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三度の結婚?で意味ある現世を安定させる神々の家族二組 ~あらゆる存在者を発生させる「隠す」「二つに分ける」「一つに結合する」 述語のアルゴリズム -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(112_『神話論理4 裸の人』-9)

    クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第112回目です。『神話論理4 裸の人1』の第二部「こだまのゲーム」を読みます。

    前回の記事はこちらです。

    前々回の記事はこちら。


    経験的な区別が概念の道具となる

    レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。

    「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

    経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?

    まず「経験的感覚的な区別」について。

    仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。下図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

    Δ1 寒い / Δ4 寒くない
    ||       ||
    Δ2 わるい / Δ3 わるくない

    といった具合になる。

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    図1

    私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源

    私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。

    人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。

    Δ自 / 他Δ
    Δ生 / 死Δ
    Δ好き / 嫌いΔ
    Δ因 / 果Δ
    Δある / ないΔ
    Δうまい / まずいΔ
    Δ高い / 安いΔ
    Δ遠い / 近いΔ
    Δ内 / 外Δ

    特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。

    区別があること / 区別がないこと
    分節 / 無分節
    分かれてあること / 分かれていないこと
    分離している / 結合している
    一である / 多である
    同じである / 異なっている
    区別すること / 区別しないこと
    分離すること / 結合すること

    そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、

    結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き

    この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。

    マンダラ

    そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。

    例えば弘法大師空海は『吽字義』で、

    • 因 / 果

    • 有 / 無

    • 損減 / 増益(生/滅)

    • 我 / 非我

    という四つの分別・二項対立と、

    • 因/果を分けるでもなくわけないでもない

    • 有/無を分けるでもなく分けないでもない

    • 損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない

    • 我/非我を分けるでもなく分けないでもない

    という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。

    およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかしこだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)、この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。

    転識得智

    仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。

    特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。

    ここで、人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。

    ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

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    • 「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別

    • 「感覚」:ある/ない、を分別

    • 「感情」:好き/嫌い、を分別

    • 「直観」:現れてくる/消えていく、を分別

    この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
    この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。

    この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。

    • 「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別

    • 「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別

    • 「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別

    • 「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別

    多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。

    この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。

    そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層の固着した様相である。心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。

    この伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。

    *

    神話や夢こそ、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
    夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

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    • 前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ

    • 第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ

    • 第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ

    • 第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ

    この神話と仏教、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。

    マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。

    マンダラは動いている

    この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。

    マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

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    マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

    図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。

    一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。

    両義的媒介項

    両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。

    こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

    そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。

    分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

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    図2


    神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動

    神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

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    1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。

    2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。

    4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

    5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

    「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。

    この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。

    例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。

    「分けるから分かれる」 —意味分節の起源

    空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。

    このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。

    起源神話 —区別があること、それ自体の起源

    神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。

    例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。

    A  /  非-A

    こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。

    そしてこの区別が、神話では、

    結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き

    という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。

    神話の語りを分析する

    私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

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    主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。

    神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。



    *

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    「こだまのゲーム」

    以上を踏まえ、クロード・レヴィ=ストロース著『神話論理4 裸の人』を読んでみよう。

    今回から第二部「こだまのゲーム」に入る。

    前回までは第一部「家族の秘密」、ということで、インセスト・タブーの侵犯であるとか、結婚相手を間違えて義父と結ばれてしまうといった神話をみてきた。そこでは、男/女、老/若、母/子、父/子、父/母ー息子/娘、といった、人類にとって極めて身近な経験的で感覚的な区別をモチーフにして、対立関係にある二極のあいだを引き伸ばして分離したり、縮めて結合したりする動きがありありとイメージできるような具合で語られた。

    上述したように、我々人類にとって経験的に意味ある現実の世界というものが発生してくる(起源する)ためには、対立関係の対立関係としての四項関係を意味分節の最小構成単位として定常的に浮かび上がらせておく必要があるのだが、そのためには図2に示すプロセスが動く必要がある。

