
「本を読みなさい」と一度も言わなかった。次女が日本語も英語も自走するまで
「本でも読んだら〜?」
この言葉を、次女には一度も言ったことがありません。
びっくりされることもあるんですが、自分でも今回この記事を書こうとして初めて、「あれ、言った記憶がない」と気づきました。
次女は、最初から「静」の子でした
長女が「動」なら、次女は「静」。
長女に手がかかっていたこともあって、次女は一人で遊ぶ時間が多い子でした。ブロック、パズル、図鑑、絵本。黙々と手を動かして、じーっと観察して、気づけばページをめくっている。
そのあいだ私は長女の対応に追われていて、次女に「本を読もう」と声をかける余裕もなかったのが正直なところです(余裕があったら、言っていたかもしれない)。
今思えば、声をかけなかったことが、結果的にいちばんよかったのかもしれません。
読ませない。置いておく。
私がやっていたのは、本当にこれだけでした。
次女が宇宙に興味を持ったら、惑星の本をそっと置く。
ISSに興味が移ったら、ISSの本を置く。
宇宙の言葉が増えてきたら、また別のテーマの本へ。
「今、この子は何にハマっているかな」を見て、その周辺の本を、リビングやソファの横にちょこっと増やす。
置いたあとは、何も言いません。手に取らなくても、そのまま。気づいたらなくなっている(=読まれている)ことが多かったです。
大人の言葉に直すと、これは「教育法」というより、ただの「興味の観察と本の補充」でした。

英語も、同じでした
英語も「○冊読みなさい」と言ったことはありません。
ORTを置いておく。読めるようになる。次のレベルを置く。好きそうなシリーズを置く。その繰り返しです。
OxfordのAlienシリーズや、traditional talesなんかもさりげなく置きました。
そして今は、Isadora Moonにどハマり中です。
「英語の勉強をしている」という感覚はたぶんなくて、「続きが読みたい」が勝っているんだと思います。多読のいちばんの強みは、きっとここなんですよね。
いつのまにか、「読むこと」が目的に
最初は「知りたいこと」があって本を読んでいたはずなのに、いつのまにか、読むこと自体が楽しいものになっていました。
今気づいたことだけど、私が「自走した」と感じたのは、この瞬間だったのかもしれません。日本語でも英語でも、同じことが起きていました。
長女との比較でわかったこと
長女は「動」の子なので、同じように本を置いても、ほとんど手に取りませんでした(あの本の山はいったい何だったのか…)。
本棚からはまず手に取らないので、あえて目の前に並べているのに…
それよりも工作など、なにかを生み出すことに夢中。
つまり、次女にうまくいったのは「置いておく方法がすごい」からではなく、次女が「静」タイプの子だったから、なのかもしれません。
異論はあると思います。「うちの子は置いても読まない」という声も、よくわかります。だから私は、これを「多読のやり方」ではなく、「我が家ではこうだった」という話として残しておきたいと思いました。

親にできたのは、環境を整えることでした
子どもを伸ばそうとすると、「何をさせるか」に目が向きがちです。でも我が家では、「何をさせるか」より「どう周りを整えるか」のほうが、ずっと大きかったと思います。
子どもを動かすのではなく、子どもが動きたくなる環境をつくる。
長女には、「できない」を全部直そうとせず、得意な方向に環境を寄せました。次女には、「読みなさい」と言わず、興味の先に本を置きました。
やり方は違っても、どちらも「その子が自然に伸びる方向を見つけて、環境を調整する」ことだったのかもしれません。
※余談ですが、「置いておく」のも、意外と難しかったです。つい「これ面白いよ!」と言いたくなるんですよね…。
ぐっと飲み込んだ回数は、数えきれません。
🦝🦭長女の「できない」との向き合い方は、こちらの記事をご覧ください。