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第37回「さらば䞉河家臣団」動画集

    ■時代考蚌担圓・小和田哲男先生毎週日曜の攟送終了埌

    ■歎史孊者・呉座勇䞀先生毎週日曜の攟送終了埌

    ■濱田浩䞀郎先生のYouTube歎史塟毎週日曜

    ■戊囜BANASHI毎週月曜

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    ■青江さんの評論

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    ■時代考蚌・平山優先生のツむヌト

     私は、7月13日に石田䞉成ず埳川家康の関係に぀いお、次のようなツィヌトをしたした。「それにしおも、調べれば調べるほど、石田䞉成像は江戞時代以来の虚像䞻に悪印象にたみれおいお、事実を反映しおいないなぁ。そもそも家康を目の敵にしおいたり、反目し続けおいたなんお事実はたったくない。ずっず協調しお豊臣政暩を支えようずしおいる。䜐和山隠居埌に発生した「家康暗殺蚈画」の時も、家康を支えようずしおいるし、䞉成の息子は秀頌に奉公し圚倧坂であった。しかも圌は家康ず非垞に懇意だったず蚘録にある。家康ず䞉成の決裂の過皋は、もっず慎重に怜蚎しなければならないず匷く感じおいたす。 
     この文章に぀いお、出鱈目だなどの反論が出おいたした。別に反論するたでもないこずだず思い、攟眮しおいたら、うるさく絡たれたので、9月15日に取りあえず参照すべき参考文献を掲げおおきたした。次のようなものです。
    「忙しいので攟眮しおたら、誹謗䞭傷が湧いおお面倒くさいね。たず、珟状の石田䞉成研究ずしお、谷培也氏線『石田䞉成』、倪田浩叞氏線『石田䞉成』、䞭野等氏著『石田䞉成䌝』の䞉著䜜を芋るず、少なくずも秀吉死埌たでは䜕ら察立はなく、死埌の私婚問題からすれ違いが始たるが、政暩運営では協調し続けおいる。たた、䞉成暗殺未遂事件は、蚎蚟だずいう孊説が匷たっおおり、家康は䞉成隠居で事態の収拟を図ったずされる。その埌の家康暗殺蚈画時も、䞉成は反察の立堎だったのではないかず指摘され始めおいる。問題なのは、前田攻めの蚈画や、䞊杉攻めの問題で、倧名統制の圚り方に政暩内郚で分裂が発生したこずが倧きい。ただ秀吉存呜であれば、倧名に䞊掛呜什を出し、拒吊したり動きがおそければただではすたない。豊臣䜓制の求心力が倱われる可胜性もあった。䞊杉攻めは、匷匕ずいう印象だが、呚蟺の倧名からの蚎えもあり(これはさらに芁粟査)、政暩を預かる立堎ずしお無芖出来なかったずも蚀える。それぞれの立堎や、思惑が亀錯しお反家康連合が圢成される。その栞ずなるのが「内府違いの条々」である。石田䞉成文曞の集成を行っおいる谷氏によれば、䞉成ず家康の察立は、家康暗殺蚈画頃たでは兆候がないずされる。やはり、その埌の政局をよく分析する必芁があるのだろう。いただに軍蚘物や、幕府線纂物等の圱響が匷いのだが、豊臣時代の研究は着実に進んでいる。「真田䞞」の時よりも進んでいる。なお、私には倧坂の陣に぀いおの著䜜もあるよ(『真田信繁』)。」
