
神々の「結婚?」で主語の対立を述語のマンダラにモードチェンジする -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(111_『神話論理4 裸の人』-8)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第111回目です。『神話論理4 裸の人1』の第一部「家族の秘密」を読みます。
前回の記事はこちらです。
前々回の記事はこちら。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?
仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。図1のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。

私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。
マンダラ
そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。
例えば弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。
およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかしこだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)、この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。
転識得智
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。
特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。
ここで、人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層の固着した様相である。心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。
この伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
*
神話や夢こそ、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
この神話と仏教、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。
マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。
マンダラ
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。
一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。
両義的媒介項
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。
分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動
神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。
2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。
4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。
例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。
「分けるから分かれる」 ——意味分節の起源
空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。
このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。
起源神話 —区別があること、それ自体の起源
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。
そしてこの区別が、神話では、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。
神話の語りを分析する
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。
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以上を踏まえ、 『神話論理4 裸の人』から、「M542a ネズパース チョウ女」と「M543 モドック アイシシュのある結婚」をマンダラ伸縮モデルで読んでみよう。

M542a ネズパース チョウ女
造化の神コヨーテは散歩していた。
チョウ女が遠くから彼を見て、呼び止め、彼に誘いをかけた。
彼女が美しく優雅だったので、造化の神コヨーテは誘惑に身を任せたが、彼女は人を殺すほどの力で彼を抱きしめ、押しつぶした。
そして、彼女はコヨーテの遺体を水に放り込んだ。
コヨーテの遺体は長いあいだ流れ、 それから岸に打ち上げられた。
*
一羽のカササギが脂肪をつついて彼(コヨーテ)を生き返らせた。
*
コヨーテは腰を叩き、子供たちを排泄した(前出、三五頁参照)。
子供たちはすぐたがいに闘い始めた。
それゆえに、彼らは子供たちを胎内に戻したが、しかしその前に末っ子の助言を求めた。
彼女(チョウ女)を串刺しにすることでいかにチョウ女に復讐することができるか、末っ子はコヨーテに説明した。
(そうして言われた通りにコヨーテはチョウ女に復讐をして、次の様にいう)
「おまえはもう誰も殺すことはない」と、コヨーテは息を引き取りつつある犠牲者(チョウ女)に言う。
「人間が地上にすぐ現われ、こう言うだろう。『ほら、 チョウが飛び回っている。新しい季節だ』」
(Phinney, p. 51-54; 2 Boas 4. p. 153-154)
M542a ネズパース チョウ女 より
この一見短い語りの神話は「造化の神コヨーテ」と「チョウ女」という二者のあいだで繰り広げられる分離→結合→分離→結合の動きを高速で動かしていく。
分離/結合の高速伸縮とその動きの主語の役を演じる両義的媒介項
冒頭、「造化の神コヨーテ」と「チョウ女」とは“分離”している、というか“結合していない”。
β ー ー ー ー β
次の場面で、この両者の関係が分離モードから結合へと転じる。
まず「チョウ女」が「造化の神コヨーテ」を「遠くから」「見」る。
遠くから見るというのは、分離したまま結合するということである。
β → ← β
そしてそのまま結合する。「チョウ女」が「造化の神コヨーテ」を「呼び止め」「誘いをかけ」る。コヨーテの方も「チョウ女」を気に入って「誘惑に身を任せ」る。
β→ ←β
ここまでなら経験的感覚的なリアルな世界でもよくある結合の様相であるが、神話はここからさらに過度な結合へと展開する。「チョウ女」は「造化の神コヨーテ」を凄まじい力で「抱きしめ」、つまり過度に結合する。この過度な結合によって、ついにコヨーテの方は「押しつぶ」されて、身体の輪郭を失ってしまう。
((ββ))
こうして二項の間の一項が潰れて存立しなくなり二項の関係ですらなくなるほどに過度に結合したかと思えば、ここから一挙に関係は分離に転じる。
「チョウ女」は潰れた「造化の神コヨーテ」の身体を、自分の(チョウ女の)身体から引き離し=分離して、そうして放り投げる。
激しく分離して、水の中へ放り込む。
β ← → β
ここまで図2の2)のモードでβ二項が過度に結合したかと思えば、過度に分離し、そうかとおもえばまた過度に結合するという伸縮をみせる。