    神話はしばしば、何らかの経験的感覚的に定常的に存在するものごとの「起源」を語るという結語に向かう。

    この何らかの経験的感覚的に定常的に存在するものごとというのは図2でいえば「Δ」と表記したものである。

    そして、あるΔの起源とは、Δ四項関係、

    Δ = Δ
    / /
    Δ = Δ

    が組まれる(分離しつつ結合する、分離と結合が均衡する)ことである。

    男/女、老/若、母/子といった形をみていると二項だけの関係に見えるが、実はこういうのはすべて四項関係のうちにある二項である。表にみえている二項の背後に、裏に、底に、別の二項がくっついている。二項だけではお互い同士を「関係」を関係づける(分離しながら結合し結合しながら分離する)ことはできないのだ。ある二項の関係を関係づけるのは他の二項であり、そしてもちろんその第二の二項を関係づけているのは、別の、しばしば第一の二項なのである。

    Δ = Δ
    / /
    Δ = Δ
    という四項関係は、出来合いのΔをどこかから持ってくればあとは並べるだけで作れるといった代物ではない。

    このΔ四項関係は、図2の1)から5)のモードの様相を次々と転じていく動きを通じて、分離と結合の区別さえ分離するでもなく結合するでもなかった絶対無分節の分節から、つどつど明滅するように開いたり閉じたりする事柄なのである。

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    図2

    そういうわけで、何であれ、およそ人間が経験的に、「何かであって、他ではない」と言える何事か(Δ)の起源神話である限り、最終的に析出されるΔが何であれ、Δの四項関係が何であれ、そこに分かれつつつながるように均衡して対峙する主語的なものたち(Δ)がいかに多様に異なっていたとしても、その手前、その下、その底で動くβの脈動は、いつも同じようなマンダラ状にパターンを浮かび上がらせながら脈動しているのである。

    レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

    ここまでの考察から、すべての神話が同じタイプの空間構造を思い起こさせることがわかる。ときに神話は、 その構造をローカルな風景のなかに見いだそうとする。

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.109

    山があり、川があり、湖があり、朝があり夜があり…、という「ローカルな風景」を感覚するとき、経験するとき、私たちの心は(この心は心/身二元論の一方の極としての心ではない。この心は心/身の分節以前の、「/」の動きとしての心である)そこにいくつもの対立関係、二項対立がいくつも絡み合った構造を自動的に(表層の自我意識にとっては自動的に)見出してやまないのである。

    そうなると、経験され感覚されるあらゆる「Δ」は、マンダラ状のパターンを描くような律動を通じて奔り出ることで、起源するものだということになり、山でも川でも湖でも、空間の遠/近でも東西南北でも、天でも地でも、あらゆるΔの起源を語る神話は、いつでもどこでも同じように図2の1)〜5)のモードの間を行ったり来たりしながら様相を変えて、最終的に5)、6)を語ったところで幕を閉じるかたちになる。

    * *

    M546ヤナ族の「アビ女」という神話をみてみよう。

    M546 アビ女ヤナ

    老ジュカすなわち毛虫は、ジグルマトゥ(ラウンド山)の少し東に、多くの息子や、ふたりの娘とともに住んでいた。

    上の娘はツォレジョワすなわちワシといい、下の娘はハカラシすなわちアビといった。

    *

    この下の娘は兄弟のヒツィンナすなわちオオヤマネコに恋心を抱くようになった。彼女は、いつかこの兄弟と結婚できればとさえ夢想した。

    *

    メツィすなわちコヨーテという名のひとりの異邦人もまた、その大きな家に 住んでいた。

    *

    ハカラシが夢想に耽る昼間、男たちは皆狩りに出ていた。
    彼らは夜には帰って来て、翌日には泳ぎに行った。
    ツォレジョワは彼らに蓄えを与えた。
    ハカラシは皆の共同の家の屋根に登り、夫の名を呼びながら歌い始めた。
    彼女が何を言いたいのか誰にもわからなかった、というのも彼女はまだ結婚していなかったからである。
    ヒツィンナだけはオオヤマネコの毛皮にくるまり隅で寝ていたが、ほかの兄弟はつぎつぎと小屋を出て、この若い娘のそばにいって、説明を求めた。
    が、彼女は皆を追い返したので、老いた父は彼女がヒツィンナを求めていることを理解した。