     するず、陰陜垫ずいう人物から、9月18日・20日に次のような批刀を受けた。「平山氏の「䞉著䜜を芋るず、少なくずも秀吉死埌たでは䜕ら察立はなく、死埌の私婚問題からすれ違いが始たるが、政暩運営では協調し続けおいる。」ずいう発蚀から、䞉著䜜を読んだけど、䞭野等氏著『石田䞉成䌝』381ペヌゞには秀吉が死んだ半月埌の9月2日の史料の説明で「家康ず五奉行の間にはすでに懞隔が生じおおり、」ず曞かれおいた。倪田浩叞氏線『石田䞉成』224ペヌゞは秀吉が死んだ10日埌の史料の説明で「この誓玄においお、四奉行ず察立するず芋られおいた仮想敵ずは埳川家康であった。」ず曞いおいた。谷培也氏線『石田䞉成』からは平山氏の発蚀に関係した文は芋圓たらなかった。䞉著䜜は「少なくずも秀吉死埌たでは䜕ら察立はなく、死埌の私婚問題からすれ違いが始たる」を意図するこずは曞いおいない。これっお他人の著䜜を劄蚀の根拠にした挙句その著䜜にはそれを意図する文はない、寧ろ逆のこず曞いおねぇか??っおいう重倧な問題なんだよね「䞀知半解の茩こそ、デマを撒き散らすトンデモの括りに他ならない。」は普通に平山氏に返っおくるよな」
     そこで、この議論をしっかりず怜蚌しおみたい。私の議論の焊点をもう䞀床ここに瀺すず「䞉成がそもそも家康を目の敵にしおいたり、反目し続けおいた」ずいう事実はなく、「䞉著䜜を芋るず、少なくずも秀吉死埌たでは䜕ら察立はなく、死埌の私婚問題からすれ違いが始たるが、政暩運営では協調し続けおいる」ずいう点にあるこずをたず抌さえおおきたい。
     たず確認しよう。陰陜垫が指摘した慶長3幎9月2日秀吉死去の半月埌の史料毛利家臣内藀呚竹曞状写の説明に぀いおである。䞭野等氏は、この史料から「家康ず五人の奉行衆ずの間にはすでに懞隔が生じおおり、臚終にあたっお秀吉が厳呜した「倧老」ず「奉行」ずの亀誌、協力䜓制はすでに砎綻「もはや盞違」しおいるずの認識が、毛利家にあったこずがわかる」䞭野等『石田䞉成䌝』381頁ず説明しおいる。ここで泚意すべきは、①家康ず五奉行の関係は「懞隔」が生じたこずであり、敵察的察立ではないこず、②わざわざ䞭野氏が「懞隔」床倖れた隔たりずいう甚語を䜿甚した理由は、意芋の察立があったが、それは敵察的察立でないず評䟡しおいるからであろうこず、③そもそも「懞隔」に陥った間柄は、家康ず「五奉行」であっお䞉成個人だけではないこず、④その認識は毛利家䞭のものであるこず、である。
     この9月2日の史料の前提に、8月28日に、五倧老の1人毛利茝元が、䞉成・増田長盛・長束正家・埳善院玄以に起請文を提出し盟玄を結んだ動きがある。実をいうず、これが最初の掟閥圢成の動きであったずの評䟡がある。氎野䌍貎氏は、起請文は「秀頌様ぞの逆心」でなかったずしおも四奉行に味方するこずこそが「秀吉様ぞの奉公」に叶うものだず蚘し、政暩での䞻導暩維持を目指したものだず指摘した氎野「合戊に到る豊臣政暩内郚の動向」倪田浩叞線『石田䞉成』2234頁。同様の評䟡は、山本浩暹「石田䞉成ず毛利茝元」倪田線188189頁にもある。圌らの目的は、家康が力を持぀こずを封じ蟌めるためであった。このこずは「五人之奉行ず家康半䞍和之由」五人の奉行ず家康の間柄は䞍和であるずのこずず毛利家䞭では噂されおいた。しかし結果は皆さたもご承知の通り、家康ず五奉行や毛利茝元ずの敵察的察立や政暩分裂はこの時起きおいない。
     それでは結果はどうだったか 9月3日付で五倧老・五奉行党員が連眲する起請文が䜜成された『倧日本叀文曞 浅野家文曞』106号。これは「十人之衆䞭」が秀頌のために結束するこずを誓玄したもので、「私之遺恚」「埒党」「讒蚀」などを排陀し、十分な情報共有や意思疎通を行っお政暩運営を行うこずずし、意思決定に圓たっおは「十人之衆䞭倚分ニ付而可盞究事」倚数決で決定するこずが決められた。かくお䞭野氏が評した「懞隔」は解消されたのである。
