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ADだった僕が、深夜番組を演出することになった One Day その時僕はラジオの現場にいた 第一章 AD時代 第17話

    これまでのOne Day

    1986年、大学生だった僕は、開局間もないFM横浜の制作現場にADとして飛び込んだ。失敗を繰り返しながら仕事を覚え、ある朝、遅刻したディレクターに代わって生放送を任される。番組を何とかやり切った僕は、取材や録音番組など、少しずつ仕事の幅を広げていった。

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    FM横浜の朝の生ワイド番組に続いて、録音番組のADも担当するようになり、僕は3年目に突入していた。

    一度、生番組のCUEを振ったからといって、ディレクターになれたわけではない。
    まだまだADだった。

    それでも、さまざまなタイプのディレクターのもとでアシスタントを務め、多くのことを吸収していた。

    この人の選曲は抜群だと思えば、楽曲をメモした。
    ちょっとしたコラムを書くのが上手い人がいれば、その原稿をいただいて何度も読み返した。

    演出方法も、人それぞれだった。

    アナウンスブースと、ディレクターやミキサーがいるサブとの距離は2メートルもない。
    しかし、本番中はトークバックで話す以外、感情を伝える手段は表情や身振りしかない。

    大いに笑う。

    大きくうなずく。

    それは基本中の基本だった。

    けれど、その表現の仕方はディレクターによってまったく違う。

    椅子から転げ落ちるほど大きなリアクションをする人もいれば、にっこりと微笑むだけの人もいる。

    強面の俳優がふと優しい表情を見せると、そのギャップに心を動かされることがある。

    演出も、それと同じなのだと思った。

    派手なリアクションだけが正解ではない。

    その人の人柄が、そのまま演出になっていた。

    そして少しずつ分かってきたことがあった。

    演出には、結局その人の人間性が表れる。

    どんなに取り繕っても、それは相手に伝わってしまう。
    そして、そのことは後に僕自身へ大きく返ってくることになる。

    1988年4月。
    僕は深夜の生放送番組に関わることになった。

    JFNの番組だった。

    JFNとは、テレビでいう系列ネットワークのようなもので、全国のFM局が同じ番組を放送したり、番組をやり取りしたりする仕組みである。

    担当していたのは、畠山久さんと、ミュージシャンの陣内大蔵さん。

    畠山さんは1970年代にJOHNNYS' ジュニア・スペシャルとして活躍されていた俳優さんだった。

    放送時間は深夜27時から29時。つまり、午前3時から5時までだった。
    ただ、この番組も最初からディレクターとして担当したわけではない。
    担当ディレクターはH.H.さん。

    僕はこれまで通り、ADとして番組に付いていた。

    朝はFM横浜の生ワイド番組。

    午後は大学。

    そして夜は深夜番組。

    今になって考えると、僕はいったいいつ寝ていたのだろう。
    放送が終わるのはもう朝の5時。
    そのあと、次週の打ち合わせをしていたはずだ。

    このあとそのままFM横浜へ向かっていたのか。

    記憶は曖昧だけれど、きっとそんな毎日だったのだと思う。

    当時は、仕事ができることが嬉しかった。
    深夜番組に関われることが嬉しくて仕方がなかった。

    そして、その番組で、ある事情から放送の一部を僕がディレクターとして演出することになる。

    それが、僕の**「条件付きディレクターデビュー」**だった。

    もちろん、その席に座るには理由があった。


    One Day あの時、確かに僕はそこにいた。



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