
「本音」が露呈じゃなく、排除のテンプレートの作動 『24時間テレビ』の星野真里さんの件
『24時間テレビ』で、俳優の星野真里さんが、先天性ミオパチーのある娘・ふうかさんとの経験について語ったことをきっかけに、SNS上でかなり激しい議論が起きている。「そんなに配慮を求めるなら特別支援学校へ行けばいい」「普通の学校に入れたのは親のエゴではないか」「先生の負担を考えているのか」。そんな言葉が、次々と流れてきた。
まず、事実関係だけ確認しておきたい。ふうかさんは、通常学級を在籍先として選んだ子ではなく、公立小学校の特別支援学級に在籍している。小学校入学時には通常学級で学ぶことも勧められたが、星野さんたちは設備や人員などの支援体制を考え、特別支援学級を選んだ。星野さんは以前から、特別支援学級の支援体制には感謝しつつ、通常学級の子どもたちと一緒に過ごす時間が限られていることや、「自分たちが思い描いていたインクルーシブ教育からは遠い現実もある」と語ってきた。
今回の番組で紹介されたのも、特別支援学級に在籍するふうかさんが通常学級で授業を受けていたときのことだ。小学1年生のころの授業参観で、教室の一番後ろに「ポツン」といる娘の姿を見た星野さんは、授業に参加しているというより「いさせてもらっている」ように感じたと振り返っている。
僕は大学で社会デザイン的な視点からアートや表現の可能性を教えながら、障害のある人たちと表現を通じて関わる仕事を長く続けてきた。そのなかで、何度も学生たちにも伝えてきたのが「障害の社会モデル」という考え方だ。ものすごく簡単に言えば、「その人ができない」ことを、その人の身体や能力だけの問題として考えない。車椅子の人が二階に上がれないとき、問題なのは「歩けない身体」なのか、それとも階段しか用意していない建物のほうなのか。社会モデルは、後者を問う。もちろん身体の違いがなくなるわけではない。ただ、その違いが「できない」という不利益になるかどうかは、環境や制度や人の配置によって大きく変わる。
この考え方に立つと、今回SNSで大量に流れてきた「先生が大変になるじゃないか」という言葉も、少し違って見えてくる。先生が大変だという認識そのものは事実だと僕も思うので、否定する気はない。一人の教員が多数の児童を見ながら、それぞれ異なるニーズに応じることが難しい状況は、いくらでもあるだろう。ただ、「先生一人では大変だ」という事実から、「だから障害のある子は別の場所へ行ったほうがいい」という結論が自動的に導かれるわけではない。そのあいだには、かなり大きな飛躍がある。
「先生一人では大変だ」からまず導けるのは、「先生一人に全部やらせる仕組みでは無理がある」ということではないのか。支援する人を増やす、教室の環境を変える、授業のやり方や教材を変える、合理的配慮のあり方を考える、通常学級と特別支援学級の行き来をもっと柔軟にする――変えることのできるものは、子どもの居場所だけではないはずだ。それなのに、なぜか子どものほうを動かす案だけが「現実的」と呼ばれる。
ここに僕は、社会モデルとは反対方向の発想を見る。現状の制度や人的配置を「変えることのできない自然条件」として固定してしまえば、そこに適合できない身体のほうが「問題」になってしまうからだ。障害のある子どもがいるから先生が大変になったのではなく、さまざまな身体や学び方の子どもが一緒にいることを前提にしていない環境へその子が入ったときに、もともとあった大変さが目に見えるようになった。この順番を、逆にしてはいけないと思う。
「みんな本当はそう思っていた」のか?
そんなことを考えながら今回の騒動を見ていたとき、日刊SPA!に掲載されたライターの石黒隆之氏による記事が流れてきた。
「『普通の学校に入学させたのは親のエゴ』星野真里への“もっともらしい意見”に感じた恐怖。『24時間テレビ』が浮き彫りにしたもの」という記事である。「支援学校へ行かせろ」という一見もっともらしい意見が、実際には排除の言葉として働いていることに、強い懸念を示している。
ただ、とても気になった箇所がある。この記事では、『24時間テレビ』がこれまで障害を「感動の物語」として提示しやすい形に整えてきたことが、「過剰に美談を煽る」と批判されてきたと書く。そして、その制作姿勢への不満がいつの間にか「障害者と障害者政策への不満」へ重ね合わされていき、そこへ今回の星野さんの発言が現れたことで、「世論がひた隠しにしてきたどす黒い感情」が言葉を得たのではないか、と論じている。ここは、ちょっと違うのではないかと思った。『24時間テレビ』の「美談化」をめぐる批判には、かなり重要な歴史があるからだ。
「感動ポルノ」批判は、障害者を排除するための批判ではない
2016年、NHK Eテレの『バリバラ』が『24時間テレビ』の裏で「障害者×感動」をテーマにした番組を放送し、「感動ポルノ」という言葉が広く知られるようになった。もともと「inspiration porn」という言葉を広めたのは、車椅子ユーザーでもあったステラ・ヤング氏だ。その批判が問題にしていたのは、障害のある人が、障害のない人を勇気づけたり感動させたりするための「材料」として描かれること。社会の側がつくった障壁を、障害者本人が必死に「克服」する姿を見て、障害のない側が感動するという「構図」。問われていたのは、そちらのほうだった。
社会学者の前田拓也氏は、当時この問題について非常にわかりやすい論考を書いている。前田さんは、「感動ポルノ」を社会モデルとセットで考える必要があると言う。感動する前に、その人が乗り越えなければならなくなっている障壁を、社会の側が取り除け、と。感動ポルノ批判の中心にあったのは、障害者をもっと社会の主体として扱えという要求だったのだ。だとすれば、『24時間テレビ』の美談化への批判が障害者政策への不満へ流れ込み、そのまま「もう支援学校さえへ行けばいい」へ着地する、という一直線の道筋を描いてしまうのは、かなりまずい。思想としては、真逆の方向だからである。