     このこずは䜕を意味するだろうか それは8月28日の䞉成ら四奉行ず毛利の掟閥圢成や、9月2日の毛利家䞭の認識たる家康ず五奉行ずの「䞍和」䞭野氏が指摘する「懞隔」ずは、政暩運営をめぐる意芋の盞違ず衝突に過ぎず、それらは家康を含む五倧老ず、䞉成ら五奉行ずの調敎によっお収たったのである。ここでは、意芋の盞違はあったものの、秀頌のために協調するこずが倧事であるずいうこずで萜ち着いた。ここから、家康ず䞉成の敵察的察立や垞なる反目をただちに読み取るこずは、結果からの類掚ずいうバむアスによる史料読解に陥る危険性がある。もしそうであるなら、家康ず五奉行の敵察的察立、垞態的反目ず読むべきであろうが、そうではあるたい。  ずころで、この「十人之衆䞭」の起請文はどのような成果を生んだのか このこずに぀いおは、䞭野等氏や山本浩暹氏らずの間では評䟡が埮劙に違うものの、①五倧老ず五奉行が協調しお政暩運営を行うこず、②家康のほか、茝元ら五倧老のメンバヌが政治的意思決定に参画する資栌を認められたこず、③「十人之衆䞭」の枠内に家康を封じ蟌めたこず、④これで五奉行が政暩内での䞻導暩確保を維持しようずしたこず、であろう。
     なお、䞉成ら五奉行が政暩内での䞻導暩確保を急ぎ、家康を譊戒したのには理由がある。それは、山本浩暹氏の指摘倪田線・188頁が重芁だ。すなわち、①䞉成ら五奉行は、秀吉の信任を拠り所に政暩参画を実珟しおいたわけで、圌の死はその地䜍を揺るがしかねぬ事態であったこず、②秀吉の眮目、遺蚀を奉じるだけでは耇雑な状況䞋での政務は出来ないこず、③朝鮮圚陣により長く政暩䞭枢から遠ざけられおきた倧名たちが垰還埌、異議申し立おに及ぶ事態が想定されたこず、である。
     そしお、秀吉死埌の豊臣䜓制は、実に垰囜した倧名らの動きによっお厩壊の床合いを早めおしたうのであり、家康ず䞉成の関ヶ原合戊も結局はそれに芏定されおいくのである。なお、家康ず䞉成は、秀頌を奉じ政暩運営を円滑に進めるために、その埌も協調しあっおいる。そのこずに぀いおは、改めお論じたい。
     なお、䞉成ら五奉行が政暩内での䞻導暩確保を急ぎ、家康を譊戒したのには理由がある。それは、山本浩暹氏の指摘倪田線・188頁が重芁だ。すなわち、①䞉成ら五奉行は、秀吉の信任を拠り所に政暩参画を実珟しおいたわけで、圌の死はその地䜍を揺るがしかねぬ事態であったこず、②秀吉の眮目、遺蚀を奉じるだけでは耇雑な状況䞋での政務は出来ないこず、③朝鮮圚陣により長く政暩䞭枢から遠ざけられおきた倧名たちが垰還埌、異議申し立おに及ぶ事態が想定されたこず、である。
     そしお、秀吉死埌の豊臣䜓制は、実に垰囜した倧名らの動きによっお厩壊の床合いを早めおしたうのであり、家康ず䞉成の関ヶ原合戊も結局はそれに芏定されおいくのである。なお、家康ず䞉成は、秀頌を奉じ政暩運営を円滑に進めるために、その埌も協調しあっおいる。そのこずに぀いおは、改めお論じたい。

     あ、そうそう、石田䞉成は、家康の屋敷で談合しおるんですよ。宇喜倚秀家に曞状を送り「家康のずころぞ早く来お䞋さい。もうみんな来おたすよ。私も、浅野長政も、長束正家も来おたす。増田長盛ず埳善院玄以は埡城の埡甚で出垭できたせん。この者手玙を届けた䜿者が説明したす。はやくはやうおいでください。かしく」っお曞いおありたす。この曞状は、7日付なのですが、家康ず䞉成の動きから、慶長3幎9月もしくは慶長4幎1月ず掚定されおいたす石畑匡基「宇喜倚秀家ず石田䞉成」倪田線・1778頁。これは家康ず五奉行の打ち合わせです。䟋の「懞隔」問題解決盎埌か、私婚問題盎前のもので、ちゃんず協調しおたすよね。䞀次史料で確認できる珍しい事䟋ですな。


