
私情の法廷:『100日後に別れる僕と彼』論
尚美の有害で誤った説教のうち、「私たちの想いなんて、ドキュメンタリーにとってはどうでもいい」という一節については、すでに検討しました。
育児に悩む尚美であっても、仕事と育児を両立する女性のドキュメンタリーを作るように言われたら、私情で落ち度ばかりを探すのではなく、公平な作品を作らなければなりません。
ですから「私情はどうでもいい」は業務に臨むうえでの真理値としては一定の真です。
有害なのは、今回の志穂においては私情と業務の大義が一致しているのに、両者をまるごと溶接してごみばこに放り込むような発話になってしまっていたからでした。
(なお、「大義がどうでもいい」だとすれば、それは無条件で偽です。ドキュメンタリー撮影の目的は佑馬や樹のお気持ちを満足させることでも、ただ単に彼らを理解することでもなく、クライアントの大義に沿った作品を作ることなので。理解するのはあくまで作品の質を向上させる手段で、目的ではありません。むしろ被写体の「理解される」努力のほうが必要です。)
「佑馬のせいじゃない」「樹を分かる努力をしろ」「私たちは理解する側」など、他の全ては真理値じたいが偽で(どう考えたって佑馬のせいですし、樹は理解される努力をする必要があります)、片桐同様に人質を取られているとしか思えませんけれど、それらはすでに確認済みとしまして。
ただ、この発言にはもうひとつ、これまで十分に検討してこなかった点があります。
この真は、取材される側にも等しく適用されるはずだ、という点です。
佑馬の復縁したいという私情も、樹の不快だという私情も、「ドキュメンタリーにとってはどうでもいい」のです。
自家中毒を、診断していきましょう。
マスコミだから?
いやいや、撮影者と被写体は同じ立場ではないでしょう、と言われるかもしれません。
いいえ、同じです。
ひとつの作品を作り上げるなかでの、役割分担なのですから。
事件被害者や、場合によっては加害者を取材する報道番組と、ドキュメンタリーは異なります。
報道なら、客体である被写体の不快だという私情は正当です(撮影者がそれを受けて控えるべきかは場合によります)。
けれどドキュメンタリーの被写体は、番組作成に同意し、進んで参加している、主体のひとつです。自分の望む映像を得たい、役者にこそ近いでしょう。
よって主体Aの私情がどうでもいいなら主体Bの私情もどうでもよく、主体Aが仕事なら主体Bも仕事なのです。
私情の法廷
私自身は法曹資格者ではないと断ったうえで書きますが、本件が事件化したらどうなるでしょうか。
佑馬が偽計業務妨害や詐欺にあたるのは当然ですけれど、樹が最初は同意していたのに途中で男性を連れ込むという破壊行為に出たことも契約不履行にあたり、「私は分かられる側なので、分かられず素材扱いされた不快で一方的に撮影を投げだしてよいのです、私情万歳」と言い逃れられる可能性は少しもありません。
刑事でわいせつ物陳列罪や暴行罪に問われるのとは別に、民事での損害賠償を求められます。
最初から非協力的であったことは、樹に不利に働く情状ですし、非協力的であること自体が契約不履行としてペナルティの対象になっても当然です。
志穂が、なぜ樹が想定どおりにふるまってくれないのか不満に思ったことを自己批判させられていますけれど、ずいぶんと偏った物語です。
いやその、まっとうな社会人として、契約した相手方が「仕事」をさぼってたら不満に思うのはとうぜんですから……。
口約束でも契約は成立し、撮影者と被写体は契約上対等な関係であり協力すべき主体どうしであることは、法廷では明らかです。
Too big to be protected?
