
嘔吐:『100日後に別れる僕と彼』論
――気持ち悪い。
ええ、『100日後に別れる僕と彼』です。まだやっているのかと友達には笑われそうですね。けれど、
暗転したモニターに映るいつもより厚化粧な顔を見て、志穂の唇が小さくつり上がった。
という単語選びは、さすがに気持ち悪いとしか言いようがありません。
エンディングの冒頭。完成した番組を視聴するために、佑馬の家に行く場面。
本来なら、視聴したうえでなされるのは、正しい意味での批判のはずです。
作品への批判と、今回の場合ならば、佑馬や樹の偽りや非協力的態度やその他もろもろの批判による、相互の精算。
そして尚美等によって歪められてしまった志穂の主観のレベルでさえ、視聴後になされると想定されているのは被写体である佑馬からの評価です。
これらに備えるためには、社会人として一般的なレベルの化粧や身支度は必要ですが、「厚化粧」は必要ありません。
これまで佑馬や樹にインタビューし、彼らの勤務先などを取材してきたときと同じメイクで十分です。
なぜ、暗転したディスプレイに、厚化粧の顔が写るのでしょうか?
(ついでに言えば、なぜ佑馬をオフィスに呼ばないのでしょうか。通常、撮影者と被写体として業務を協力して達成した仕事仲間に対して提示できる最高の敬意は、まさにその仕事場に呼ぶことだと思うのですけれど。)※
筆が滑った、とは言えません。
顔も胸も台無しで構わない。そこに価値を見出して欲しいと思ったことなんて、人生でただの一度もない。
とテクストに書いてあったのですから。
志穂は顔で価値付けされることを拒絶する人物です。いえ、少なくとも、そうであるはずだった。
「女は鑑賞物になる生き物であって、鑑賞物を創る生き物ではない。そういう風潮が色濃く残る業界で」それを拒絶して戦ってきた人物だった。
その彼女が、ですね。「厚化粧」によって、まさに「鑑賞物」の側に、自ら足を踏み入れる。後退する。
これが不気味な悲劇でなくてなんでしょうか?
それでも、彼女は鑑賞物を創ったではないか。そう言う人もいるかもしれません。
けれど。
「もし春日さんがドキュメンタリーを観て、あれだけ引っかき回してこんなものかと感じたなら、遠慮なく仰ってください。どれだけ罵倒されても構わない。私は今日、そのためにここに来ました」
茅野の両肩が、小さく震えていた。
鑑賞物を創ったとするなら、これはどう説明すればよいでしょう?
創作者が受け取るべきものは、賞賛と批判と検証です。
佑馬は創作を邪魔した側であり文句をつける権利などない、ということをいったん措いても、「罵倒」は創作者に与えられるべきものではありません。
罵倒されるとは、内容の当否を問わない一方的な感情の投射を、黙って受け止めることです。
そう、ケアワーカーになること。
厚化粧で「鑑賞物」になり、「罵倒」されて(されることを申し出て)客体になる。
これは「鑑賞物を創る生き物」への道のりではなく、「鑑賞物」であることへの、客体であることへの、さらにぬかるんだ道のりです。
これは、馬鹿でも差別でも説明ができません。
「馬鹿」は、作中人物が、あるいは作者が、ストーリーを展開させるために愚かな選択をすることです。
それは嫌いです、と私は言いました。
けれど厚化粧や罵倒という単語選択は、物語を進展させることとはなんの関係もありません。
「差別」は、馬鹿の結果が、特定の性別の人物に偏って落ちてくることです。
それはもっと嫌いです、と私は言いました。
けれど厚化粧や罵倒という単語選択は、誰かと志穂を比較して偏っていることでもありません。
(樹が志穂を罵倒することや、その樹を是とするテクストは差別だと思いますけど、それはすでに論じました。)
ではなにか。「融解」とでも言いましょうか。
作品の論理と倫理が、融けて解体されること。
――そう。
男は最後まで「世界を変える」側の主体であり続け、男の世界は確かに変わる。一方の女は、当初おなじ大義を掲げながら、物語が進むにつれてその大義の主体であることを剥奪され、ケアワーカーへと役割を変換されていく。