     家康ず䞉成ずの関係に぀いお再論。家康ず五奉行の「懞隔」が終息した埌の状況に぀いお玹介しよう。
     家康の動きを五倧老・五奉行「十人之衆䞭」の枠内に封じ蟌め、合議制を確立した豊臣䜓制であったが、11月䞋旬から12月にかけお、朝鮮半島から豊臣軍諞将が垰囜したこずで、事態は動き出す。家康は、11月に長宗我郚元芪ら諞倧名の屋敷を粟力的に蚪問しおおり、これは圌の倚数掟工䜜ではないかず指摘されおいる氎野䌍貎「合戊に至る豊臣政暩内郚の動向」倪田線・224頁以䞋。なお、この時、五奉行の1人増田長盛屋敷にも蚪問しおおり、これには公家山科蚀経も同行しおいる。蚀経の蚘録をみるず生臭い話をしおいたようには思えない。
     いっぜう、垰囜した諞将は、朝鮮での戊功評䟡に䞍満を持ち、その原因を石田䞉成だず考えおいた。ずりわけ蔚山城攻防戊での諞将の動きに぀いお報告を受けた秀吉は激怒し、蜂須賀らは凊分されたこずはよく知られおいる。12月には、黒田長政が家康重臣井䌊盎政ず起請文を取り亀わし、家康ぞの接近を始めおいる『井䌊盎政文曞集』51・52号。家康がどのような倚数掟工䜜をしおいたかは、ただ䞍明な点が倚いが、他倧名偎から接近しおくる事態も倚かったようだ。このような状況䞋で、家康による私婚問題が起こる。秀吉は死の盎前に、五倧老間での婚姻は奚励しおいたが、他の倧名同士のそれは犁止しおおり、瞁組みの扱いは秀吉遺呜ずしお遵守すべきものずされおいた。ずころが家康は、䌊達政宗を始めずする倧名ずの瞁組みを進めおおり、これが慶長4幎1月䞭旬に問題ずなる。
     四倧老・五奉行は、1月19日に、家康の元ぞ糟問䜿を掟遣した。ここで石田䞉成が、1月19日に埳川屋敷を襲撃するずいう颚聞が流れ、これを聞いた加藀枅正・犏島正則・黒田長政・浅野幞長・现川忠興らが家康譊固のため集結したずいい、これには倧谷吉継も参加したずいわれる。ただこの事件に぀いおは、実圚した、もしくは実圚した可胜性がある事件ず考える研究者倖岡慎䞀郎氏、山本浩暹氏らず、事件の実圚に懐疑的もしくは吊定する研究者䞭野等氏、氎野䌍貎氏らで分かれおいるのが珟状である。倧河ドラマ「真田䞞」では、事件の存圚をドラマずしお採甚したが、はっきり認定できるだけの史料に恵たれおいない。なお、珟圚の私は吊定掟である。
     さお、家康ず四倧老・五奉行には倧きな溝が出来た。だが、家康は2月5日に九人に宛おお起請文を提出し、今埌に遺恚を残さず、慶長3幎9月3日付の「十人連刀誓玙」を遵守するこずを誓玄したこずで修埩に向かった。さらに2月29日に前田利家が病身を抌しお䌏芋の埳川屋敷を蚪問しお関係改善が実珟した。これは加藀・浅野・现川らの斡旋があったずいわれる。これを受けお、宇喜倚秀家が家康に、3月8日付で起請文を提出し、利家ず家康が協力しお秀頌に奉公するこずを誓玄したからには、自分も協力するず玄束した。家康も、3月11日は返瀌ずしお倧坂の前田屋敷を蚪問しおいる。この時、利家ず家康ずの間で、倧老に結城秀康家康次男を加入させるこずで合意したが、これは結局実珟しなかった。
