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『100日後に別れる僕と彼』はOnly G's lives matterか:片桐から考える

    ※本稿は小説版を対象とする論述です。これまでのシリーズについてはマガジンをどうぞ。

    さて、だんだん(ぴー)への註釈プロジェクトみたいになってきましたけど、今回は片桐について考えてみましょう。善意で、マイノリティの可視化という大義のもとに、ドキュメンタリーの企画をキー局に持ち込んだ女性同性愛者の人物です。
    もちろん、キー局に持ち込むのと合わせて、当人にも連絡しています。
    そして佑馬(と、いつもの注意書きですが消極的にとはいえ樹)は、自分たちの関係がすでに破綻しているという事実を隠して、彼女に同意しました。

    こんな次第であってみれば、真相が明らかになったとき、志穂以上に致命的な打撃を受ける片桐は、佑馬をそれこそ「罵倒」して当然です。
    自分のフィクサーとしての信用も、社会活動としての大義も踏みにじられ、もし嘘のドキュメンタリーが放送された後に真相が明らかになったとしたら、「ゲイは嘘つきだ」という偏見の燃料にすらなってしまうのですから。

    1.人質事件

    ですから、真相を告げに来た佑馬に「怒ってる」と告げるのは当然です。
    (どうして云々というおしゃれなつもりのクイズ形式はわざとらしすぎますけど、閑話休題。)

    「嘘ついてドキュメンタリーの撮影を引き受けたから」

    ――佑馬

    わお、さすがに佑馬でさえ、そのくらいの自覚はあるのですね。ちょっとだけ見直しました。
    もちろんそうです、あなたは関係各所に多大な迷惑をかけているのです。
    「ハズレ」
    ええっ!?

    「最後まで嘘をつき通さなかったから」

    ――佑馬

    なるほど、そうですね、嘘でも最後まで――正確には「ずっと」であって、ドキュメンタリーができてすぐ別れたらダメですけど――つき通せばいいですね。
    根性がない佑馬と樹は叱っちゃいましょう。
    「ハズレ」
    えええっ?

    「……応援してるのに別れたから?」
    「そんなわけないでしょ。他人が別れて怒るって、どんだけ自己中なの」

    ――佑馬と片桐

    いえ、自己中なんかじゃないですよ、大義に資する人たちが幸せになるのは個人としても社会運動としても望ましいことで、その希望が潰えたら怒ってもおかしくない……ってそれでもないんですか?

    「つまり、佑馬くんは私がタワーを崩すかもしれないと思った。こんなものは認めない。作り直せって。それがね、ムカつくの。私は自分のこと性格いいとは思ってないけど、そこまで根性曲がってもいないから。あまり馬鹿にしないで」

    ――片桐

    え、えええっ?
    だいじょうぶですか? 頭を打ったとか……いえきっとあの詐欺師にパートナーとかご両親とかを人質に取られているのですね!?
    安心してください、目の前のそいつを捕まえて一寸刻み五分刻みに責め立てたらすぐ音を上げて人質を解放しますから! いますぐいっしょにやりましょう!

    ……はあはあ。思わず取り乱してしまいました。

    でも、人質事件としか考えられません。
    片桐には、佑馬を信用したのに裏切られた痛みに加え、キー局からの信頼失墜、同性愛者を見る視線の悪化、サークルへの悪影響など、無数の、正当な怒りの根拠があります。
    それらをすべて放り投げたうえで、あえて言うなら「偉大なる新宿に輝くじゅげむじゅげむの佑馬サマが私をタワーを崩す人間だとみなしていることが不満だ」という、私情へと怒りの理由が後退させられるという出来事は、人質を取るか、作者のシナリオ都合による洗脳をするか以外の、なにによって実現可能でしょうか。

    2.まだ続く人質事件

    そして片桐は、次にこう言います。

    「そこまでして自分を通そうとするのは、嬉しくもある」
    「人生は一回きりなんだから、やりたいことはやった方がいいよ」

    ――片桐

    ひ、人質を取られて……は措いておいて、これは活動家が嘘つきの裏切り者にかける言葉ではありません。おかあさんが子供にかける言葉です。

    なぜこうなるのか。
    簡単です。
    作者が、片桐を社会活動家として描くことができないからです。

    社会活動家なら、嘘がコミュニティに与える被害を考慮し、対応しなければなりません。
    活動に及ぼす悪影響を考慮し、対応しなければなりません。
    けれど被害と悪影響を可視化し、佑馬に対応を命じると、嘘が「個人の切実な私情」だけではなく「社会への深刻なリスク」になります。
    祐馬を「いつも自分を抑えているけど今回はじめてワガママを言えたかわいい子」で済ませられず、「わが身かわいさにコミュニティへの印象を決定的に悪化させかねない虚偽を仕掛けた猛毒」とみるしかなくなります。
    読者が、気づいてしまいます。

