこと
代替テキストの付与、コントラスト比の確保、見出しでの構造化
ひとり親家庭への援助
これらが「属性に対する配慮」であることに、異論はありえまい。
では、これらは、配慮される属性に対し、どのような「あるべき姿」を定義しているのだろうか?
2-2.解題
これらをすべて説明しなければ、「絶対」という全称命題は棄却されるので、筆者がひとつひとつ丁寧に説明する必要はないが、参考までに軽く解題を付しておく。
まず、「配慮は、属性のあるべき姿を定義する」ことではなく、「配慮は、属性のあるべき姿を定義しない」ことであるタイプがある。
性別記入欄の廃止や、だれでもトイレなどはこれにあたる。ユニセックス制服も、服装をジェンダー表象としないという意味で、これに該当しよう。
ひとり親家庭への援助も、就労支援・収入補助・ケア提供など多様であり、少なくとも理念的には親が働くべきとも家にいるべきとも定義せず、選択に応じた配慮を提供するものである。
次に、「配慮は、属性のあるべき姿を定義する」ことではなく、「配慮は、選択肢を増やし、使うべきとも使わないべきとも言わない」ことであるタイプもある。
ユニセックス制服に対し、制服選択制はこちらにあたる。手話通訳やバリアフリー字幕、性別記入欄にその他を設けることなどもこれである。
一見ひとつめより常に優るように思えるが、コスト面だけでなく、「選択することがカミングアウトとなる場合」もあるため、クローゼットできる前者を採用する積極的利点もあろう。
最後に、「配慮は、属性のあるべき姿を定義する」ことではなく、「配慮は、提供側のなすべきことを定義する」タイプがある。
必ずしも排他ではなく、上記ふたつと同時に該当する場合はあるが、ウェブアクセシビリティ、ユニバーサル/インクルーシブデザインの類は、広くこれにあたる。
なお、「だれでもトイレ"しか"ないこと」は、別種の課題をはらみうるが(異性が入った直後のトイレにはあまり入りたくないという負担感が特定のジェンダーに偏することなど)、他が残るので全称命題にとって何の救いにもならない。そればかりか、「だれでもトイレはいかなる属性にいかなる定義をしているか」さえ説明されないため、この例すら「絶対」を否定する例としては引き続き機能する。
2-3.正反対こそが真
ここまで「属性に対する配慮は、属性の「あるべき姿」を定義しないと絶対できません」という全称命題が偽であることを、多数の実例によって示してきた。
本項ではさらに一歩を進め、正反対(対偶ではない)こそが真である場合さえあることを示す。
色覚少数派の方が運転免許等を取得できない可能性があることを考えられたい。これは、『運転者は色によって情報を識別する「べき」』という定義を、暗黙裡にとはいえ示している。
すなわち、「属性に対する配慮が"ない"状態こそが、あるべき姿を定義することによって生じる」のである。
「進めの意味の灯り」と「止まれの意味の灯り」の相対的位置や形状(歩行者用信号を想起されたい)等により、必ずしも色覚のみによらない情報提供を行う「配慮」が必要であることは論を俟たない。
さて、「属性に対する配慮は、属性の「あるべき姿」を定義しないと絶対でき」ないのだろうか? 「属性に対する配慮のなさこそが、属性の「あるべき姿」を定義することで生じ」ているのではないだろうか?
※手術に臨む外科医が血管を色で素早く認識する「べき」であるなどの場合には、自然環境というか物理法則は「配慮」してくれないため、当人の努力や周囲との連携、技術による補助が必要となるが。
(制度的な)婚外子差別はなぜ生じるか。子供は結婚した両親から生まれる「べき」という定義のためである。
異教徒をあぶり出す宗門人別はなぜ存在したか。みなどこかの寺に属する「べき」という定義のためである。
再度書くが、「属性に対する配慮のなさこそが、属性の「あるべき姿」を定義することで生じ」ているのではないだろうか?
