メインコンテンツへスキップ
見出し画像

葉の色が 【シロクマ文芸部】

    #シロクマ文芸部参加作品です。
    小牧幸助様、いつも素敵なテーマをありがとうございます。ご覧くださる皆様にも、心からお礼申し上げます。

    葉の色が変わったことに、ルイージ・プルチは三日も気づかなかった。

    その三日のあいだ、彼は生意気な騎士と従者を殴り倒し、修道士の強欲を暴露し、神学者の鼻先で豚の尻の聖性を論じてやった。

    いずれも紙の上での出来事だった。

    現実の彼は、朝から何も食べていない。
    「詩人というものは、腹が減ると真理に近づく」
    彼はそう呟いて、庭の葡萄をひと房失敬した。

    と、後ろで聞き覚えのある声が笑った。
    「相変わらずあなたの独り言はひどい。マエストロ・プルチ」

    ロレンツォ・デ・メディチ。

    フィレンツェの主が供も連れず、籠を片手に、葡萄棚の下にふらりと立っている。焼きたての小麦とオリーブ油の匂いと共に。
    「この三日、詩人の姿を誰も見ていないと聞いたので」

    「心配には及ばぬ。不埒な騎士を殴っておった。忙しかったのだ」
    「それは、さぞかし強かったのでは?」
    「うむ、いやその反対で弱い。弱すぎて、すぐ終わる。だから次を書く。終わらせぬために、次の次、そのまた次の次の次も書く」

    「では、薪が要りますね」
    ロレンツォは口角を上げて、籠を差し出した。葡萄が練り込まれた塩気の利いたパン。この季節の好物だった。

    受け取った指が少し震えた。それを知ってか知らずか、歳の離れた友人は、はにかむように笑った。

    その笑い方。母君のものだ。

    「モルガンテを書いてほしいの」と、あの人は言った。だってこんな可笑しな話、あなたにしか書けないから、と。笑いながら言った。自分で言って、自分で笑う人だった。

    春からずっと、筆を置けなかった。
    だから巨人をけしかけ暴れさせ、修道士の面目を潰し、豚の尻を大真面目に吟じた。いつか、誰かが笑うように。

    「母は笑いながら、よくこう言っていました」
    ロレンツォは風の行く先を見やって呟いた。
    「ルイージは思い切りふざけたあとで、必ず一行だけ本気を混ぜる。そこがずるい、と」

    口の中のパンを、ゆっくり飲み込んだ。塩気がやけに喉にしみる。

    葡萄の葉が一枚、赤く透けて落ちた。
    三日前は緑だったはずだ。いつの間に変わったのか。知らないまま、季節はあの人のいない方へと移っていく。

    「我が愛しのオルランド」
    胸に手を当て、大仰に呼びかける。
    「そこへ座り給え。巨人が笑い死ぬところを、ひとつ詠んで差し上げよう」

    「笑える場面ですか」
    「とびきり笑える。最後の一行以外は」

    ロレンツォは頷くと籠を置いて、石の縁に浅く腰を下ろした。
    そして、やはり同じ笑い方を見せた。


    涼しい夜【シロクマ文芸部】← Precedentemente

    Continua → 風邪薬【シロクマ文芸部】

    ご覧いただきありがとうございました。
    同じイタリアルネサンスの世界観で小説も連載しています。ぜひ覗いてやってください。


    この記事が参加している募集

     
     
    Vvici(ウウィキ) AIという新たな絵筆を用いた絵画と意匠、歴史/物語が融合するメディアミックスアートを展開。「Vici(征服)」と「Wiki(瞬時の集積知)」のはざまで美を巡る思考の断片を記録します。 『フィレンツェの春』:イタリアルネサンスが舞台の連載小説。日曜夜更新。

    あなたへのおすすめ