    ――だから、怒りを矮小化する。私情化する。
    あるべき、というより、そうとしかありようがない社会的な怒りを、私的な「信じてくれなかった」という傷つきに縮め、そしてそれを許す。
    結果として祐馬は、許してもらえるだけではなく、なんと「嬉しくもある」と称賛されることになる。

    取材を受けることに同意した以上、佑馬と樹にとってもドキュメンタリーは「仕事」であるということを忘却した展開と、またしても同じ構造です。
    女性に感情的な許しを割り当て、男性に行動的な許さないことを割り当てる展開と、またしても同じ構造です。
    私たちは、どんな難事件に直面しているのでしょうか?

    3.またひとつ、許す性

    さて、人質を取られて佑馬を許してしまった片桐は、パートナーとの和解をやや唐突に語り出します。
    子供をもうけるかどうかの衝突で、設けたくない側であった彼女が、もうけることにした、と。

    片桐とパートナーの間でのこの争点はもともと、少なくとも作中で語られる限りでは、精子バンクの倫理性や同性カップル家庭で子供が幸せかどうかといった社会的な論じられ方ではなく、お互いが子供をもちたいと思うかどうかという私情のみによる衝突です。
    それを割り当てることが正しいかどうかはさておき(佑馬のほうは居酒屋で社会的な語りかたをしたことと比較してしまうとちょっとどうかとは思いますけど)、そのように設定されている以上、この場でも継続して私情で語ること自体は当然ではあります。
    解決に至る経緯が私情なのも、同様に作中では必然です。
    また、「脇役」なので、舞台裏で解決しているのも仕方ないことではあるでしょう。

    ただ、以前「「許し」という溶接」で論じたように、女性に「感情的な許しを割り当てる」ことのまたひとつの実例ではあります。
    佑馬は久保田を許さず殴るし、樹も佑馬を許さず別れるのに、「女」は許してしまう。
    志穂は社長を許し、片桐は佑馬を、そしてパートナーを許す。

    4.人間なのは分かってます

    4-1. As a noodly appendage

    そして、ここからがさらなる大問題です。

    「意味わかんないよね。私も意味わかんないもん。なんでそうなるんだかって感じ」
    「人間だからですよ」

    ――片桐と佑馬

    ……ぱーどん?
    「言葉遊びではないと態度で伝え」たところで何の意味もないです。自分が言いたいことを言っているだけで、「なんで」になにひとつ応答していないのですから。
    「空飛ぶスパゲッティモンスター様のヌードル触手の導きだからですよ」と言ったらびんたされるでしょう。
    でも、情報量はどちらも正確に同じです。ゼロ。

    「どうして別れたのかな」
    「どうして同性愛者なのかな」
    「どうして異性愛者なのかな」
    「どうしてウミガメのスープを食べた人は絶望したのかな」
    ――なんにでも接続できるから、なんにも説明していません。
    情報があるとすれば、私はあなたの個別事情を理解するつもりがありません、というメタ情報だけです。空文。
    もしよろしければ、一度ウミガメのスープを遊んで、「人間だからです」と答えたときの出題者の顔を見てもらっても差し支えございませんでしょうか?

    4-2. 個人として

    志穂に求められたことは、なんだったでしょうか。樹に(相手が自分を開示していないにもかかわらず)ちゃんと向き合うこと。
    では、自分を開示している片桐に対し、「空飛ぶスパゲッティモンスター様のヌードル触手の導きだからですよ」……いえもとい、「人間だからですよ」という情報量ゼロの言葉を一方的に断言して満足することは、向き合っていると言えるでしょうか。
    理解しようとしていると言えるでしょうか。
    自分の言いたいことを言って、満足しているだけではないでしょうか。
    ※樹に向き合うとは、樹がなぜ仕事を辞めたのか、ふだん何をしていたのか、調べることだった作中事実を思い出しましょうね?