    ーー

    ヒツィンナは身体を洗い、いちばんきれいな服を身につけ
    た。
    太陽は空高く昇り、ふたり(ハカラシとヒツィンナ)はいっしょに出発した。

    かなり歩いたあと、彼らはテントを張り、おたがい寄り添って横になった。
    しかし、ヒツィンナは恐ろしかったので、姉妹(ハカラシ)が眠りにつくとすぐ起きあがり、腐った木片を代わりに置いて逃げ去った。

    夜明けには、彼は小屋にたどり着いた。

    そこに住んでいた父の姉妹、クモのチュフナは、紡いで網をつくりだすことにかけては並ぶものがない名手だった。
    彼女は家と同じぐらい大きなヤナギの籠をもっており、ローブで天蓋に吊るしていた。

    姪が復讐するだろうと察した彼女は、家族全員を籠に乗せ、彼らを天までもち上げようとした。

    コヨーテが最初に乗りこみ、籠の底にすわった。
    大きな家の住人すべてが彼に従った。

    |
    |

    ハカラシが目覚めると、腐った薪が腕のなかにあった。

    怒り狂って、彼女は村に走った。

    が、もう誰もいなかった。
    何か痕跡がないかとむなしく四方を探したあと、目を上げた彼女は、籠が太陽に向かって昇っていくのを見た。

    そこで彼女は小屋に火をつけ、小屋は燃え上がった。

    籠が天に昇り終わる前に、好奇心にかられたコヨーテは覗き見できるようにと、底に小さな穴をあけた。

    すぐに籠は破裂し、乗っていた者たちは皆、燃え盛る火のなかに落下
    した。

    *

    ツォレジョワだけは、最後に乗りこんだので籠の上側にいた。
    そのため彼女は太陽に掴まることができ、命拾い
    した。

    ハカラシは兄弟が火に焼かれるのを見ていた。

    身体はつぎつぎに砕け散り、心臓は空中を飛んでいたので、彼女は竿の先につけた網でそれを捕えた。

    ハカラシは父と長兄の心臓以外は、すべてを捕えることに成功した。

    父の心臓は、飛んで行ってクラマス湖近くの川の真ん中の島に落ちた。

    そこで、心臓はジュカに戻ったが、首まで土に埋まり、頭だけが地面から出ていた。

    もうひとつの心臓はワフカル山(シャスタ山) のふもとにまで飛んで行った。

    そこでも持ち主は最初の姿を取り戻したが、あまりに地面深く埋もれ、顔だけが地上に現われ
    ていた。

    **

    ハカラシは捕えた心臓を集め、糸を通し、首飾りとして身につけた。

    彼女はまず、ジグルマトゥの東の湖水のひとつに居を構えようとしたが、あまりに浅すぎたので、つぎにクラマス湖の北西、クレーター湖に居を定めた。


    *
    *
    *
    *


    (続く)

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』pp.100-104 より

    長い話なので、半分にわけて読んでいこう。

    *

    冒頭、「老ジュカすなわち毛虫」の家族が、ぎゅっと集まって暮らしている。
    多くの息子、そして二人の娘(上の娘はワシ、下の娘はアビ)たちが、集まっている。これは図2でいえば1)の様相である。

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    この凝集しつつも均衡した状態に破れが生じる。
    図2の1)から2)や3)へとモードチェンジする。
    まずもともと凝集し過度に結合していた家族たちのあいだに、さらにより強烈な過度な結合に向かう動きが動き出すのである。
    下の娘アビが、兄弟たちの一人オオヤマネコに恋をして、結婚を願うようになる。

    過度な結合へと向かう動きが動けば、それはただちに、過度な分離へと向かう動きに転じる。図2)は静止したモデルに見えてしまうのであまりよろしくないのだが、図中の ーーー といった線は全てゴム紐とかバネのようなもの、伸び縮みしていると思って欲しい。

