
ぽれぽれと、ぽれぽれをかんがえる。
東アフリカで話されるスワヒリ語で、ぽーれは「おかわいそうに」であることを、足をふまれたときに言われて知りました。
では、ぽれぽれは「たいそうおかわいそうに」でしょうか。
スワヒリ語をあまり知らない人でも知っているであろうとおり、そうではありません。
ポレポレは「ゆっくり」です。
(そしてシンバは「ライオン」でテンボは「ゾウ」、ジェンガは「建設する」です。)

日本語では、繰り返すともとの意味が強調されます。
ですから、ぽーれが「おかわいそうに」なのだから、ぽれぽれが「たいそうおかわいそうに」だろうと推理するのは、日本人としては筋がとおっています。
「煌々」とか「淡々」とかは、きらめいていたり、淡泊だったりする様子が、一文字のときよりも強調されていると考えられます。
(もちろん、いまではもっぱら繰り返して使う、とは思いますけど。)
「人々」や「日々」だったら、複数の人や日という意味になり、強調というか増量というかで、方向性としてはやはりおなじです。
「さまざま」「ところどころ」なども、様子が複数で文字通り「多様」、場所が複数で「いくつかの所に」、と解釈できるでしょう。
オノマトペの場合も「どき」が「どきどき」になるとか、「きら」が「きらきら」になるとかから感じられるように、増量・持続のニュアンスがあるのではないでしょうか。
けれどスワヒリ語のぽれぽれは、「たいそうおかわいそうに」ではありません。たいそうおかわいそうには、ぽれさーなです。
そんなふうに考えると、スワヒリ語は「日本語とおなじように繰り返す単語が多い」といっても、なかみはだいぶ違う気がしてきました。
barabara(道)は地面にはあっても、bara(大陸)が複数ある存在ではないですから。
takataka(ごみ)とtaka(求める)、pilipili(とうがらし)とpili(二番目)は、そもそも違う語源らしいです。求めることばかり繰り返すと誰も求めないごみになる、だったら哲学的?ですけど。

でもdaladala(乗り合いバス)は、dala(ダラー=ドル=お金)を払って乗るもので、みんながダラーを払うからたくさん集まると考えると、ちょっと「増量」のニュアンスがあるかもしれません?
いっぽうpikipiki(オートバイ)はエンジン音に由来しますから、繰り返されてとうぜんです。一度だけだったら止まってしまいます。
※でも口頭ではpikiと略すことも多いです……endesha piki!
ほかにもkumbikumbi(羽アリ)・konokono(かたつむり)・kolekole(アジよりもうちょっと平たくて丸っこい青身魚)・mdudu(虫)・chapchap(急げ)などなど。
あ、などなどは日本語ですから、「など」の増量ですね。
なので、polepoleもおかわいそうにが複数ある存在ではありません。
ただ、barabaraとbaraがどちらも陸地であるくらいには、poleとの関係はあると思います。
日本語で「やさしく」と言ったときに、気を遣って(pole)とも、やわらかく(polepole)ともとれる、ようなものでしょうか。
と、いうわけで。
「ぽれぽれと、ぽれぽれをかんがえる」というタイトルは、「ゆっくりと、ゆっくりという語を考える」という意味なのでした。
さっき書いた「求めることばかり繰り返すと誰も求めないごみになる」はうそですけど、「急ぐと幸運がなくなる」という意味の、Haraka haraka haina barakaという言い回しはほんとうにあります。
あ、このharaka harakaは、音を繰り返したひとつの単語ではありません。
harakaという単語がふたつ、で、正書法はこうですし、発音するときも二回アクセントがあります。
スワヒリ語では単語の後ろから二番目の音節にアクセントが来るので、二回アクセントがあるなら、二単語だと確信できます。
日本語でも「急げ急げ」と、同じ言い方ができますし、こちらはスワヒリ語でも日本語でも「強調」する意味になります。
大切なことだから二回言いました、というあれですね。
sawa sawa.(分かった分かった)
けれどぽれぽれは、polepoleで一語で、発音の区切りもなく、よって、poleの強調ではありません。
ゆっくりしていってね!