    そして百歩譲って向き合おうとしていたと認めたとしても、「人間だから」という普遍化は、やはり失敗です。
    片桐は確かに「他の人間と同じ人間」です。
    しかし同時に、あるいはそれ以前に、片桐という個人です。

    この場面で必要なのは分かりきった前者の確認ではなく、後者の理解と共感です。
    「なんでそうなるんだか」という疑問への誠実な応答に、「人間だから」は失格しています。子供をつくると決めても、つくらないと決めても、「人間だから」は接続してしまうのですから。
    「子どもを作るか作らないかで揉めるなんて、男女の恋人にだって普通にある。自分たちは人間だ」という一人称的三人称の地の文は、佑馬は頭の中でさえ、前者しかしておらず、作者がそれをおかしいとも思っていないことを示しています。

    そして、深読みすれば、これは佑馬の自己正当化であるとも言えます。
    「人間だから、みんな理屈通りには動けない。だからあなたの決断も、私の嘘も、等しく仕方のないことだ」と。
    少なくとも、この会話で、佑馬が片桐を「正当化」しうる権能はどこにもありません。

    4-3. おまけたち

    ちなみに例の「許せないなら許さなくていい」も新奇性はゼロですけど、あちらは許してしまっている人間に響く言明ではありました。
    対してこちらは、片桐が自分が人間でないと思っているはずがないので、進次郎構文よりさらに意味がありません。

    ですので、肯定しないという前提で書きますが、「レズは性行為をしたらほだされるのだ」というような差別発言のほうが、まだしも情報量があります。
    そうではないが、ではなぜだろう、人格に感銘を受けたのか、これまでの関係性か、など、考察を進めることができるのですから。
    エジソン的な意味での「間違いをひとつ減らす」機能があるわけです。
    もちろん差別発言は人を傷つけるので言うべきではありませんが、情報量だけで測れば、ということです。

    というか、差別発言という切り口で読めば、いちおうこれは佑馬も回避しようとしているとは認めますけど(そもそも佑馬は別れる側ですし)、原理上は「じゃあ、同様にもめたが、『そう』ならず、別れる/子供を作らないことにするカップル」は「人間じゃない」のですか、とつっこまれますからね? 「人間だからです」論法は。
    真剣な顔を作るより前に、論理と倫理を考える必要があります。

    4-4. If I were you.

    もし私があなたなら。

    • 「僕にも分かりませんって。でも、王様の耳はロバの耳の古井戸代わりに聞くだけならいくらでも聞きます」

    • 「推理だけならいくらでもできますけど、聞きたいですか?」

    • 「きっと肉体的相性がいいということじゃないですか(きりっ)」

    ……どれもひっぱたかれそうですけど、人間だからよりは知能があるのではないでしょうか。
    (なお最初のは「その井戸あとで喋るじゃないか」と言われますね。)

    ともあれ、これらの反実仮想を考えていて、こういう場面でも「断言」するんですね佑馬、とは思いました。
    樹に対してそうであったように、片桐に対しても裁定者であり、そして樹に対する態度を自省したあとにもかかわらず、片桐という女性に対してはそうであることを顧みさえしない――と。

    そして志穂に対しては「背負いたいなら、背負わせればいい」と、逆に何も言わないという形で最低、いえ、裁定するのでした。
    どちらも自己完結し、相手に本当に必要な判断材料を提供できていない、という点で同罪です。
    「いいえ、あなたのせいではなく、すべて僕の嘘が原因です」と言ったうえで、志穂がそう思わないならディスカッションする。
    それこそが「対話」であり、それこそが「向き合う」ということなのですが……だいなしにしやがった、おまえはいつもそうだ、です。

    おわりに

    自家中毒、という言葉があります。正式な医学用語ではありませんけれど、ここではひとまず、「自分が作り出したもので自分が苦しむ」くらいの意味にとらえておいてください。
    ――自家中毒、ではないでしょうか。
    作品が掲げる倫理を、その作品自身に適用してみたら、作品が耐えられないという現象は。

    最初の論考から、女性は当初大義を掲げながら、物語が進むにつれてその大義の主体であることを剥奪され、ケアワーカーへと役割を変換されていく、と論じました。
    「嘔吐」において、Only A's lives matterではないか、と論じました。

    片桐は志穂と同じく女性であり、Aに含まれません。
    その片桐が、正当なはずの怒りを表明せず、加害者の心理を理解し慰撫する役回りへと配置転換され、個人の事情を反映していない空文のみを与えられる。
    志穂が許し、ケアワーカーにされ、個人として見てほしいと主張する男に「女」「姉ちゃん」呼ばわりされることは、すでにみたとおりです。

    Q.E.D.――と言ってしまってよいでしょうか、みなさん?


