
浅井久政&長政の軍師・遠藤直経
遠藤直経は、浅井家の軍師で、織田信長を暗殺しようとした男である。

🔳信長暗殺計画
永禄11年(1568年)8月7日、『太閤記』では、織田信長が足利義昭の擁して上洛する前に浅井長政と対面するとして、磯野員昌の近江佐和山城で饗応を受けたとき、直経は宴席において毒をもちいて信長を暗殺を実行しよう思い立つが、なかなか中座しない長政と相談することができなかったので、小谷の浅井久政に謀略の許可を得ようとするが人の道に反すると断られて、やむなく中止した。しかし信長を殺さなければ後々後悔することになると思い定めて、直経は信長と刺し違えようとするが、羽柴秀吉に機転によって妨害されて失敗する。
また、更に続いて同月17日(『太閤記』と『浅井三代記』では)浅井家と織田家の婚儀が結ばれた後、信長が柏原の成菩提院(じょうぼだいいん)に泊まった時に、直経・浅井縫殿助・中島九郎次郎の3名が接待役として残されたが、信長が馬廻衆を返して小姓15人程度だけであることをみて、直経は夜に急ぎ小谷に帰って、信長を暗殺するように長政に進言したが受けいれられなかった。
🔳『絵本太閤記』「遠藤喜右衛門討死」





元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」のこと。浅井長政軍が敗退となった時、浅井長政の軍師・遠藤喜右衛門は、織田信長とさし違えようと、首一つをひっさげて織田の陣に入り込み、織田信長に近付くが、竹中半兵衛の弟の久作(竹中重矩)に見破られる。遠藤喜右衛門は、持ってきた首を織田信長に投げつけ、竹中久作と組み合って首を取られた。

遠藤政忠(注:遠藤直経)は浅井家の功臣。智勇全名士なれば、主家万全の良策を進むるといへども、長政の父・久政、暗愚にして、計事を拒み、用いず。政忠、家運の傾るを知り、潔く討死せんと、阿根川出陣の以前、朋友を集て名残の酒宴を催しぬ。斯くて合戦の当日には衆を離れて只一手、大多家(注:織田家)の堅い陣に突いて入り、縦横無尽に切りて廻り、向かう所を悉く敗しが、味方、竟に総敗軍となり、手勢も残らず討死しかば、「今ははや是迄なり。何卒敵陣に紛れ入り、大将・春永(注:信長)と刺し違えん」と、血を以て面に塗頭の髪を乱しかけ、首ひとつを堤て袖印を裂き捨て、難なく大多の旗本へ紛れ込み、能首取りて候へば、御大将の実検に備へん呼りながら、春永の間近走来るを側にありたる建中久作(注:竹中半兵衛重治の弟・竹中久作)曲者なりと見てければ、実検の首、取次せんといひつつ、押隔てて寄り付けねば、扨は事の顕しと持ちたる首を其の儘に、春永目がけてはつしと投げつけ、久作と引っ組みたり。双方聞こゆる勇士ゆゑ、暫しが間合ひしが、遠藤は、今朝より戦い労(つかれ)しうへなれば、竟に建中の為に討ち取られぬ。遖(あっぱれ)惜しき武士なり。
元亀元年(1570年)、大依山砦の戦いで勇戦[12]。姉川の戦いで討ち死した。
『信長公記』では、竹中重治の弟の竹中久作(重矩)が合戦でとった8人の武将首のなかに直経の首があり、前々から彼の首をとると豪語していたのだと、簡単に書かれている。
『太閤記』では、浅井軍が総崩れとなって敗れた後、直経は首実検の最中に信長の暗殺を謀ったという話になっており、床几に座る信長の近くまで進み出たときに(太閤記では竹中半兵衛の子とある)竹中久作に見抜かれてしまって、剛力の久作に飛びかかられ首をかき斬られた。『太閤記物語』では、信長は久作の手柄を絶賛する一方、「敵ながらも天晴の勇士かな、喜右衛門尉、されこそ無念なりけめ」と直経を哀れんでいる。
直経が奮戦して戦死した地が東上坂の田園の間にあり、遠藤塚といった。