3.Primum non nocere
全称命題が偽であることの証明、さらに正反対こそが真である場合さえあることの提示を終えたが、もう一点見過ごせない観点がある。
属性の「あるべき姿」を定義した「配慮」は実在するのか。
――する。
少なくとも、した。
手話が「手真似」として学校教育から排除され、発声訓練と読唇を強いた時代があった。
なにも悪意からではない(と思いたい)。ろう者も音声言語を用いてコミュニケーションすることが「あるべき姿」だと定義し、口話法を推進して音声言語を習得できるよう「配慮」していたのだ。
では、このようなときには、「ピーマンを食べたい人のことも忘れないでほしい」と言うのが適切なのか。
――適切ではない。
ふやけたことを言うものではない。「サインランゲージで話したい人のことも忘れないでほしい」ではない。「28人の聴者が喜ぶから、学校教育では口話法にするという選択肢はありえるでしょうが」ではない。
もし作者の命題が本当に正しく、配慮が「絶対に」あるべき姿を定義するのだとしたら、口話法の強制に対して行ったと同じことを、当事者が、アライが、なさなければならない。
もし、少しでも、歴史を知っているのであれば、その①前提から、②③④は出てこないし、出てくることこそが加害である。
※なお、現在は全員がピーマンを食べさせられるのかといえば、そうではない。口話と手話が混在している。むろんそれはさまざまな課題や制約、その地域におけるマジョリティ言語との関係性等もあっての判断だが、いずれにしても、「ピーマンを抜く」ような粗雑な比喩ではこれもまた語れない。
4.熱帯魚とピーマン
理の当然ではあるが、ピーマンの比喩は「暑がりな熱帯魚」とは完全に一致する。善意の多数派向け調整(ピーマンを抜く/水温を上げる)が、少数派に損害を与える(ピーマン好きの子が悲しむ/暑がりな熱帯魚が死ぬ)。
だがそれは単に、感動的なパンチラインとされる「暑がりな熱帯魚」の不成立をより明らかにするにすぎない。
ピーマンを抜くことが行われていないので、水温を上げることも行われていない。悲しむ子供がいないので、熱帯魚も死なない。
そしてこれは、樹が語った「刹那的な自分」という自己規定と噛み合っていないことも、対話編などの形で確認してきた。世間がどうでもよいなら、水温の上下など冢中の枯骨と同様に意に介さないでよいはずなのだから。
これも繰り返しとなるが、真意は佑馬と別れることが死ぬほど辛い、であり、たまたま佑馬が掲げていた主張が同性婚だったので世間のせいだと思った、と整理するのが正確だろう。
もし佑馬が掲げていたのが排外主義だったら排外主義のせいにするし、投資にはまっていたら投資のせいにするのだろうか、と考えると、いささかの苦笑を禁じ得ない。
ただし、この比喩の粗雑さが、BLの件で佑馬でもBLを書いた者でもなく世間一般、さらには当事者でない志穂を非難する結果となり、居酒屋で「信用しないタイプ」「姉ちゃん」と類型化しているうえに外れてまでいる発言をし、承認を求める正当な努力を「普通」と切り捨てる態度につながっていると思えば、苦笑してばかりもいられない。
水が方円の器に沿うように、「むかつく」しか語彙がない状態が望ましくないように、感情を正確でない語彙で表現すれば、感情自体が正確さを失うからだ。
ゆえに、あえて厳しく咎めなければならない。暑がりな熱帯魚は、存在しない、と。
ちなみに、比喩を止めるとどうなるか。
「みんな結婚したいよね」という前提があるから、「同性愛者も結婚できるようにしよう」みたいな話になるわけですが、そうすると今度は結婚したくない少数の人が悲しむ。
……なぜ? 誰もあなたの首に縄をかけて結婚式場に連れて行かないよ?
おわりに
前提が誤っていれば、中身は誤っている。
前提が正しい場合になすべき中身は、異なる。
なるほどこのインタビューを出力するのならば、この作品を出力するであろう。
ある種の症状・被害の訴えのように、臨床的には事実でない苦しみでも、主観的には真実の苦しみであることは、むろん認められる。
しかし同時に、臨床的には事実でないことも、認められなければならない。
樹は、水槽があたたかくなっても死なない。
配慮は、属性のあるべき姿を定義しなくても行える。
そして、事実でない信念に基づいて出力された物語は、現実の羅針盤にはならない。
ではなにか。
――答えは明らかだろう。
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)