
メモ 英国統治下の香港で繰り広げられた共産党と国民党の情報戦
香港はロンドン、ニューヨーク、東京、シンガポール、上海などと並ぶ国際都市として発展してきましたが、政治的には絶えず微妙な状況に置かれてきました。英国の植民地として統治されてきましたが、太平洋戦争が勃発した1941年から日本軍の占領を受け、戦後に英国の統治下に復帰しています。1949年に中華人民共和国が建国されてからも英国統治下に留まりましたが、この時期の英国はすでに軍事的に衰退しており、中国本土からの本格的な陸上侵攻に対処することは困難だったので、英国は中国と国交を樹立するという外交政策を採用しています。
1950年に英国と中国との間で国交が成立したことで、中国の軍事侵攻の危険は遠ざかりましたが、その後も香港の内部では中国共産党と中国国民党との間では対立が継続していました。
1955年4月、アジア・アフリカ会議に出席するため、台湾の空港を中継しようとしていた周恩来国務院総理を暗殺するため、台湾側の特務機関は香港からインドネシアに飛ぶエア・インディア(Air India)300便のカシミール・プリンセス(Kashmir Princess)を標的にした破壊工作を実施したことがあります(Tsang 1997: 304)。中国側の情報部はこの計画を何らかの方法によって事前に知っていましたが、下級の幹部や記者を囮として当該機に搭乗させて出発させ、台湾側の工作員が時限爆弾を仕掛けて爆発させるのを見逃しています(Ibid.)。その結果として航空機はインドネシア上空で爆破され、乗員乗客全員が死亡することになりましたが、周恩来は暗殺を免れました。台湾は大陸反攻に向けた秘密工作の準備として香港に武器を保管していたので、それを工作員である空港勤務者に提供することでこのような破壊工作を遂行することができたと考えられます。
中国と台湾は香港を巻き込む形での武力闘争を展開する意図はありませんでしたが、香港政府は常にこうした事態が生じる危険を認識して対応する必要がありました。香港政府は「挑発なき堅実さ」と呼ばれる中立路線を打ち出していましたが、現実の国際政治でこの路線を常に堅持できていたわけではありません。1956年1月31日、中華民国空軍、つまり台湾の軍用機RF-86が香港の啓徳空港(Kai Tak Airport)に不時着するという事件が起きました(Ibid.: 307)。
F-86は、もともと戦闘機として設計されていた軍用機ですが、不時着した機体は偵察機として設計されており、写真撮影装置を備えていました。香港政府に対するパイロット自身の説明によれば、単機で広東省の偵察に出ていたところ、エンジンの問題で基地まで帰投できず、香港で不時着したとのことでした。しかし、実際には中国軍機に追跡されて香港に逃げ込んだとも推察できました(Ibid.)。政府の対応としては、パイロットに条件付きの移民としての地位を与え、航空機は警察の管理下に置き、入国管理官の指定した期日までにパイロットは出国するように求めました(Ibid.)。
英国外務省は、この問題を国際法の観点から詳細に研究して対応を探り、中国は航空機とパイロットを香港に留めることを要求し、台湾がいずれも返還することを求めたため、複雑な外交問題に発展しました。結局、パイロットは3月に船舶で香港を出発して台湾に、さらに航空機は翌1957年3月に台湾に戻されています(Ibid.: 308-309)。その過程で香港政府は中国から台湾に肩入れしていると批判されることがないように注意深く対応を検討しました。実は、この航空機は米国が台湾に貸与していたものであり、その所有権が米国政府に属していましたが、香港政府の中立的立場を守る上でそうした都合が悪い事実は公にされることはありませんでした(Ibid.: 310)。
このような事態に対する英国と香港の外交的な対応を調査すると、対立を避けるために中立的な政策を展開する外交は理論的にもっともらしく見えても、現実の問題が生じた際に実行することは難しいことが分かります。もしこの問題が米中対立の構図になれば、香港政府がとれる対応は非常に限定されていたでしょう。
参考文献
Tsang, S. (1997). Strategy for survival: the Cold War and Hong Kong's policy towards Kuomintang and Chinese Communist activities in the 1950s. The Journal of Imperial and Commonwealth History, 25(2), 294-317. https://doi.org/10.1080/03086539708583002