それでもマスコミは権力ですむぎゃおー、と言うかもしれません。
ええ、運輸会社や公的機関、さらにはマスコミでもニュース報道などであれば、個人との力関係は不均衡です。
けれど、保険契約を考えてみましょう。
保険会社は巨大な組織で、場合によっては保険金を払い渋るなどの力も行使しますけれど、契約する段階では被契約者より情報が少ない場合が多いです。
そのため、契約時に個人がうそをついていた――たとえば余命1日だった――といった事実が明らかになれば、巨大組織のがわが保護されます。
今回も同様に、作成時点で情報を持っているのは制作側ではなく被写体側です。
すでに破局しているという、企画の根底を左右する最重要の事実を握っているのは佑馬と樹であって、ライジング・サンには、それを独自に調査する権限も、リソースも、そもそも期待さえもありません。
興信所に行ってから撮影を始めるディレクターがいたらへんないきものです。
権力勾配があるとすれば、それはマスコミから彼らへではなく、むしろ彼らからマスコミへの傾斜です。
じょぶりれーてっど
そして、志穂の私情なるものは、実のところ、彼女の行動を何ひとつ変えていません。
もしなんの私情もない、おしきせの大義による映像を淡々と撮ることしか考えていないロボット的ディレクターだったとしても、クライアントが望んだ作品を作り上げるためには、非協力的な樹よりも協力的な佑馬を優先するのですから。
マイノリティの理解を増進するための番組を作るという大義は、志穂の私情が駆動したものではなく、業務として(そして佑馬の私情によって)生じたものです。
私情があってもなくても結果が同じなら、その私情は罪ではありません。
私情とドキュメンタリーの大義はたまたま一致しただけで、確かに、「どうでもいい」。
なのに結果を変えない志穂の私情は咎められ、結果を変える有害な私情だけが、ある属性の男※の私情だけが、称賛される。
いつものONLY G's lives matter.です。
※男のもうひとり、佑馬のほうは、樹と復縁したいという「私情」は実は行動を変えていないかもしれません。理解増進という「大義」だけでも、実際は関係が破綻しているのに撮影を引き受けた可能性はありますから。
あとでばれたら困るので、最低限片桐、あらまほしくは志穂たちに最初から説明したうえで可否を考えてもらいなさい「馬鹿」が正当な評価でしょう。
私情がパラレルだとすれば、志穂と尚美の想いが仕事上「どうでもよい」としても存在は認められるべきなのと同様に、佑馬にもあってよい。
最後のあれは「差別」ですけど、別の論点です。
撮影者と被写体は、同じ作成者チーム。あるいは、被写体のほうが権力がありさえする。
佑馬はもちろんですけど、樹も主体的に参加している被写体です。
さて、どうして、撮影者の想いがどうでもよいを真と置いた場合に、被写体の想いはどうでもよくないのでしょうか?
あ、念のためですけど、以前にも書いたとおり、もう無理ですという私情の表明じたいは正当ですよ。
仕事をしている人が偉そうに言えるものはなく、仕事上は「どうでもいい」ので、私情でへたれてごめんなさいと言いながら表明しましょうね、ということです。
そう、許可を取りなさい、と。
自家中毒;いつもの
はじめにも書いたとおり、志穂の、そして最初の尚美の私情は、番組の大義と整合していました。
女性が生きやすい社会という私情は、LGBTQ+への理解を広げるという番組の大義を通じてなされる、と考えていたわけですから。
私情=大義のもとによい番組を、佑馬(と、消極的にですが樹)が望んだとおりに、作ろうとした。
重要なのは、私情は補助エンジンであり、第一の動因は番組の(彼女のではない!)大義だ、という点です。
いっぽう、樹の私情は、番組の大義と整合していませんでした。
注目されたくないという私情は、LGBTQ+への理解を広げるという番組の大義とは矛盾するのですから。
私情のもとに番組を、最初は消極的にとはいえ自分も望んでいるようだった形から、逸らして破壊した。理解が広がるとおなかを上にして死ぬへんな熱帯魚が自認らしいので。
重要なのは、第一の動因である番組の(彼が自ら参加した!)大義を、「どうでもいい」私情で破壊した、という点です。
佑馬は先ほど「じょぶりれーてっど」でみたとおり、表面上は私情と大義が整合、じつは復縁したいという私情と大義はパラレルですね。
樹とは違って、厳しくみても、矛盾ではないけど同じでもない、までです。
いえ、うそつきである罪はそれとは別にとても重いですけど……。
ではどうして、志穂は「私情はどうでもいい」と言われ、「甘えてました」と自己批判するのに、樹が「見世物にされて性に合わねえわ」と私情で離脱するのは、肯定されるのでしょうか。
樹も自己批判をしたほうがよいのでは? 同じ作成者なのですから。
どうして、ドキュメンタリー作成そのものが正当な目的として認められず、被写体を分かってあげるための手段に成り下がるのでしょうか。
樹も正当な目的に邁進したほうがよいのでは? 対等な契約者なのですから。
"I'm not your mother"
そもそも、ドキュメンタリー撮影はセラピーセッションではないですよ?