ところが面白いことに、前田さんは2016年の時点ですでに、その先で起こりうる別の危険についても書いていた。前田さんが危惧していたのは、「感動ポルノ批判」が持つ痛快さが、ネット上のある種の「本音主義」と接続することだった(同記事の「感動ポルノ批判」と「本音主義」の親和性という小見出し参照)。「建前なんてやめよう」「綺麗事を言うな」「みんな本当はそう思っているだろ」「タブーだから誰も言わなかっただけだ」。そうやって、「本音」であることそのものが正しさの証明になってしまう。良識や偽善を嗤うことで「本音」の側につく共犯意識が生まれ、そこへ障害者への負の感情まで接続する可能性を、前田さんはすでに2016年に指摘していた。
今回起きているのは、こちらのほうではないだろうか。感動ポルノ批判が障害者排除へ発展したのではない。批判の中身ではなく、「偽善を見抜いてやった」「綺麗事に騙されない」「建前の向こうにある本当の現実を俺は知っている」という批判の「型」だけが切り離されて流通した。内容の継承ではなく、形式の流用である。そして考えてみれば、この型には、ものすごく既視感がある。
排除には、いつも同じ公式がある
たとえば外国人や移民をめぐる議論。「共生社会をつくろう」と言えば、「でも税金がかかる」「地域住民が迷惑している」「綺麗事では済まない」という言葉が返ってきて、いつの間にか「外国人のために日本人が負担させられている」という話になる。生活保護でも同じだ。「困窮している人を支えよう」と言えば、「不正受給している人もいる」「真面目に働いて税金を払っている人が馬鹿を見る」「弱者救済なんて綺麗事だ」となる。
どちらも、現実にある制度上の問題を議論すること自体は必要である。制度にはコストがかかるし、現場に負担も生じる。運用上の問題も起こる。問題は、そのあとだ。本来なら「なぜ負担がそこへ集中しているのか」「制度をどう設計し直せばいいのか」と考えられるはずのところが、いつの間にか「その人たちがいるから負担が発生している」という話へ変換されてしまう。
今回であれば、
①共に学ぶことが大切だ→②でも先生が大変じゃないか→③障害のある子が通常学級にいることが、先生の負担を生んでいるぞ→④インクルーシブ教育なんて綺麗事じゃね?→⑤だったら初めから支援学校(にだけ)行けばいい――という流れになる。
この道筋の三番目に、小さな、しかし決定的なすり替えがある。先生が大変なのは、障害のある子どもがそこにいるからなのか。それとも、大前提としてさまざまな子どもが共にいるための人的・物的環境を整えないまま、一人の先生に対応を押しつけているからなのか。ここを問い直すのが、まさに社会モデルなのだと思う。
本音が露呈したのではない
今回の件で、「先生がかわいそう」「ほかの子どもがかわいそう」という言葉がかなり拡散されている。これも、排除の言葉として非常に巧妙だ。「障害のある子供は出ていけ」と直接言えば差別に見えるものが、別の誰かを守るためという形を取った瞬間に、善意の言葉へ変わるからである。移民なら「日本人の生活を守るため」、生活保護なら「真面目に働いている納税者を守るため」、ホームレスなら「地域住民や商店を守るため」。そして今回なら、「先生やほかの児童を守るため」。こうして排除する側が、誰かを傷つける人ではなく、誰かを守る人になる。かなり強力な変換装置だと思う。
だから僕は、今回の現象を「日本社会がひた隠しにしていた障害者への本音が露呈した」とは、あまり考えたくない。差別意識が存在しない、と言いたいのではもちろんない。ただ、今回流れている大量の言葉を、本当に熟考された「共生社会への本音」と呼べるだろうか。特別支援学級と特別支援学校の違いを知っているのか。ふうかさんが実際にはどこに在籍しているのか確認したのか。交流及び共同学習がどのような制度なのかを調べ、合理的配慮とは何かを考えたことがあるのか。そもそもインクルーシブ教育について、どれだけ考えてきたのか。それらをほとんど知らないままでも、「親のエゴ」「先生がかわいそう」「綺麗事では済まない」という言葉だけは、すぐに出てくる。
だとすればこれは、本音が露呈したのではなく、排除のテンプレートが作動したのだと考えたほうがよいのではないか。先に「本音」があって、それがSNSによって可視化されたのではない。「偽善に騙されない私たち」と「現実を知らず綺麗事を言う人たち」という使い慣れた型に出来事を流し込むことで、「これこそみんなが言えなかった本音だ」というものが、あとから製造される。そう考えたほうが、僕には今回起きていることがよく見える。これまで幾度となく擦られ続けてきたこの排除のテンプレート・文法が、今回の星野真里さんの一件で、「障害児教育」をテーマに作動した。そのつど違う対象を材料にしながら、「綺麗事ではなく現実を見ろ」という同じ文法が作動する。これは怖い。
「共生なんて綺麗事だ」と言う前に、問わなければならない。その「現実」は、誰がつくった現実なのか。いまある教室の人数も、教員の配置も、支援員の数も、建物のつくりも、制度も、予算も、自然現象ではない。人間がつくったものだ。だったら、変えることもできる。変えることのできる社会の側を固定したまま、そこに入りきらない身体だけを移動させることを手っ取り早く「現実的」と呼ぶのは違う。僕には、それこそが今回もっとも問い直されるべき「現実」のように思える。