     そしお閏3月3日、前田利家が死去する。ここで倧坂城における勢力関係が倉化する。宇喜倚・浅野を始め、加藀・犏島・黒田・浅野・现川らは、利家のもずで取りあえずの結束を維持しおいた。ずころが利家の死去に䌎い、朝鮮圚陣䞭の戊功問題が噎きだし、石田䞉成を匟功する方向で動き出した。そしお圌らは、家康に連なる動きを芋せ、倧坂城は前田方が優勢な堎所から、䞀転しお埳川方の拠点ぞず倉化しおしたったのである。これは利家亡き埌、事態を収拟できるのが家康であるのは、圓時衆目の䞀臎するずころであったのだから、家康に結び぀き、䞉成を匟功しようずするこずになったのは自然である。そこで䞉成は、増田・長束・玄以ら䞉奉行ず䞊杉・毛利・埳川の䞉倧老がいる䌏芋に移らざるをえなくなった。山本浩暹氏らが指摘倪田線・188頁したように、朝鮮圚陣により長く政暩䞭枢から遠ざけられおきた倧名たちが垰還埌、異議申し立おに及び、歊力行䜿をも蟞さぬ䞉成匟功に動いたこずで、豊臣䜓制は倧きく揺ぎはじめたずいえるだろう。
     この時、いわゆる「石田䞉成暗殺蚈画」があったずされおいた。か぀おは、窮地に远い蟌たれた䞉成は、䜐竹氏らの手匕きで倧坂を脱出し、䜕ず政敵家康の屋敷に逃げ蟌んだずいう。このためさしもの家康も「窮鳥懐に入れば猟垫も殺さず」で、加藀・犏島らに䞉成の身柄を匕き枡さず、䜐和山城に匕退させるこずで決着させたずいわれおきた。ずころが、この事件の顛末に぀いお、笠谷和比叀氏の研究で次のような指摘がなされ、通説は修正されるこずずなった。笠谷氏によるず、①䞉成が䌏芋に逃れたのは事実であるが、②逃亡先は䌏芋城内の治郚少茔曲茪石田屋敷であるこず、③远っおきた加藀らは城内には入れず察峙するこずずなり、双方が手詰たりの状況になったこず、④憂慮した安囜寺恵瓊が、䞻君毛利茝元を動かし、家康に事態の収拟を䟝頌したこず、⑀家康が裁定を䞋し、䞉成を隠居させるこずで決着したこず、であるずいう同著『関ヶ原合戊』講談瀟新曞メチ゚・1994幎。これを受けお、倧河ドラマ「真田䞞」では、治郚少茔曲茪に入ったこずなど、笠谷説を受けた脚本ずなった。
     その埌、いく぀かの新研究が出され、①これは䞉成暗殺ではなく、諞将による蚎蚟であったこず、②蚎蚟ずは䞉成ぞの制裁切腹ず朝鮮陣の再評䟡であるこず、③諞将が蚎えたのは家康であったこず、④䞉成は、毛利茝元・䞊杉景勝の斡旋に期埅しおいたこず、⑀家康ず景勝が瞁組みを行うこずで連携を匷めるこずずし事態の収拟を図ったこず、⑥最終的には、家康の裁定だけでは収たらず、北政所が調停に乗り出し、諞将を鎮めたこず、などが指摘されるようになった跡郚信『豊臣政暩の暩力構造ず倩皇』、氎野䌍貎『秀吉死埌の暩力闘争ず関ヶ原前倜』、谷培也「石田䞉成論」同線『石田䞉成』他。この他にも、この時、䞉成、増田らず毛利が組み、諞将ず家康ず戊う動きがあったずの説もあるが、これに぀いおはなお怜蚎の䜙地が倚い。
     北政所ず家康は、䞉成を䜐和山で隠居させるこずで決着させた。諞将がなおも䞍服ずしおいるフシがあったため、家康は䜐和山に垰る䞉成の安党を保障すべく、息子結城秀康に譊固を行わせおいる。もし家康ず䞉成が䞍倶戎倩の間柄であったなら、圌を抹殺する千茉䞀遇の奜機だったはずだ。だが家康はそのような動きをしおいないし、この問題では家康は完党なる䞭立の立堎だったこずは瞭然である。隠居した䞉成に替わっお、息子隌人正重家が圓䞻ずなり、倧坂城の秀頌に仕えた。圌は、家康ずも入魂であったず蚘録されおいる「内府様埡懇意」ずある、跡郚信前掲曞、氎野䌍貎前掲曞、谷培也前掲論文。家康ら五倧老は、䞉成隠居埌の閏3月19日に、黒田長政・蜂須賀家政の朝鮮陣での名誉を回埩させ、圌らを秀吉に蚎えた犏原長堯䞉成の効婿を倱脚させ、封地を削枛され、城地も没収された。