    おまけ:志穂と佑馬のエンディング

    上で書いた片桐と比較するために、あらためて志穂と佑馬の最後のシーンを見たら、とても自家中毒していて頭痛が痛いので書き飛ばしておきますです、はい。

    「あまり背負いすぎない方がいいですよ」。そんな言葉が脳裏に浮かび

    ――佑馬の一人称的三人称

    ……えくすきゅーず?
    浮かぶべきはそんな言葉じゃなく、ただひとこと、「僕のせいですよ」です。
    嘘をついたのは誰ですか?
    樹を暴発させたのは誰ですか?
    決定権がないと寝ていたのは誰ですか?
    ああ、それなのに、それなのに、脳裏に浮かぶのは他人への上から目線の言葉。
    水星のようにお堅い言い方をすれば、罪の所在を自分の行動から他人の人格に転嫁する、責任の外部化です。まるで溶岩石のように他責思考に凝り固まっているおつむりと診断されます。やめなさい(ばちん)。

    ああ、そうか。あいつもきっとこういう気持ちで、俺のことを見ていたのだ。

    ――佑馬の一人称的三人称

    なにやら感動的な相互理解――ではなく(この場で対面している志穂を理解した言葉ではないですよこれ)、樹の理解をしたように思っていますけど、志穂に向き合えという当然のつっこみをいったん措いておくとしても、樹のそのまなざしの結果はどうでしたか? お別れ、でしたよね。
    つまり、その見かたは佑馬が望んでいない結果をもたらした、佑馬視点において失敗した方法論です。
    相手を他人のために無理をする人間だと見て、合わせようと思って、けっきょく我慢できなかったという樹の顛末は。
    「言えないような関係だからこうな」ったと樹が総括していた、それを再演するということは、志穂とこのさき関係したくないご意向でしょうか。ずいぶん冷酷なお人です。
    いっぽう、関係したいのにこの方法をとったなら、歴史どころか経験からも学ばない人ということになりますけど、鉄血宰相になにと形容されるのでしょうか?
    ※書くまでもないですが、ビスマルクに仮託されるエピグラムでは、歴史に学ぶのが賢い人で、経験してようやく学ぶのはあまり賢くないと形容されますけれど、その……。

    自分だったらどうされたいかを考え、余計なことを言わずに頷く。

    ――佑馬の一人称的三人称

    でーすーかーらー、その方法論は以下略です。
    こちらは樹のまなざしどころか、佑馬自身が糾弾された方法ですよ。「自分だったらどうされたいか」という勝手な想像に基づいて「余計なことを言わず」相手の行動を「決める」というふるまいは。
    樹はノーを言えないから代わりに決めてやる、という挙措は、他者を人間扱いしていないのだ、と。
    いっけん、今回は志穂の決断を尊重しているようにも見えますが、そうではありません。自分ならどう思うかに基づき、彼女のあるべき状態を勝手に「決めて」いるのですから。
    次にみる、謎の全能感に沿って。

    荷物を奪われることで不安になる人間もいるのだ。背負いたいなら、背負わせればいい。

    ――佑馬の一人称的三人称

    自分は樹たちに何を言われても他人のための無理を止めなかったのに、自分が言えば志穂の荷物は奪える心算だとは、なんともすごい人です。「対話」をするつもりはないんですね。
    と幼児期特有の全能感を措いておいてあげるとしても、佑馬が理解したはずの命題――断る権利も含めて自分である――が彼に命ずる義務は、「あなたの責任ではなく、僕の嘘が原因です」と言葉にして「荷物を奪」おうとし、それでも志穂が背負いたいと「断る」権利を尊重することです。
    志穂がノーを言えないと、荷物を奪われると思っているなら、それは人間扱いしていないことです。
    そう、樹は言っていました。
    そう、佑馬は学んだはずでした。

    なお念のためですが、荷物を奪おうとしなさいという命題は反実仮想ではありません。
    他責思考な実際の佑馬でさえ「あまり背負いすぎない方がいいですよ」という言葉は浮かんだのですから、浮かんだとおり「背負いすぎないほうがいい」と言葉にする責務が課されることは、IFではなくテクストの事実のみから十分に導かれます。
    すなわち、自家中毒しています。

    もちろん、「僕のせいです」または「背負い過ぎないほうがいい」という発話に、違いますと志穂が「断る」なら、お互いの考え方を開示して「対話」をする。
    そうしたうえでこそはじめて、「背負う」という選択はこの作品の用語で言えば「人格」を持ちます。
    この作品自体が求めているのは、そういう営為でした。
    その、はずでした。
    ……まあ、樹に対してもDoes he take sugarでしたから、ここできゅうに実践できるはずもないのですけど……。


    この佑馬。
    これを、肯定的に描くテクスト。
    ――絶望的な自家中毒としか、言いようがありません。




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