この後、コヨーテは甦り、再び「チョウ女」のもとに赴き(分離モードを結合モードに転じ)、そして何らかの形で「チョウ女」に接近=結合した上で、「チョウ女」に復讐を果たす。
β→ ←β
この復讐というのが具体的にどういうことかは書かれていないが、図2の展開からすると5)のモード、
Δ人間が経験できる蝶← βチョウ女 →Δ人間が経験できる蝶
ということになる。神話の語りにある「人間が地上にすぐ現われ、こう言うだろう。『ほら、 チョウが飛び回っている。新しい季節だ』」というのがまさにこれで、人間たちが眺めている「チョウ」は、経験的感覚的に存在するあの現世の日常をひらひらとしているチョウたち、Δチョウである。それに対してコヨーテを抱きしめて潰してしまう「チョウ女」なるものは、名前に「チョウ」と入っているだけで、私たち人間が経験的に知っているようなあのΔチョウとは別物の、βチョウ、両義的媒介項にしてトリックスターでもあるような神話的な分離と結合の伸縮する述語的様相を言語化する際に仮にあてがわれた主語的なものである。
最初の過度な結合はβコヨーテの方が輪郭を破られる形で分離に向かうが(チョウ女に潰された時点では、まだ完全に分離モードにはいったわけではない)、二度目の過度な結合はβチョウ女がその輪郭を破られる形で分離に向かう。
コヨーテの川流れ。カササギのついばみ
人類にとって経験的にリアルな三次元空間の起源
ここで注目しておきたいのが、一度バラバラにされたコヨーテが、復活をするに至るくだりである。
「コヨーテの遺体は長いあいだ流れ、 それから岸に打ち上げられた。」
「一羽のカササギが脂肪をつついて彼(コヨーテ)を生き返らせた。」
「コヨーテは腰を叩き、子供たちを排泄した」
この神話、短くまとまっているが、一言一句に分離と結合の多様な述語的様相が凝縮されており、目がまわる。
*
まず、チョウ女に潰されて、その輪郭を閉じた状態から開いた状態に転じられたコヨーテは「長い間」川を流れる。実はここに、空間的な分節、水平方向での空間の分節、遠/近、ここ/そこ、といった分節が区切り出されている。経験的感覚的世界のリアリティの基軸になる空間の分節が、まず水平方向で開かれる。空間の分節、遠/近、ここ/そこの分節も、分けるから分かれるのであって、分けなければ分かれるでもなく分かれないでもないままである。
*
そして水平方向の空間の分節を開いたコヨーテは「岸に打ち上げられ」る。
ここにまた人間の現実の生にとって決定的な分節である、水/陸の分節、地上の世界(人間が呼吸できる世界)/水中世界(人間が呼吸できない世界)との分節が分けられる。
*

次に登場するのが「カササギ」である。
カササギは、経験的には高いところに止まっているところから地上に降りてきて、地表や水辺で食べられそうなものを啄んでは、また高いところに飛び上がって休む、といった具合に、上/下のあいだでの昇/降の動きをする印象がある。
Δ
上
上昇↑/↓降下
下
Δ
つまりさきほどコヨーテの川流れの述語的様相が水平軸の空間の分節を開いたのに続いて、カササギの昇降は、垂直軸での空間の分節を開いていると言えそうである。
水平軸と垂直軸の分節が定まったところで、はじめて人間にとって経験的感覚的に存在する三次元空間という分節システムが発生するのである。
Δ上
Δあちら / こちらΔ
Δ下
上記のように図式化した場合の、真ん中の「/」を体現する述語こそが、コヨーテが川に流れ岸に打ち上げられる動きであり、カササギが上下の垂直軸で昇降する動きである。
ここで、この垂直軸を描くように運動するカササギと、水平軸を描くように運動するコヨーテが、結合する。カササギがコヨーテの脂肪を(チョウ女によって潰され表皮が破れ、身体の内/外を区切るはずの表面=皮膚を無化して、内から外にとびだした脂肪を)「ついばむ」のである。
ついばむ。
とてもよい述語である。噛みついたまま(結合したまま)離れなくなってしまうのではなく、つんつんと小さく結合したり分離したりを繰り返す動き。ついばむ動き、ついばむ述語的様相において、コヨーテとカササギの二者の間は高速で分離モードと結合モードを転換させる。