と、いうことです。最初の最初に立てた作業仮説に、最初の論考の結論に、けっきょく、戻ってきてしまう。
Aも人権がある。これは正しいかもしれませんが、あまりよい言い方ではありません。Aは人権がある、のほうが、より正確でシンプルで強い。
実際の社会運動でも、Also A's lives matterではなく、A's lives matterです。
しかし、この作品は、Aのみは人権がある、としているのではないでしょうか。Only A's lives matter。
「厚化粧」をして、佑馬の元に行く。
それを「天命を迎えに行」くと称する。
「罵倒」されても構わないとその身を差し出す。
そういう小説、つまり、意識が高く、大義を掲げ、世界を変えようとする女性が最後にこの姿勢を取る物語を書く、作者。
――気持ち悪い。
※天命とは世界を変えるかどうかとは解釈できません。それならば、オフィスにいたって天命を迎えられるのですから。春日佑馬の世界が変わるかどうか、それだけがケアワーカーの天命です。
……と、書いておいて何ですけれど。単に作者の言語感覚が独特である、という読みも、正直に提示しておきたいと思います。
職場の人間は気さくで、頭の回転が良く、とても与しやすかった。
春日の職場の描写です。
「頭の回転が良く」からしてちょっとだけ気になりますけど(「速く」でなくてよいですか?)、「与しやすい」はもっと気になります。
「与しやすい」とは、味方にしやすいことではなく、つけこみやすいことを意味します。頭の回転が速くてつけこみやすい人という描出は端的に矛盾です。
「とても取材しやすかった」などと書くのが正しいでしょう。
もうひとつ。
両手を身体の前で合わせ、しずしずと頭を下げる。
思い出したくもないですけれど、BL弾劾の、というかやつあたりの場面です。
「両手を身体の前で合わせ」からしてちょっとだけ気になりますけど(一瞬お坊さんの合掌を連想しました。断言はしませんけど、「身体の前で揃え」のほうがよいかもです)、「しずしずと」はもっと気になります。
もちろんぎくしゃくとではないでしょうが、「しずしずと」には型どおりに進んでいる静謐な儀式・様式のイメージがあり、樹が切れちらかしているこの場面には志穂の側の形容としてであってさえそぐいません。
「深々と」が適切でしょう。
ですので、まあ、厚化粧や罵倒もその仲間ですと弁護する方がいらっしゃいましたら、そうかもしれませんねと返しますけど……それはそれでどうなんですか?
文庫版では「取材相手として与しやすかった」と「静かに頭を下げる」になっていました……手当てしたつもりなのでしょうが、な に ひ と つ 本質が変わっていません(とおいめ)。
※
「道を歩いていたら撮影者が現れた」場合は、撮影者は仕事でも、被写体は私事です。不意打ちですから。
しかし「100日ドキュメンタリーしたいです」「(別れてるけど)はい」では、双方、むしろ被写体のほうがより、仕事であるべきです。
「志穂が分かる努力をすべきだった」という尚美の虚偽とも通底する気がしますけれど。
なぜ詐欺師――いえ、そこはいまは見逃してあげるのでしたけど、合意の上で撮影に臨んだいわば職業人である佑馬が、保護され、理解され、寄り添われるべき、脆弱な被写体としてのみ扱われるのでしょうか?
彼や樹は、志穂に「分かられる」存在ではなく、番組を使いこなして「分かってもらえるよう努力すべき」存在です。
要するに、撮影者視点「なんだか分からないけれど不機嫌な被写体」は困ります。
「別れてるのに演技させられて不機嫌なんです」と言うことが義務であり、被写体がそれをしていないのに「長谷川さんに向き合え」もなにもない、です。
どうしてみんなそう思わないのでしょうか?
これまでの文章はマガジンにあります。今回のを読んで少しでも思うところがあれば、できれば「ケアワーカー」は読んでいただきたいです。