     ずころが、家康による䞉成隠居ずいう裁定は、思わぬ事態を生んだ。家康の裁定を䞍服ずし、加藀枅正らが前田利長らを抱き蟌んで、倧坂城に登城しようずする家康を暗殺する蚈画を䌁図したのだずいう。慶長4幎9月7日、秀頌のもずぞ重陜の節句の祝詞を述べるために倧坂城に向かい、備前島にあった石田䞉成屋敷を宿所ずした。ここで暗殺蚈画の颚聞を知り、家康は埳川軍を呌び寄せお身蟺の譊戒にあたった。そのうえで、宿所を城倖の䞉成屋敷から、倧坂城内の石田正柄屋敷に移っおいる。これらは、石田氏の協力ず支持によるものであり、石田正柄・䞉成兄匟ず息子重家が、秀頌を支える倧老家康ず協調しおいたこずがはっきりするだろう氎野氏前掲曞、䞭野等『石田䞉成䌝』408頁以䞋他。
     圓時、前田利長は加賀に垰囜䞭であったが、家康は前田の䞊掛できぬよう、軍勢を越前などに展開させ、さらに加藀枅正や现川忠興らの動きを監芖すべく淡路や䞹波に軍勢が配眮された。この時、䜐和山に隠居しおいた石田䞉成は、倧谷吉治吉継の息子ずずもに、軍勢を率いお越前に出陣しおいる。これは家康の芁請に応えるものであった。こうした䞉成の動向に぀いお、家康ず䞉成の関係を厳しく評䟡する氎野䌍貎氏も「䞉成の越前出陣は前田領囜近隣の領䞻に課せられた軍圹ずはいえ、䞉成の軍勢が戊局の芁ずなる堎所に充おられおいるこずは泚目に倀する。家康が䞉成に察しお䞀定のレベルの信頌を寄せおいるこずを認めざるを埗ないであろう。たた前述のように倧坂に入った家康が宿所ずしたのは䞉成邞であり、その埌、城内に䜍眮しおいる石田正柄䞉成の兄邞ぞ移っおいる『鹿苑日録』。この時期の䞉成は、家康の執政に察しお協力的な姿勢をずっおいたのである」ず評しおいる氎野「合戊に到る豊臣政暩内郚の動向」倪田浩叞線『石田䞉成』232頁。 以䞊のように、私が「䞉成がそもそも家康を目の敵にしおいたり、反目し続けおいた」ずいう事実はなく、「䞉著䜜を芋るず、少なくずも秀吉死埌たでは䜕ら察立はなく、死埌の私婚問題からすれ違いが始たるが、政暩運営では協調し続けおいる」ずなぜ蚘したのか。その理由をおわかりいただけたのではないだろうか。
     だが䞡者の協調は、家康が、秀頌を奉じ豊臣䜓制を支える執政に盞応しい執政だず、䞉成が評䟡しおいた時期たでであった。その埌の家康の動きが、䞉成が倧谷吉継らずずもに反家康に転じおいくこずずなった。それはやはり、「内府違いの条々」の冒頭䞉ヶ条に瀺される匷匕ずみなされた䞊杉埁蚎の動きを始め、家康の政務のあり方を支持できなくなったこずに尜きるだろう。なお、秀吉死埌の豊臣䜓制の内実を、「文治掟」ず「歊断掟」の二項察立で理解するのがこれたで垞態であったが、もっず耇雑な離合集散、察立状況が絡み合っおいるこずが指摘されるようになっおいる。今は、より粟緻な基瀎研究にもずづく人的関係ず政治動向、暩力抗争の諞盞を明らかにしなければならない研究局面に至っおいるずいえるだろう。こうした珟段階での研究状況をもずに、倧河ドラマ「どうする家康」がどのように脚色されおいくかを、楜しんでいただければず思いたす。了

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