この激しい分離と結合の転換をつうじて、コヨーテは蘇る。
生 / 死
という、経験的には自在に行き来できない二極の間を、コヨーテとカササギのβ伸縮は、自在に非同非異に結合したり分離したりして、生と死のあいださえ転換できてしまうのである。
男神であるコヨーテの出産と、子どもたちの体内への回帰 分離したのに結合する
さて、ここでなぜか、何も脈絡もなく(?)、コヨーテは子供を産む。
というか、チョウ「女」に魅惑されたりしている時点で、このコヨーテは男性なのであるが、どういうわけだが男性であるコヨーテが子供を出産する。
人類にとって経験的にリアルな世界では子を産めるのは女性だけである。しかしこの神話では、男性であるコヨーテもまた子を産める。
ここで思い出しておきたいのは、チョウ女も、自在に生死の間を往来するコヨーテも、経験的感覚的な存在者Δ項ではないということである。チョウ女もコヨーテも、両義的媒介項βである。つまりそこでは、男/女のような経験的な区別もまた、分ければ分かれるし分けなければ分かれない、分かれているでもなくいないでもないことになる。つまりコヨーテについて、この登場人物が男か、女か、どちらか?を分けて選び、選ばなかった方を排除するということはしないのが神話の思考である。
そうしてコヨーテは子供たちを産むが、しかしその子供たちが「すぐたがいに闘い始め」てしまったために、慌ててまた「彼らは子供たちを胎内に戻」すことになる。コヨーテの内から外へと分離された子供たちが、またすぐにコヨーテの外から内へと結合される。
結合から分離へ、分離から結合へ、激しい分離と結合の伸縮である。引き続き図2でいえば、2)または3)のモードで展開し続けている。
自在に出入りし、喋る胎児
ところでこの束の間の子どもたちが外にいる間に、コヨーテは「末っ子」と会話する。生まれたばかりの子、しかも人間ではなく動物の子が、言葉をしゃべって会話するなんて・・・
年長/年少
人間/動物
|| ||
言葉を話す/言葉を話さない
といった経験的な区別の繋ぎ方があちこちで逆になっているが、これぞまさに図2の2)、3)の様相、分離と結合の伸縮が激しく動くモードのあり方である。
潰して表皮を破る/串刺しにする
さてこの「末っ子」のアドバイスに従って、コヨーテはまたチョウ女のもとに赴き、チョウ女を「串刺しにする」という形で復讐を果たすことになる。
前にコヨーテがチョウ女に負けた時には、コヨーテは圧縮され、その表面、内/外を分離する境界が破裂するという形になった。内/外の分節自体が無分節の分節モードへ転じたのである。
これに対して今度は「串刺し」である。
串刺しにされたことで、チョウ女は内/外の境界を保ったまま、つまり内/外の分節を維持したまま、しかし外と内をひとつに繋げるたあり方になった。
潰す / 串刺しにする
これは実は、料理、調理法の対立でもある。
「潰す」が、絶対無分節の分節の無分節面であるとすれば、「串刺しにする」は、絶対無分節の分節の分節面である。
串刺しになったチョウ女に対してコヨーテは「おまえはもう誰も殺すことはない」という。つまりチョウ女は、この神話の最初にコヨーテにしたように、過度な結合と過度な分離のあいだで激しく動き回るようなことを、もうしない、ということになる。チョウ女の動きで象徴される、図2の1)〜3)の様相は、世界の表層にはもう顕在化せず、ずっと隠れていることになる。
こうして両義的媒介項βの「串刺し」から、絶対無分節が分節した世界、つまりチョウが舞い、人間がそれを眺めているような、現世が、この現実が、図2の6)の様相の世界が、定常的に浮かび上がるようになったのである。
Δ = Δ
/ /
Δ = Δ
神話は、語られた文面が短文であればあるほど、分離する述語と結合する述語のあいだの転換、伸縮が高速に重畳し、心の底からその言葉に共鳴する聞き手や読み手の意識を瞬間的にβ伸縮モードに引っ張り込む。

