
秋の空 【シロクマ文芸部】
#シロクマ文芸部参加作品です。
小牧幸助様、いつも素敵なテーマをありがとうございます。ご覧くださる皆様にも、心からお礼申し上げます。
秋の空が、ひとつだけ凹んでいた。
アルノの水面にも映るそれは、雲ではない。
そこにだけ光がなく、よく見ると鱗のような濃淡がびっしり浮かんでいる。
水の下を、何か大きなものがゆっくり泳いでいるようにも見えた。
その濃淡が一段濃くなった。
町中の教会の鐘が、思い思いに昼を告げる。
その声の重なりは、この日に限ってどこか耳障りに響いた。
市場では、商人が釣り銭を数えていた。
銅貨を一枚、手に取る。
「……多く貰っておけばよかったな」言って、客の手に乗せた。
工房では、画家が筆を止める。
北方から来た彼は、慣れない町で板絵に向かっている。
そこには、まだ空白の青空が残っていた。
「この青が……どうにも怖い」誰に聞かせるでもなく、声が出た。
聖堂では、祈りの言葉が聞こえていた。
ひとりの修道僧が途中で声を止め、呟いた。
「ここにいるあいだだけ、独りではない気がする」
通りでは、栗がひとつ、ぽとりと落ちた。
煤のついた栗。子どもが拾う。昨日、盗んだ栗だった。
そして坂を下りていく。
持ち主の家の前まで来ても、戸を叩けなかった。
乾いた風が、ポプラの葉を金色に転がしていく。
陽が傾き、影が動いた。
川から壁へ。
壁から屋根へ。
人々の足元を鱗の形が横切り、鐘楼の石壁を這い、また川へと戻る。
誰も声を出さなかった。
アルノの水だけが、いつも通り流れている。
夕暮れ、子どもはまだ戸の前に立っていた。
修道僧が、川辺で立ち止まる。
空と水面、双方の影を見比べてひとりごちる。
「……主は、ヨナを呑ませた」
そして目を瞑り、聖書の一節を吟じた。
ここに、主、魚に命じ給ひければ、魚、ヨナを陸に吐き出したり。

夜になる。影は薄くなった。
鱗の濃淡からひとつずつほどけ、すっかり暗くなった空の中へ消えていった。
翌朝。
オレンジの大聖堂の屋根に、薄く霧が降りている。
空は高く、青い。
昨晩、影の最後の一片が消えた場所だけ、ほんの少し色が沈む。
水を含んだ紙にアズライトの青が滲んだような、重たい青。
北方の画家は、その空をしばらく眺めていた。
それから板絵に向かった。
昨日まで塗れなかった青を、筆になじませる。
一度、置く。
もう一度、置く。
今度は筆が止まらなかった。一気に塗り上げた。
市場では、壊れかけていた井戸の蓋が、いつの間にか直っていた。
孤児院の前には、温かいパンが三つと、少し硬くなったパンがひとつ入った籠が置かれていた。
門には、誰かの落とした手袋が掛けられている。
子どもは昨日の栗を持って、もう一度坂を下りた。
今度は迷うことなく戸を叩けた。
秋の風が、石畳を吹き抜ける。
誰も影の話をしなかった。
アルノの水面が、いつものように空を映している。
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