
大学の外 One Day その時僕はラジオの現場にいた 第一章 AD時代 第20話
これまでのOne Day
1986年、大学生だった僕は、開局間もないFM横浜の制作現場にADとして飛び込んだ。失敗を繰り返しながら仕事を覚え、先輩ディレクターたちに支えられ、少しずつ仕事を任されるようになった。
やがて生放送の代役を務め、JFNの深夜番組でディレクターデビュー。さらに、憧れのアーティストの特番を任されるものの、完成した番組は編成担当者から「全然駄目」と厳しい評価を受ける。それでも、僕の生活はますますラジオの現場を中心に回り始めていた。
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ラジオでのADとしての活動と並行して、音楽活動も行っていた。
大したことではない。高校時代の仲間と自宅で音楽を聴きながら、オリジナル曲を作ったりしていただけだ。
最初はカセットからカセットへのピンポン録音。その頃には友人からTEACの4chマルチトラックレコーダーを借りて、音楽制作を続けていた。そして映画サークルを通じて知り合った俳優さんが主宰する劇団にも所属していた。
いや、演じる方ではなくて、音響・音効としての参加。
小劇団ブームの真っ只中で、その劇団も結構人気があった。公演の収益で温泉旅行に連れて行ってもらえたこともある。
そこでも、公演=生放送のような感覚を養ったり、演出方法を学んだりすることができた。
貴重な体験だった。
生放送、録音番組のAD、深夜放送のディレクションをやり続けつつ、そんな活動までしていたのだから、大学に通う時間なんかないことは推して知るべしである。
ラジオへ行く時間が増える。
大学へ行く時間が減る。
劇団もやる。
音楽も作る。
面白い人たちと出会う。
現場では少しずつ仕事を任される。
気づいたら、自分の生活の重心が完全に大学の外へ移っていた。
学食の裏にあった公衆電話から、仕事の電話をすることがあった。
同級生のいる大学の中で、ラジオの仕事の話をしている自分が、少し誇らしかった。
でも今思えば、あれは単位が取れていない自分に対する、ちょっとしたエクスキューズでもあったのだと思う。
その頃にはもう、ラジオ制作の世界でやっていこうと思っていた。
いや、実はもう一年以上前から、そうせざるを得ないことを単位取得数が教えてくれていた。
正式に大学を辞めた。
アルバイトとして所属していた会社の社長に報告する前に、直属の上司であるH.Hさんに話してから、社長にそのことを言いにいった記憶がある。
社長は「そうか。それではもうこれからはアルバイトじゃなくて社員扱いにする」
と言ってくれた。
仕事量も大幅に増えた。
ただ、しばらくはアルバイトの給料だった。
給料は、ほどなく上げてもらったけど。
つまり「ラジオを選んだ」のか「大学を続けられなくなった」のか。
おそらく、どちらも本当だった。
「俺はラジオで生きていく。だから大学を辞める」
と格好よく決断したわけでもない。
かといって
「大学についていけなくなって中退した」
という話でもない。
大学を辞めたことを、その時の僕がどこまで深刻に考えていたのかは、もうよく覚えていない。
ラジオの仕事は面白かった。
仕事は増えていた。
この世界でやっていこうとも思っていた。
だから、自分で選んだ道だったことは間違いない。
でも、何の迷いもなかったと言えば、それも違う。
ずっと後になって、ラジオの世界から離れてからも、大学の夢を見ることがあった。
シラバスを調べているのだ。
あと何単位必要なのか。
どの授業を取れば卒業できるのか。
夢の中の僕は、まだ大学を卒業しようとしていた。
目が覚めてから、
「ああ、もう辞めたんだった」
と思う。
自分で選んだはずの道でも、選ばなかったほうの道が消えてなくなるわけではない。
そんなことを、ずっと後になって知った。
人生の進路を決断したというより、すでに進んでしまっていた道を認めた。
大学の外に、面白そうなものがありすぎた。
「ビックリハウス」を読む。
萬流コピー塾に投稿する。
「本の雑誌」に憧れる。
「ホイチョイ・プロダクション」の世界に憧れる。
「自主映画」を作る。
「音楽」を作る。
「劇団」に関わる。
そしてラジオの現場へ行く。
一見バラバラなんだけど、今から見ると全部、
「作る側に行きたい」
だったのだと、今だからこそよく理解できる。
正確には
「大学より行きたい場所がありすぎた」
のだ。
大企業の巨大な組織の中で何かを作るというより、面白い人間が集まって、自分たちが面白いと思うものを世の中へ出していく。
そこに憧れていたのだと思う。
One Day あの時、確かに僕はそこにいた。
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