「結婚」をめぐる分離と結合の長期にわたる伸縮
そういう意味では神話は長く語られた方が、疲れない。
いいや、短くても長くてもどっちもどっちではあるが、長く語りが続く神話の良さというのもある。
引き続き「M543 モドック アイシシュのある結婚」という神話を見てみよう。上の神話もある意味で「結婚であるようなないような」関係をブリコラージュして分離と結合の伸縮を語ったが、次の神話もまた非常に激しい結婚にまつわる物語でもって、分離と結合の伸縮モードが多様に変容し、最終的に付かず離れずの分離する傾向と結合する傾向が均衡したところで、現世のリアリティを支える定常的な意味分節体系が浮かび上がるに至る経緯を語る。

M543 モドック アイシシュのある結婚
アイシシュ(イシス)はツクトゴシ山(ここではテウトゴシ、M541の最後の部分を参照)に居を定めると、彼はまずシカ狩りに打ちこんだ。
山の南側斜面に老女ヤウリリクが、ひとりの息子とふたりの娘と住んでいた。家族はとても貧しかった。母親はアイシシュの評判を知り、肉を提供してもらえるよう、娘たちに彼と結婚するように促した。
しかし、彼女たちはクムカムチュ(クムシュ)と混同しないようにしなければならなかった。クムカムチュはしばしば息子になりすまそうとしたからである。
しかしながら、(※娘たち)ふたりが村に着いたとき、クムカムチュは彼女らを欺くのに成功した。
しかし、アイシシュが間もなく新鮮な肉を担いで帰ってくると、娘たちは自分たちの間違いに気がついた。
彼女たちはクムカムチュに襲いかかり、骨製の頭掻きで彼を引き裂いた。彼の骨格と円盤以外、何も残らなかった(M541、前出、六九頁)。
そして、娘たちは逃げ去った。
* *
父親がいなくて、アイシシュはひとりぼっちだと感じた。
彼が矢の一撃で山をふたつに切り裂くと、逃亡者たちはそのあいだを流れる川を越えることができなかった。アイシシュは彼女たちに追いつき、頭を切り落とした。 そして、彼はシャスタ山の頂に身を引き、泣いた。
**
犠牲者たち(二人の娘)の母親と年若い弟は、彼女たちの頭を、そして身体を見つけた。それらは、魚網に引っかかってい
たのである。老女は娘たちを生き返らせるのに成功し、殺人者の名前を知ろうと調査を始めた。
*
*
生き返るやいなや、少女たちはシャスタ山で食用の種子を集めたがった。
彼女たちはそこで数日間続けて野営 した。
彼女たちが水を探しに山頂に登ると、妹は弱い声が「おまえたちはわたしの涙を飲んでいる」と言うのを聞いた。
彼女は輝く赤い髪の毛を拾い、それが彼女と姉を殺した男のものであることを知った。平らでむき出しの場所の真ん中で、両眼だけがまだ生きている骸骨を見つけた。それは、アイシシュの遺骨であ った。非常に多くの仲間を殺されたことへの復習のために、何千頭ものシカに踏みつけられていた。
姉は骨を怖がったが、妹はひどい臭いがしたのに、それを拾った。
野営地に帰ったとき、彼に油を塗り、獣脂を食べさせた。少しずつ肉が戻り、ついにアイシシュは生き返った。 彼は水を飲み、眠った。彼が眠っている間に、ヤマアラシが彼の周りで踊り、明るい歌を歌った。
アイシシュは回復すると、ヤマアランたちを殺し、皮を解き、針を抜いて、妻たちと義理の母に与えた。
すぐに、姉が子供を産み、妹が続いた。彼らは皆でヤウリリクの家に帰った。アイシシュは若い義理の弟とと もにシカを何十頭も斃し、それをまるでただのウサギのようにベルトにぶらさげてもち帰った。
***
ある日、水を飲むために泉のあった場所をふたたび探しているときに、アイシシュは、ワシの巣をあさるためにクムカムチュが彼を木の上に昇らせた、場所の近くに、それがあることを思いだした。
そう考えたとき、彼はもの恋しくなった。妻たちにはすでに大量の肉の蓄えがあり、足りないものは何もなかった。彼は去ることを決心した。
姉は彼といっしょに行きたがり、妹は、見知らぬ土地で彼女に何か起こるのではないか恐れたが、最後には彼 といっしょに行こうと決めた。
四日目に、姉は不注意から子供を事故で死なせてしまった。
気が動転して、アイシシュは叫んだ。
「妻たちは父よりも大きな悲しみをわたしに与えることはないとわたしは思った。しかし、おまえはそうした。わたしの子供たちに生き、湖に潜り、大地や山に語りかけることを知り、能力があり思慮深くなってもらいたかった。わたしの息子は死んだのだから。わたしはもはやこの世界にとどまらない」。
彼はもうひとりの子供を彼のところに連れて来るように頼み、両唇を小さな頭のてっぺんにつけて、子供から生命の息吹を取り去った。
かれはふたつの遺体を並べておき、女たちに、自分の子供たちの息を取ったので、身体は取り分として彼女たちのものだ、自分は二度と結婚しない、と告げた。彼は妻たちをユキヒメドリに変えた。
義理の弟は、 夢のなかでシャーマンに姿を現わす超自然の精霊ケンコン・ヨンギスになった。そして、北に向かって遠くに去った (Curtin 1. p. 27-38)
二項間の分離モードから結合モードへ、そして結合モードから分離モードへ
。分離したり結合したり、対立する二項間の近さ/遠さが伸縮する動きに注目して、読み解いていこう。

空間の分節の始まり
遠/近 ここ/そこ
冒頭、「ツクトゴシ山」という場所が定められる。
この「山」の「南側斜面」と、おそらく山頂部に、それぞれ老女ヤウリリクの一家(老女と息子が一人、娘が二人、合わせて四人)と、主人公アイシシュが暮らしている。
(アイシシュ)
|
山
|
(老女ヤウリリク一家)

