
「許し」という溶接:『100日後に別れる僕と彼』
※論文っぽい書き方は力尽きましたので、真面目な考察を期待される方は論考①と②を、読みやすいのがお好きな方は対話篇をどうぞです。シリーズについてはマガジンをどうぞ。
「許せないなら、許さなくていい」。
作中での「悪役」が発した言葉とはいえ、その時点では救いとして、そして真実が明らかになったあとでさえ佑馬に採用されるのですから、この言葉は『100日後に別れる僕と彼』における真実として機能させられています。
ですが、ほんとうに真実でしょうか?
少し長くなりますが、順を追って整理させてください。
1.またしても、進次郎構文
まず、このテーゼに対する樹の反論――「許せるなら、許してもいいだろ」です。
反論の形を取っているように見えて、その実、なんの対立軸も形成していません。「許せないなら許さなくていい」と言っている人に対して「許せるなら許してもいい」と返したところで、「ええ、それはそうですね」としか返ってこないでしょう。
なぜ、作中ではこれが議論として成立するのでしょうか?
――まあ、「世界を変えるとは、世界を自分好みに作り替えること」が成立する世界では、いまさらではあります。
2.「許す女性」と「許さない男性」
さらに歪みが際立つのは、作中における「許し」の配分です。
志穂は、無自覚な性的発言をした日出社長を「許す」という選択をします。
もちろんこれには、訴えたり退職したりしないという行動としての意味もありますが、本質的には「彼に決定的な悪意はなかった」と正しく認識した上で、感情的・人間的に、許容するという内面的処理です。
一方で、佑馬はどうでしょうか。
彼は自分を陰で悪く言っていた久保田を「許さない」という選択をします。
興味深いのは、佑馬自身も「彼は周囲に同調した面が大きい」「彼に恩義がある」と理解している点です。感情的・人間的には許容しているにもかかわらず、佑馬は久保田を行動として許さず、殴りつけました。
この対比には、物語としての強い恣意性を感じざるを得ません。
被害者である女性には寛容な聖母としての「感情的な許し」を割り当て、加害者であるはずの男性には第一の性としての「行動的な許さないこと」を割り当てる。
――これもまた、詐欺被害に遭った女性のがわが何故か「どれだけ罵倒されても構わない」と言わされる世界では、いまさらではあります。
3.許しという溶接
ですが、本質的な問題は、この先にあります。
そもそも、「許せないなら、許さなくていい」というテーゼそのものが、倫理として根本的な誤りを含んでいるのではないか、ということです。
進次郎構文であることは論じません。改めて言明することが意味をもつ場合はありますから。
けれど――実は、2.でも撫ぜたのですが――「許し」という言葉には、ふたつの意味が、これまたいつものように、不当に溶接されています。
3-1.感情的な許し
ゆるすとは、「ゆるめる」に由来するそうです。
縄をほどいてあげるという意味でもあるでしょうが、やはり、自分の心を緩めるという感情的な意味が大きいでしょう。
心理学的にも、許しとは感情のプロセスです。
女性に割り当てられているのはこちらです。
相手がした言動の理由を知り、容認すること。
社長の性的言動だけでなく、佑馬のクソみたいな――失礼、後先考えない大嘘も、樹の的外れな非難も、志穂は容認します。
逆に彼女にセクハラをした男たちを許さないという言明も、行動につながりません。
片桐も嘘をついていた佑馬を一切責めませんし、尚美も然りです。
「理解する側」でしたでしょうか?
3-2.行動的な許し
一方で、感情に関係ない、行動としての許しも存在します。
裁判の「和解」――近代法からガチャチャまで――や行政の「許可」は、感情をゆるめろと求めるものではなく、特定の行為にのみつながるものです。
そして男性に割り当てられているのはこちら(をしないこと)です。
相手がした言動の理由を知り、容認さえしたとしても、行動としては処罰すること。
完全な悪ではないと認識している久保田を殴るだけでなく、未練の残る相手である樹にも「クズ」と言うし、自分のことはどうでもいいと言いながら社会的なメッセージを発し続ける佑馬。
そして樹も、許せるなら云々と言っておきながら、感情的には「寂しい」のに、行動としては佑馬を捨てるという処罰を選びます。
男は感情で行動を変えない、とすれば、これはこれでつまらないステレオタイプに過ぎません。
3-3.溶接の結果
その結果、以下のようなシチュエーションが、不可視化されてしまうのではないでしょうか。
感情的に許せなくても、行動としては許さなければいけないもの
そう、たとえば、自ら注目やパートナーの引き留めや住居の確保を狙って露出を果たし、結果として目的は果たせたが望まない消費のされ方もしたという場合です。
そのとき、感情として「不快だ、許せない」と思うこころ自体は当然です。けれど、リスクを承知で自らその場に乗り込んだ以上、結果として生じた現象は本来の意味での自己責任です。「私の感情が許さないから相手が悪い」と殴りに行くことは、権利の行使だけを望み、自己決定に伴う責任を拒絶する我が儘に過ぎません。
※具体の樹は正しい相手を殴ってさえいませんでしたけれど、今回は、そこが本質ではありません。感情的に許せても、行動として許してはいけないもの
いっぽうで、佑馬(と、消極的に樹)の行った、破局を隠してドキュメンタリー取材を受けた詐欺行為はどうでしょうか。
被害者の心が広く、個人として「切実な思いは理解できるので感情的には許そう」と思ったとしても、嘘を許すことは本来してはいけないはずです。その時点でまだ届けられてもいない視聴者へのではなく、志穂やライジング・サン、キー局、さらには片桐などへの加害行為なのですから。社長が言うような経済的損失の危険も、志穂や山田の過重労働も、彼らの嘘がなければ必要なかったものです。
感情としては許せても、行動としては許してはいけない局面は存在します。
志穂に「私は春日さんの人生を大きく変えました」と言わせる物語は論外ですが、佑馬と樹が虚偽の責任を問われないことは、もうひとつ深い階層の問題です。
「許せないなら、許さなくていい」という言葉は、理不尽に傷つけられた人の心に点す炎としては確かに有益です。ですから当然、「許せるなら、許していい」という言葉も、反論でもなんでもありませんが、同じ言葉の裏表として有益です。
ですがそれらの射程は、しっかりと測らなければならないのではないでしょうか。
感情的な許し、行動としての許し。
そのふたつを曖昧に溶接したまま美しい物語に仕立て上げるやり方に、どうしても引っかかってしまうのです。
作中の論理に正しく沿えば、志穂は佑馬に「あなたの事情は分かりましたが、嘘をついていたことは許せません」と言い、行動として許さない権利があるはずです。樹に「あなたの傷つきは分かりましたが、私や世の中の女性を雑に棒で殴ったことは許せません」と言い、行動として許さない権利があるはずです。
しかしその権利は、選択肢として提示さえされません。「どれだけ罵倒されても構いません」と言わされるなど論外です。
性別によって適用される論理が変わることを、もっている権利が変わることを、普通は差別と呼びます。
自分でもこだわり過ぎだとも思いますけど――許せないなら、許さなくていい。
そうですよね?