中坊の頃の俺は、我ながら結構なやんちゃ坊主だった。 だが、朝は朝練、放課後は部活。やることはきっちりやる。毎日ヘトヘトまで身体を動かし、冬の訪れとともに帰る頃には、外はすでに真っ暗闇だった。
あの頃は、若さってやつか、寒いという感覚すらあまりなかった気がする。

家路を急ぎ、いつもの二階建てのアパートの曲がり角に差し掛かる。 今時の小綺麗なマンションなんかじゃない。こ汚い、おんぼろアパートだ。その二階の窓はいつも開いていて、中から女性の話し声がやけに大きく聞こえてくる。
ある時、その前を通りがかると、上から「ねぇ」と声が降ってきた。 パッと見上げると、薄いTシャツ姿の女性がこちらを見て、ふっと微笑みながら「こっち来て」と手招きした。
ぼろく、錆び付いた階段を上がり、戸口の前に立つ。 現れたのは、短いショートパンツに白いTシャツを着た女性だった。「寄っていきな」と笑顔で招き入れられる。
知り合いでも何でもない。ぶっちゃけ少し怖かった。 でも、断る理由はどこにもなかった。
「ねぇ、部活はなに?」
「何年生?」
「家、すぐそこだよね」

一方的に話しかけてくるその人は、自然な仕草で俺にコーラをコップに注いでくれた。
そんな日が、数日続き、そして数ヶ月続いた。 いつしか、家に帰る前にそこに立ち寄るのが、俺の日常の一部になっていた。ガキの俺からしたら、ただただ綺麗で、優しい「姉さん」だった。
ある日、いつものようにドアをノックした。 だが、出てきた姉さんは泣いていた。
さすがに帰ろうとした。すると、キュッと手を掴まれ、「いいよ、入って」と言われた。 中に足を踏み入れたものの、どうしたらいいか分からない。気まずさと恥ずかしさが入り交じりながら、「どうした?」と尋ねるのがやっとだった。

「ううん、なんでもないよ。ごめんね」
何もないわけがないことくらい、中坊の俺でも分かる。だけど、それ以上深く聞くことはできなかった。 「ごめんね」と繰り返しながら、姉さんはいつものように飲み物を注いでくれた。そして、俺の胸に顔をうずめ、ただ泣きじゃくった。
初めて俺の胸で泣いたあの時、俺は見上げるような気持ちで、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
それから月日は流れ、俺が高校生になった頃。 姉さんは、そのアパートから引っ越していくことになった。

引っ越す数日前のことだった。単車を走らせて帰る途中、ふと見上げると、姉さんが手を振り「おかえり」と微笑んでくれた。
単車を止め、いつものように階段を上がりドアを叩く。 その部屋はタバコを吸ってもいい場所だった。
相変わらず綺麗で、近くに寄るとどこかいい匂がする。だけど、姉さん的存在でありながら、どこか守ってあげたいような、放っておけない女性の雰囲気に変わっていた。

「私ね、結婚するんだ」
姉さんはそう言って、微笑んだ。 俺は、素直におめでとうと伝えた。
「〇〇くんも大きくなったし、大人になったよね。モテるでしょ」 そう言って、ニコッと笑う。
「結婚するってことは、ここから引っ越すのか?」
「うん、静岡に行くんだ」
「そうかぁ……会えなくなるな」
どこか胸の奥が切なさに満たされていくのが分かった。
そして、引っ越し当日。 俺は自分のアパートを通り越し、単車のアクセルを一気にふかして姉さんの元へ飛んだ。

ドアを開けると、見慣れていたはずのものは綺麗になくなり、部屋はすっきりと片付いていた。 姉さんはニコッと微笑み、「お別れだね」と言った。 そして、あの当時では滅多になかったハグをしてきた。
あの頃の部屋で初めて胸を貸した時とは違う。高校生になって単車を飛ばしてきたこの日、力強く抱き締め返した俺の腕の中で、姉さんは驚くほど小さく感じた。
俺はあの頃のガキのままではなく、その背中をトントンと叩きながら耳元で呟いた。
「幸せにな」

ハグを解いて離れる時、姉さんは「もうっ! そんなこと言われると思ってなかったから……」と、驚くほど顔を覆い、こぼれる涙を拭っていた。
今でも、あのぼろいアパートはあの場所にしっかりと立っている。 そこを通り過ぎるたびに、胸の奥がキュッと締め付けられる。
あの時、姉さんはこう言ってくれた。 「〇〇くんは何か不思議な力を持ってるよね」って。
その言葉と表情は、今でも脳裏に焼き付いている。 ふとした瞬間にあの頃の姉さんの「いい匂い」が鼻腔をかすめ、懐かしい空気が一気に蘇る。
いったい、なんであの頃のガキだった俺を呼び止め、毎日あの部屋に迎え入れてくれていたんだろう。

姉さん、 今でもどこかで元気に暮らしてくれているか? 俺は、 あの時のままの姉さんが、ずっと頭の中にいるよ。
――なぁ、あんたにもないか? 今でもふと思い出すと、胸の奥が熱くなるような、忘れられない人が。

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