狩猟者/獲物
人間/狩猟対象動物
さてこの山で、アイシシュは「シカ狩りに打ちこん」でおり、要するに獲物を取り放題、大量に食料を得ている。つまり経験的な狩猟者と獲物の関係に対して過度に結合したモードにある。
一方、老女ヤウリリク一家の方は「貧しかった」とあるが、要するに獲物に恵まれなかった、獲物から過度に分離されていたのである。
(アイシシュ)→過度に結合←(獲物:鹿)
|
山
|
(老女ヤウリリク一家)← 過度に分離 → (獲物)
アイシシュと老女ヤウリリク一家は、獲物である鹿との関係で、一方は過度な結合の、他方は過度な分離の様相にある。
分離の様相と結合の様相、分離と結合の対立が際立つ。
図2に示す動的マンダラ伸縮モデルは、この分離する動きと結合する動きのいくつかの組み合わせパターンによって展開していく。この際、大前提として、分離と結合、分離することと結合することじたいを、分離したり結合したりできなければならない。
分離/結合
分離モードと結合モードのあいだを分節できないことには、経験的感覚的に意味あるリアルな経験的世界
Δ/Δ
|| ||
Δ/Δ
は、そもそも発生しようがない。分離と結合の分節こそ、絶対無分節の分節ということなのである。仏教の唯識の理論がモデル化する「八識」は、煎じ詰めると、この分離と結合の分別を組むアルゴリズムを自然言語で定義しようとしている。
「結婚」の言葉で表現される、分離と結合の分離と結合
さて、獲物に恵まれず、食べるものがない老女ヤウリリクは、自分の娘たちとアイシシュとを結婚させようとする。結婚により、自分たちの一家と、「山」に隔てられた向こう側のアイシシュ+豊富な獲物とを結合するのである。
ところがこの結婚の目論見はこの後大波乱を見せ続ける!
娘たちはまずアイシシュの父であるクムカムチュに騙されてクムカムチュと結婚してしまうが、騙されたとわかるとクムカムチュに復讐し斃してしまう。すると今度はアイシシュが父の仇として娘たちを斃す。しかし娘たちはすぐに復活し、そうして改めてアイシシュと出会い直し、ようやく結婚する。そして子も産まれる。しかしアイシシュは彼女たちのもとを離れて旅立ち、二人の娘はそれでもアイシシュについていくが、途中で子どもたちの魂と身体が分離し、ショックを受けたアイシシュは完全に世界の彼方に去り、娘たちはΔユキヒメドリに変えられる。
これだけよむと何がどうなっているのか、迷子になりそうになるが、図2を念頭に、常にこれを手元に携えて、ナビゲーター、ウェイファインダーとして用いて行けば、わたしたちはこの表層言語意識を、自分たちの心の深み、無意識、精神そのものの底の律動に直接共鳴させることができる。

このヤウリリクの二人の娘とアイシシュとの「結婚」をめぐる、結合するかと思えば分離し、分離するかと思えば結合する、という動きは、図2の動的マンダラ伸縮モデルでじつにうまい具合に解読(表層意識に射影)できる。
詳しくみていこう。
結婚相手を間違える
婿と義父を取り違え
まず老女ヤウリリク娘たちは、狩の名手アイシシュではなく、相手を間違えてクムカムチュと結婚してしまったのである。
ちなみにクムカムチュとアイシシュは親子である。前者が父、後者が息子である。「クムカムチュはしばしば息子になりすまそうとした」ので、老女ヤウリリク娘たちはまんまと騙されてしまったのである。
結婚するはずのところが結婚せず(結合するはずのところが分離したままになり)。
結婚しないはずのところが結婚する(分離するはずのところが結合してしまう)。
父と息子が入れ替わり、分離と結合があべこべに入れ替わる。
経験的に対立する二極の間が逆になっている。
騙した義父を斃して逃げる
さてクムカムチュと老女ヤウリリクの娘たちが結ばれているところへ、アイシシュがたくさんの獲物の肉を担いで帰ってくる。
その姿を見て「娘たちは自分たちの間違いに気がつ」き、おのれ騙したな!とクムカムチュに襲い掛かり、「骨製の頭掻き」を使って、クムカムチュを「引き裂」いたかと思えば、その場からアイシシュひとりを残して「逃げ去」る。
結婚(?)という分離モードを結合モードに転じる動きの様相から、一挙に反転して分離が際立つ様相になる。クムカムチュがばらばらに引き裂かれる。この際、引き裂くための道具として「骨製の頭掻き」という、頭、すなわち人間の身体を足先から頭まで眺めた場合の一番「端」にあたる部分から違和感を「分離」するための道具である「頭掻き」が動く。
Δ円盤 ← f/頭掻き/(βクムカムチュ) → Δ骨格
これが最初の大きな結合から「分離」への動きである。
鬼ごっこ
逃げる/追いかける
さらに、結婚した夫婦の家になるはずだった結合の場から、ヤウリリクの娘たちは「逃げ」る。
すごい勢いで分離していくのである。結合から分離へ、様相の激しい転換である。
さて、この神話、引き続き結合から分離へ、分離から結合へ、と激しく伸縮する。逃げたヤウリリクの娘たちをアイシシュが追いかける。
まず「山」を「矢の一撃」で「ふたつに切り裂く」(分離する)と、深い谷川ができて、逃げていたヤウリリクの娘たちは足止めされる。