記者は格別、ドキュメンタリーの撮影者が「分かってあげる側」という定義は、どこにも根拠のない、尚美=作者による謎の独自理論です。
法廷では通用しませんし、wikipediaだったら[独自研究]タグをつけられてしまいます。
先ほどから考えてきたとおり、撮影者と被写体は対等な契約当事者、ふたつの主体であり、一方が他方をケアする義務を負う関係ではありません。
「私情は仕事の前でどうでもいい」は、双方に対称に適用されます。
ですから、樹が癒される、あるいは不快を覚えるのは、成果物である番組にとっては「どうでもいい」ことです。もちろん佑馬が救われることも。
作るための手段として「向き合う」のはよいですけど、目的にはなりません。
樹と向き合わず、出世したいという私利私欲で、綺麗な偽の番組を作り上げたディレクターがいたとしたら、大いに結構です。
そしてコインの表裏として、「分かる/分かられるよう努力せよ」も、双方に対称に適用されます。
撮影者視点、「番組を作る」ことが被写体の希望である、と判断するのは当然です。
撮影のために「分かられる」よう努力している、と期待するのも当然です。
復縁したいという私情、よしよししてほしいという私情を持っているなんてことは想定できませんし、そうだと分かったら「よそを当たってください」です。
――仕事のはずなのになぜか理解してもらえる側になれる樹さま特権なんてものはない、のです。
おわりに
最も真面目に向き合っていなかったのは、真面目に向き合うべきだったのは誰か。決まっている。忘れないで欲しい男、長谷川樹だ。なのにその怠慢を棚上げにし、厄介ごとに巻き込まれたかのように振る舞い、ちょうどいい言い訳を見つけてここぞとばかりに飛びついた。
自分がエロ絵を描かれたから、何もかもを放り出していいのだと。
Only G's lives matter. この言葉以外に、説明は見当たりません。
おまけ:SMART
人事評価のための目標設定では、SMARTが大切です。
Specific, Measurable, Achievable, Relevant, Time-bound.
樹に向き合うという目標設定は、スマートでしょうか。
Specific(具体的に):
具体的ではありません。「がんばる」ではなく「新規顧客を10件獲得する」といった具体性が必要です。Measurable(測定可能な):
測定できません。Sと同じといえばそうですけど、「いいものを作る」ではなく「顧客満足度で高評価が80%」のように測定できることが必要です。Achievable(達成可能な):女性に全裸を見せる中二病発言な加害熱帯魚と向き合うことが達成可能……?
Relevant(組織目標に関連した):
さて、最大のポイントはここです。樹に向き合うことは、番組作成に関連しているでしょうか。
客観的事実を垂れ流そう、と思っているディレクターがいたとしたら、むしろ分かっていません。この番組はなぜ求められているのか。キー局から、そして同意したはずの被写体自身の過去の発言から、テーマ・方向性を読み取れないとしたら、そのほうが問題です。私情と一致しているかは偶然にすぎない、のでした。
樹を分かってあげることは、Rではありません。樹の私情を満足させることは、Rではありません。Time-bound(期限付きの):
期限がありません。いつまでに「向き合う」を完遂するか決めましょう。先にSとMをしないとだめですけど。
と、いうわけで。
尚美は志穂の評価権者ではないですけど、仮に評価目標だとしたら、スマートではないですね、と評するしかありません。
精神論的な指導や、苦しみの訴えに対してあなたに問題があったのではと返すことも、典型的な悪い対応です。
おまけ2:脚本家さん、ちょー皮肉を言う
ところでドラマ版、脚本家の三浦直之さんのコメント。
いつも弱さの側に立ち続けて物語を書いているなあと感じます。
いつも偏っていますね、と……。なんとも鋭い皮肉です。
本音だとしたら、志穂や片桐の側に立っていないので、ただの誤認ですけど。
自分と社会との間でおこる摩擦によって生まれる傷。
樹は「社会」(BLを読む「やつら」)に消費されたというレベルの解像度でしかないし、佑馬も片桐や志穂を踏みにじって「社会」に認めてほしいと言う。樹の「世間」に覚えていてほしいに至っては誤変換です。なるほど絶望的に「自分と社会との間」で、特定属性以外の個人が描けていないことをよく指摘できています。
強さとは違う形で傷を癒そうとする登場人物
そうですね、詐欺(佑馬)とか、やつあたり(樹)とか、強さとはものすごく違う形ですね……しかも癒やそうとするのは自分の傷だけ。
他人をどれだけ傷つけたか、当人たちも、物語も、検証しようとさえしない。
ええと、これ、全体的に、ちょー皮肉で言ってます? 脚本家さんということは、子ども食堂という手当ても主導された(=小説版樹をクズだと思った)のかもしれませんし。
なるほど、「ブルータス君は高潔の士です」というあれですか。アントニウス同様、ブルータスを悪くは言えない状況でしょうし。
しかしそうでなければ、「壁と卵」の盗電です。
あちらは壁というほとんど比喩ですらない単語を用いているとおり、彼が否定した「強者vs弱者」こそが真であり、武器を持たず民主的に壁に立ち向かう卵の側は、精神的にはむしろ「強い」のですから。他人の傷のために、自分が壊れる覚悟をする。
自分の傷のために、他人を壊す佑馬、樹、そして社長(離婚の愚痴のことです)は、「弱い」ですし、それは決して褒められるべき弱さではありません。
いつも弱さの側に立つ? やめなさい、です。