
第44回「徳川幕府誕生」(解説動画集)
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Q.「このまま秀頼様が成長されたらその時は」「おとなしく豊臣に天下を返してやるか、それとも」 このセリフからすれば、天下の意味は、平山優氏が解説したものとは違うと言わざるを得ない。つまりセリフから理解したとおりの脚本だったと言うこと。
A.家康「天下の政は引き続き、この家康めが相務めまするゆえ、何卒よろしくお願い申し上げまする」 茶々「まことに結構」 (中略) 茶々「あと十年もすれば太閤殿下に追いつこう。さすれば、太閤殿下が果たせなかった夢を秀頼が果たすこともできましょう」 家康「……」 茶々「それまでの間、秀頼の代わりを頼みまする」 秀頼「頼りにしておる」 家康「……はは!」 という場面が描かれた前提で、貴兄がご指摘のシーンと台詞があるわけです。念のために掲げてみますと以下のようになります。 家康「このまま秀頼とのが成長されたら、その時は……」 平八郎・小平太「……」 小平太「二つの一つ。」おとなしく天下を豊臣に返してやるか」 平八郎「それとも」 以上の文脈から読み取れることは、どのようなものでしょうか? 私が解説したとおりではないでしょうか? なお、関ヶ原合戦について、家康は「あれは所詮、豊臣家中仲違いの戦」という台詞もあります。
Q.これって現在豊臣の天下を代行してるが 「秀頼が成長の暁には代行を返して親政させるか・・・それともこのまま徳川が天下の主となるか、二つに一つ」 としか読み取れないと思うのですが。。。
A.ですから、ずーっと、そのように解説してきたはずですが。「天下」は「豊臣の天下」であり秀頼が担うべきだが幼少で叶わぬため、家康が「秀頼名代」としての「天下殿」(天下人)として、「豊臣の天下」を動かしている。だが将軍任官により、秀頼との主従関係を解消し、「徳川の天下」に移行したということ。ただ、政局は波乱含みであり、それとて固まっていたとは言えないという時代です。
「どうする家康」第44回において、伏見城で寧々、於大、家康が会話するのは、慶長7年の設定。誤解が多いのですが、寧々は秀吉死後、すぐには落髪していない。彼女は、「北政所」と引き続き呼称され、慶長8年に養母七曲殿(浅野長勝室)の死去(4月18日)、秀頼と千姫の婚姻(7月28日)を見届け、落髪し高台院となっています。高台院は、11月3日に天皇の勅許により与えられたものです。なので、寧々と呼称していても、何の問題もありません。
「北政所」問題をもう少し。彼女は、史料をみても、慶長8年8月29日まで「北政所」(『時慶記』)、9月9日に「政所」とみえ(『お湯殿上の日記』)、これが「北政所」の終見となる。また居住地についても、高台寺に終生の場としたと思われているが、現在ではほぼ否定されている。慶長4年9月26日に大坂城西の丸を退去すると、秀吉が築いた「京都新城」(「京之城」「京都御殿」)に移った。そしてここで生涯を終えている。高台寺には、京都新城から用事があるごとに通っていたことが指摘されている(藤田恒春「北政所(高台院)の居所と行動」『織豊期主要人物居所集成』、田端泰子『高台院おね』等を参照)。
朝廷は、どの時代においても権力者に対しては、見事なバランス感覚でどちらにも大きく肩入れをせず、といってその時期の実力者をあまり見誤らずに官職を与え、朝廷と天下の保護を求めています。慶長3年~同18年までは、豊臣氏にも配慮しつつ、徳川幕府の成立に関与しています。詳しくは、神田裕理『朝廷の戦国時代』、藤井讓治『天皇の歴史05 天皇と天下人』などを参照してみてください。
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