追いつく ー結合
切り落とす・遠くへ去る ー分離
そこに追うアイシシュが近づき、結合して、父の仇ということで「頭を切り落と」す。
Δ頭 ← f/切り落とす/(β老女ヤウリリクの娘たち) → Δ首から下
そしてΔ頭とΔ首から下に分離されたヤウリリクの娘たちを残して、アイシシュはツクトゴシ山ではなく、湖(トゥレ湖)を挟んだ東/西(?)軸の反対側の「シャスタ山」の上に引き篭もる。
* * *
改めて、結婚が成立
さて、次にβ老女ヤウリリクとその一人息子が登場する。二人は、アイシシュに切り裂かれた娘たち(一人息子からみれば姉たち)の頭と首から下の胴体を発見する。それらはアイシシュがツクトゴシ山に開いた谷川を流れて、魚網に引っかかっていたのである。
そうしてすぐにβ老女ヤウリリクは、β娘たちの分離された頭と体を結合に転じて、蘇らせ、蘇った娘たちはどういうわけだか今度はアイシシュと結婚することになるのだが、ここで一旦立ち止まってポイントを整理しておこう。
分離と結合の過度な伸縮が減衰してくる
過度な分離から、適度な結合へ
このβ老女ヤウリリクの一家とアイシシュ親子のあいだで繰り広げられた分離と結合の伸縮の副産物として、ツクトゴシ山に谷川が流れるようになり、そしてどうやらそこに魚が住むようになり、そうして山のふもとのヤウリリクたちのところでも魚網による漁で魚という「獲物」を得ることができるようになっているらしいのである。
この神話の冒頭、ヤウリリクの一家は獲物・食べ物から過度に分離され、食べるものに困っていたのであるが、意図しない形で(本来ならば娘たちとアイシシュの結婚により、アイシシュから肉を提供されるはずだったがそれとはちがうかたちで)娘たちの犠牲にともなって生じた川と魚のおかげで、食料を得られるようになっている。
(老女ヤウリリク一家)← 過度に分離 → (獲物)
↓
↓
老女ヤウリリク一家 ー 適度に結合 ー 川の魚
過度に分離していた獲物と狩猟者たる老女ヤウリリク一家との関係が、過度な分離モードから、適度な結合モード、付かず離れずの関係に転じたのである。ここには狩猟者たる人間と獲物になる動物の間が過度に結合されるでもなく、過度に分離されるでもない、付かず離れずに分離と結合が均衡した関係になるという、経験的で感覚的な現世の安定した動的分節体系が生じている。これは図2でいえば2)や3)のモードから、4)のモードへと転換する様相である。

+++
さて、老女ヤウリリクの復活した二人の娘たちは、「生き返るやいなや」、シャスタ山へ、アイシシュが引きこもっているはずのシャスタ山へ、食用の種の採集に出かける。野営しながらの採集仕事である。
さて、二人の娘たちが水源を求めて「山頂」まで上がると、なんと「両眼だけがまだ生きている骸骨」になったアイシシュが、悲痛なうめき声をあげている!
なんとアイシシュは、かつて鹿をたくさん狩りすぎた報いを受けて、「何千頭ものシカに踏みつけられ」、見るも無惨な目玉だけが生き残った骸骨の姿になったのである。
ここでも、もともと過度に分離された獲物と狩猟者の関係であった獲物と老女ヤウリリク一家との関係が、付かず離れずの適度な結合にモードチェンジするのと同じように、もともと過度に結合された獲物と狩猟者の関係であった鹿たちとアイシシュの関係も、過度な結合モードから分離のモードへと転換されたのである。ただしこの分離は「適度な分離」とは言い難く、過度な結合を過度な分離にひっくり返しただけであり、図2でいえば引き続き1)〜3)モードである。
さて、「両眼だけがまだ生きている骸骨」になったアイシシュであるが、ここは神話である。生/死の分節も固まってはいない。ここでなんとヤウリリクの娘たちが彼を献身的に看病しアイシシュは奇跡的な回復を見せる。肉体を復活させたのである。アイシシュは生き返る。
自然と文化を超えるでもなく超えないでもなく
この復活の過程でヤマアラシたちが「彼の周りで踊り、明るい歌を歌っ」てアイシシュを癒したのであるが、復活するや否やアイシシュはヤマアラシを斃して針を抜き、縫い針として二人の妻と義理の母となったヤウリリクに授ける。ヒドい話である!
ヤマアラシたちがじつに可哀想だが、慌ててはいけない。このヤマアラシは私たちが知っているような経験的で感覚的に元に存在するあのΔヤマアラシではなく、神話のトリックスター、両義的媒介項としてのβヤマアラシである。
そしてなぜここでヤマアラシかといえば、ヤマアラシの針は、縫い物や刺繍のための針、つまり自然の産物である糸や布や皮革を文明の道具である衣服やもろもろの用具に作り替えるための、自然と文化を分離しつつも結合し、自然のものを文化のものに変換することを可能にする媒介物なのである。ヤマアラシの針がヤウリリク母娘に授けられるということで、この神話は暗に、自然/文化の分節という、経験的感覚的な現実を起源させるうえで不可欠な分節を区切り出しているのである。
*
文化的生活の始まりからのアイシシュの旅立ち
その後、アイシシュの妻となったヤウリリクの二人の娘は、それぞれ子供を産む。
そしてみんなで集まってヤウリリクの家で暮らした。
アイシシュは義理の弟に鹿狩りの技を教えた。ところで、この鹿狩りはまた、容易く多くの獲物を得るスタイルであり、狩猟者と獲物のあいだの関係が再び過度な結合状態に入ったことになる。
ここで神話のβ脈動のモードは、図2の1)から4)のあいだで行ったり来たりする。
そしてこの後、一挙に図2の5)、6)のモードへと神話の語りは展開する。
アイシシュはかつて、父クムカムチュがアイシシュにワシの巣をあさらせようと登らせた木のことを思い出し、父が恋しくなった。このくだり、他の神話の場合、クムカムチュがアイシシュに樹上の鳥の巣あさりを命じるのは、アイシシュを騙して地上に降りられないようにして、その隙にクムカムチュがアイシシュの妻を奪う、という文脈で語られることもあるのだが、今回の神話の場合は、妻を奪うくだりはもう先に展開されているので、木登り&鳥の巣あさりのはなしが、恋しい父との懐かしい思い出話になっている。
そうしてヤウリリク一家の暮らしがうまくいっており、自分が一緒に暮らしている必要はないと考えると、アイシシュは遠くへ旅立つ(ヤウリリク一家と過度に結合した状態から分離する)ことを宣言する。
しかし、二人の妻、ヤウリリクの娘たちは、この旅についてくるという。しかも子供たちを連れてである。
こうなると、一家でぎゅっと集まって過度に結合したモード(図2の1))のまま固まってしまい、2)→3)→4)と分離と結合の均衡モードへの移行ができなくなってしまう。
神話はどうやってこの過度な結合モードにかたまった一団を分離するのだろうか。
ここで話はまた悲劇へと向かう。
何と、アイシシュの息子、二人姉妹である妻の姉の方が連れていた子供が、まず肉体と魂を分離されてしまう。
アイシシュは深く悲しみ、この子に文化の知恵を教えることができないのならば、もはや自分がこの世にとどまる必要がなくなったと言い、妹の方が連れていた子の生命の息吹までも抜き取る。
ここだけ読むと酷い話だと思われるだろうが、これもあくまでも神話である。この子供達も私たちが知っている経験的に現にリアルに存在する子供ではなく、両義的媒介項、トリックスターとしてのβ子どもである。
Δ肉体 ←β二人の子どもβ→ 魂Δ
そして実はこの事件を通じて、肉体と魂、肉体と精神、体と心の分節が区切り出されているのである。アイシシュが、子供二人の「魂」はアイシシュのものとなり、「身体」は妻たちのものになる、と宣言する。

