
藤色の春
本坪鈴の音が微風と共に境内を駆け、藤の泡を嫋々と揺らした。藤花は蔓葉の隙間を差す春陽と柔和し、また足元で犇めき合う粒状の影と対を成して、淡紫の優艶さを一層際立たせていた。点描される薫風と小気味良い鈴の玲瓏―筆触が息吹く櫛夫の心象に、鈴の中で転がる玉の軌跡が活写される。
葫蘆⋯⋯葫蘆⋯⋯。
清浄な音を立て快活に跳ねる鈴の玉は、殻の中を不規則に転がっている。その鎮具破具な様子は、櫛夫に、先月離郷した幼馴染:東雲との会話を想起させた。
「女子の話しは冗長じゃ、歪曲じゃ! 真面に取り合うたら馬鹿見るのう」
「やからて怒らんで良えやないの」
「藤の羽織に決めとんなら鼻から聞かんでや。菫が似合う云うた俺が馬鹿じゃ馬鹿じゃ」
葫蘆⋯⋯葫蘆⋯⋯。
「困ったら質問で返せば良えよお。『貴女はどっちが好きや?』云うて。そしたら此方は貴方に聞いてた事も忘れて『んー私ゃ藤の方かな、ああ、でも迷うなあ』って答えるんよ多分」
「馬鹿じゃ馬鹿じゃ」
「話すのが楽しいんやんか。真面に答えんで良えんよ」
「⋯⋯⋯⋯。薩張り分からん」
葫蘆⋯⋯葫蘆⋯⋯。
「ねえ、此処に返って来たら⋯⋯また逢って下さる⋯⋯?」
「⋯⋯⋯⋯」
「ねえ⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯貴女の云う『また』は何時になるんや?」
伽藍伽藍⋯⋯伽藍伽藍⋯⋯ッ!
櫛夫の妹が悪戯に鳴り立てる鈴の音で、櫛夫は藤の下に引き戻された。
「やい! 無闇に鈴を鳴らすんじゃない! 罰が当たるぞ」
「嫌ん、お寺が静かで怖いに。神様もそんなんで怒らんよお」
「此処は神社や阿呆う。さっき鳥居潜ったやろ?」
「んーう⋯⋯東雲の姉ちゃん居らんと、偉い寂しいねえ?」
「質問に質問で返すな! 阿呆う、寂しいことあるかい!」
櫛夫は左巻きの蔓に視界を這わせて、もう一度藤の花を見た。一匹の熊蜂が花を攀じ登り、一弁ずつ順番に物色している。
伽藍伽藍⋯⋯伽藍伽藍⋯⋯。
「今は訊き返して欲しいんじゃ無いよ、そうじゃないよ。そうじゃないよ」
「真面に答えんで良えんやろがい! 話しを楽しむんやろ、なあ?」
「⋯⋯⋯⋯。もう、良えよ、もう⋯⋯」
伽藍伽藍⋯⋯伽藍伽藍⋯⋯。
「分からん。薩張り分からん」
「分かると、良えね⋯⋯⋯⋯」
「何やそりゃ」
「それじゃね、またね。また何時かね⋯⋯」
伽藍伽藍⋯⋯伽藍伽藍⋯⋯。
櫛夫は別れを告げ去って行く東雲の後ろ姿を睨み続けた。東雲は最後に、鳥居の下で振り返って「また逢おうね」と言った。櫛夫は「それも質問かあ! 分からん! 薩張り分からん!」と叫んだ。東雲は苦笑いして手を振った。
「兄や、御神籤引こうや?」
櫛夫は妹に袖を引かれて再び我に返った。
「ねえねえ⋯⋯引こうやあ?」
「⋯⋯⋯⋯」
「ねえ」
「大吉引けると思うか?」
「ええ分からん。引けたら良えねえ」
二人とも大吉を引いた。妹は「東雲の姉ちゃんと三人で引いた時も、皆大吉やったよねえ?」と燥いだ。「細かい所何て書いてた? 私の方も見る? 交換する? 同じ大吉やし」と妹は聞いた。櫛夫は「俺のを見たいんか?」と聞き返した。
「兄い、帰ろっか⋯⋯」
「何や、帰りたないんか?」
「ねえ兄い今日なんでそんなに確認して来るん?」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯ん?」
「分からん⋯⋯分からんのや⋯⋯」
二人は鳥居の下まで来た所で振り返り、拝殿へお辞儀をした。
葫蘆⋯⋯葫蘆⋯⋯。
顔を上げた櫛夫の目に映った、賽銭の鈴を鳴らす少女―菫の紋様を羽織ったその後ろ姿に、二人は大声を出して駆け寄った。快晴の下、三人で握った鈴緒でこの日最も清澄な音を立て、再び藤の花を揺らす1分前の事である。
揺れる花から離れた熊蜂は低くも甘い羽音を立て、神籤掛けの端で固く結ばれた二重の御神籤に静かに止まったのだった。
『待ち人 │ すぐに来る。』
『待ち人 │ すぐに来る。』