
生まれた日 【シロクマ文芸部】
#シロクマ文芸部参加作品です。
小牧幸助様、いつも素敵なテーマをありがとうございます。ご覧くださる皆様にも、心からお礼申し上げます。
生まれた日のことを問われれば、兄のことを話さねばならない。
その日、私は初めて人間の顔を描いた。
それまで描いてきたのは、聖人や天使ばかりだった。
父は早く死に、母も、私が物心ついた頃に亡くなった。
兄は十以上も年上で、靴底を縫い、荷を運び、家の壁を塗って、身寄りのない暮らしを支えた。
兄は、羊皮紙の切れ端を持って帰ってくることがあった。
兄は字が読めなかった。
私が最初に覚えた言葉も、兄は読めなかった。それでも私がラテン語の祈りを暗誦すると、兄は仕事の手を止めて聞いていた。
「おまえには才能がある。書物を扱う人間になれ」
兄はいつもそう言っていた。
「俺にはできなかったことだ」
兄のお陰で、私は町でも名のある書物商の工房に入った。
学者や名士たちが出入りし、古い本を探し、写本を注文していた。
私はそこで聖書を写し、キケロやウェルギリウスを写した。
親方は私の手を褒めた。字が揃い誤りがなく、仕事も速い、と。
やがて私は、聖人の頭上に金箔を置き、衣に高価な顔料を使う仕事まで任されるようになった。
兄は、ときおり工房にやってきた。
一張羅とは名ばかりの、つぎはぎだらけの上着を着て、手の甲の傷を隠しながら。
「よく働いているな」
にこにこして、そう言った。
私は、もっと立派な服を買ってやると約束した。
いつか文字も教えると言った。
仕事が一段落したら、一緒にダンテを読もうとも言った。
兄は決まって「絶対だぞ」と言い残して帰った。
その年の冬、兄は病に倒れた。
私は親方に頼み込み、仕事を増やしてもらった。
夜遅くまで文字を書いた。
報酬を受け取るたび、薬を買い、パンを買い、兄の寝台へ急いだ。
けれど私の文字は、兄の熱を下げなかった。
ある朝、工房から戻ると、兄は動かなくなっていた。
葬儀を終えたあの日、私はちょうど『神曲』に取り組んでいた。
かの地獄の門に刻まれた、黒き言葉。
一切の望みを棄つべし。汝ら、ここに入る者よ。
誰もいない夜中の工房で、一字一句、いつものように書いた。
兄は結局、文字を知らずに死んだ。
私がどれほど美しい本を作っても、それを読むことはない。
私がどれほど立派な書物商になっても、それを知ることもない。
兄が私のために働いた年月を、一度も数えたことがなかった。
私は筆を置き、いま写したばかりの一句を、声に出して読んだ。

兄は、聞くことならできたはずだ。
続きも読んだ。
第三歌の終わりまで、ゆっくりと読んだ。
それから紙の余白に小さな絵を描き始めた。
粗末な上着。
節くれだった傷のある手。
樽を運び、薪を割り、私のためにパンを買ってくれた手だった。
顔を描こうとして筆が止まる。
兄は、どんな顔をしていたのだろう。
笑うとき、目尻に皺が寄る。
そうだったはずだ。
しかし、鼻の形も額の広さも、定かではない。
何度も描き直す。
やがて、ひとりの男の顔が、そこに現れた。
聖人でも天使でもない。
疲れた顔をしているけれど、にこにこ笑う、ひとりの男。
その顔を見つめ、兄さん、と呼んでみた。
返事はなかった。
上着の色を塗り直した。
ラピスラズリの青をほんの少し。聖母の衣の、あの青。
顔はそのままにしておいた。
その日、初めて人間の顔を描いた。
絵の中の兄は、朝日の下でも、やはり私の知らない顔をしていた。
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同じイタリアルネサンスの世界観で小説も連載しています。ぜひ覗いてやってください。