現世の安定した意味分節システムの設立
分離と結合の動的均衡へ
その上で、アイシシュは「二度と結婚しない」と、つまり神的な結合モード(図2でいう1)〜3)あたりのモードの結合の側面)には入らないと宣言するとともに、β妻たち=ヤウリリクの娘たちを「ユキヒメドリ」に変容させる。
このユキヒメドリは神話的な分離と結合の伸縮の述語的様相の主語の役を引き受ける両義的媒介項ではなく、経験的感覚的に現世に存在するあの、現実のΔユキヒメドリである。
β姉→ Δユキヒメドリ ←β妹
ここでユキヒメドリという項は、神話の論理においては少々興味深い動き方をする。
ユキヒメドリは「寒さや雪から身を守るすべを知らないように見える」とレヴィ=ストロース氏は書いている(クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.91)。「彼らはめったに渡りをせず、冬には、夏に住んでいる山より気温が少し穏やかな近隣に、ときには場所を移すだけで満足している」ようにみえる経験的な様相を呈する。
ユキヒメドリは季節外れのあり方であり、つまり巡る季節の周期的な運動との同期が失調しているあり方を象徴するようにみえるのである。
この失調は、いわば冬なのに夏、夏のまま冬、という様相を作り出す。
一年周期で周回する安定した時間的分節システムにおいては混じり合うことのない反対側の両極を、ひとつに短絡したようなあり方である。
それゆえに、ユキヒメドリはΔ夏とΔ冬を結合したり分離したりできる、両義的媒介項的な働きをΔ分節が定まった後の現世の只中でも演じることができる。前回の記事でも触れた周期性の起源、分離と結合のリズミカルな交代を引き起こす律動、リズムを表現するのがこのユキヒメドリなのである。
*
さらに両義的媒介項としての役割を演じることができるユキヒメドリの、冬になると山の上から麓の方へと降りてくる垂直方向の動きは、「内陸の湖や川と 海岸地帯をつなぐ水平軸に沿って」動くアビと対立するものとして、しばしば神話で比較される(クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.91)。
ユキヒメドリとアビは、その体のサイズの大/小、陸/水に分かれて住む点でも経験的感覚的に明瞭な対立を描くことをレヴィ=ストロース氏は指摘する。
そしてアビは、獲物でありながら反獲物、といった様相で、経験的な二項対立関係のどちらか一方に収まりきらないあいまいさ、動き、振動を体現している。
「アビについては、ふたつの面すなわち夏毛と肉が何よりも強調される。夏毛は、首回りの黒い地の上に白い点があること(図6)が特徴で、心臓の首飾りのモチーフを思い起こさせ、肉は食べることができないと宣告されるもので、そのためにこの鳥は反獲物となる。」
経験的で感覚的な現世に生きる存在者たちが、普段は何であって何でないかはっきりと分別されて固まったΔ項として存在しながら、その動き、それが主語に位置にたちながら動かす述語的様相によって、経験的に分離しているところを結合したり、逆に経験的に結合しているところを分離する機能を果たすことがある。
経験的感覚的にリアルな現世は、一面では確かにかっちりと分別が定まった、それ自体として即自的に安定して自足して存在しているかのようにみえる実体が並べられた場所である。しかしよくよく観察すると現世は動きに溢れている。春が夏になり短い秋を経て冬になったり、昼が夜になり夜が昼になったり、生まれた子供が成長し年老いてやがて死を迎えたりと、経験的に対立する二極の間で一方から他方に移行するような動きに満ち溢れている。経験的世界の安定的な分節体系は、動的な分節システムなのである。
図2の6)でいえば、
Δ/Δ
|| ||
Δ/Δ
の中にある「/」と「=」、つまり結合を分離に転じ「同じだが異なる」にする動き=述語的様相(/)と、分離を結合に転じ「異なるが同じ」にする動き=述語的様相(=)とを、実際に担当する述語と、その述語の主語の位置を担う者が、現世を生き、観察する意識にとっても不可欠なのである。
例えば、上の神話の最後で、この一家のうちアイシシュの義理の弟も「夢のなかでシャーマンに姿を現わす超自然の精霊」に変容する。
この手の精霊も、夢の中という特殊な状況ではあるが、いちおう現世の一端において経験的(感覚的ではなく超感覚的だが)に見たりその声を聞いたりすることができるΔ項ではあるが、同時に限りなく両義的媒介項βに近い動きをする場合もある項である。これは現世の只中において、非同非異を動かす、同じだが異なる(結合→分離)、異なるが同じ(分離→結合)をする述語の主語の位置に立つにはうってつけの存在者である。
ユキヒメドリに、アビに、シャーマンの夢で語る精霊。
こうした項は、それが「然々の精霊です」「あの鳥です、この鳥です」と説明できる局面においては、仮にΔ項の位置に停止して収まっていることもできるし、それが他の経験的に鋭く対立する関係(夏/冬とか、現実/超現実 とか)のあいだの中間領域に挟まると、通常分離されて固まっている二極の間を結合したりまた分離したりする動きを動かす両義的媒介項βの役割を引き受けることもできる。

そして最後に、アイシシュ自身は、引きちぎられて二つに分離したり、何かと結合されたりしてΔ項に変容することなく、「北に向かって遠くに去っ」ていく。
この神話のアイシシュはどうやら引き続き両義的媒介項βのままでいるのだが、もう現世にその姿をそのまま現すことはないのである。
しかしその姿を現さないにしてもアイシシュ自身は、ユキヒメドリが端的に象徴する季節、時間の周期的交代という分離と結合の伸縮と、シャーマンの夢に出てくる精霊が象徴する、この世とあの世の間のコミュニケーションという分離と結合の伸縮、この分離と結合の伸縮の動きがリズミカルに交代するのだという世界が世界として発生することを可能にする根源の秘密を司っているのである。
繰り返すが、図2における6)の様相の、経験的に意味あるリアルな現世の動的意味分節体系が示現した時、確かに6)の渦中から見れば、5)がかろうじて透けて見えるくらいで、4)〜1)はほぼ無意識の深みに隠れて、その動く姿を自覚的に意識することはできなくなってしまう。なんといっても表層意識とは6)の四項関係を最小構成単位として編まれた網(識)なのである。それは自分以外を見ることはできない。なぜなら見る者と見られる者が分離しつつ結合する関係もまた、6)の中で、ΔとΔが/や=で非同非異に分離または結合した様相で静止したものに他ならないのである。

しかしその時、6)の網たる表層意識がいかにすぱっと忘れていても、5)は「ない」ことになったわけではなく、4)も3)も2)も1)も「ない」わけではない。

見えないもの、触れられないもの、前五識や第六意識に引っかからないものは、「ない」のではない。あるでもなくないでもない、あるかないか、どちらか一方を選んでこだわることができない「不可得」なことなのである。

そしてまた、人間の「心」の全体性においては、前五識も第六意識も“つかいよう”である。識を転じて不可得と響きあう智にする。そして特に第七末那識、そして第八阿頼耶識も転じて不可得と響きあう「智」にモードチェンジする。

そうなると心は「マンダラ」状のアルゴリズムで動けるように変容し、ほぼ即身成仏、ということになるのであろうか。
そこまでくると現世で出会うあれこれのΔ一切がそのままの姿で、そのままそのまま、図2の全体の動的構造、アルゴリズムの中で編まれた「法界」そのものであることにも気づける場合がある。
神話の論理に通達することは、このような心の動きの動的な全体性を目覚めさせることであるのだろう。