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    ここで最初の登場人物四人のセットがクリアになる。

    1. 上の娘:ツォレジョワすなわちワシ

    2. 下の娘:ハカラシすなわちアビ

    3. 兄弟のひとり:ヒツィンナすなわちオオヤマネコ

    4. 居候:メツィすなわちコヨーテ

    この四人が、分離したり結合したり、分離している様相を結合に転じたり、結合している様相を分離に転じたりする動きを繰り広げることになる。

    まず、他の男たちが皆出かけてしまう(分離する)中で、ヒツィンナすなわちオオヤマネコだけが家の片隅で寝ている。そしてその家の屋根の上で、下の娘ハカラシすなわちアビが、兄弟であるヒツィンナのことを「夫」として呼ぶ歌を歌う(結合しようとする)。

    このとき、二人は結婚しているわけではなかったので、独身であるアビが「夫」を呼ぶ歌を歌っても「彼女が何を言いたいのか」他の者には不明であった。ただし、父である老ジュカ(毛虫)だけは「彼女(アビ)がヒツィンナ(オオヤマネコ)を求めていることを理解した」のである。

    遠/近(水平方向の空間の分節を区切り出す)

    父である老ジュカ(毛虫)の指示で、ハカラシとヒツィンナの兄妹?(姉?)は、二人一組で、それまで皆で暮らしていた家族たちの塊を離れ、遠くへ旅立つことになる。

    さて、これはまさかのハネムーンだろうか?!
    少なくともハカラシ(アビ)は、兄であるヒツィンナとの結婚を、父に許されたと思っていたことだろう。

    この時にはまだ。

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    *

    ハカラシとヒツィンナの兄妹?(姉?)は「かなり歩い」て、皆の家から遠く離れた(分離した)地点で、テントを張って野営することになる。

    この動き、この旅。家族の中から二人だけが分離すること。
    これによって水平方向「遠/近」の分節ということが浮かび上がってくる。

    ここまでのところで兄弟とか親子といった言葉が出てくると、聞き手読み手としてはつい、この私たちが日々経験している現世の日常の三次元の時空の「中」の話であると理解してしまう。しかし実は、この神話のこのくだりでは、まだ経験的な分別、分節システム、図2の6)のモードは定常化していない。つまり三次元の時間も空間もまだない、というかあるようなないような、あるでもなくないでもないモードなのである。

    そしていよいよ過度な結合、「おたがい寄り添って横にな」るのであるが、この過度な結合が、一挙に過度な分離に転じる。

    寄り添って横になるやいなや、ハカラシは眠ってしまう。

    そしてハカラシが眠っている隙をみて、ヒツィンナは逃げ去る。

    自分の代わりに「腐った木片」をハカラシとの寝床に残してである。

    二人一緒の寝床に入り、あわやインセストタブーを侵犯する過度な結合か?!と思わせつつ、片方が寝ている間にもう一方が逃げ去って、一挙に激しく分離する。

    過度な結合から過度な分離へ、分離と結合の伸縮が見事である。

    天/地(垂直方向の分節を区切り出す)

    家に逃げ帰ってきたオオヤマネコ=ヒツィンナの姿を確認すると、一族は、父(毛虫)の姉妹である「クモのチュフナ」が紡いだ網(ヤナギの籠)を使って「天まで」上昇を開始する。

    愛する兄弟に裏切られたハカラシが、怒り狂って復讐にくることを予測し、家のものみんなで天上に隠れておこうというのである。

    籠には家の者、全員が乗り込む。
    一番最初にのって、籠の一番底に陣取ったのは居候の「コヨーテ」だった。

    *

    皆は順調に上へ上へ、天へ天へと上昇していく。


    そこへ、父(毛虫)の予見通り、ハカラシが怒り狂って戻ってくる。
    ハカラシは家がもぬけの殻であることを確認し、水平方向を四方探し回る。しかし家族たちは見つからない。
    そしてついに、垂直方向に視線を転じて、上の方を見る。

    ここで空間の、垂直方向、水平方向を切り分ける動きに注目しておこう。
    これが空間を分節する動き、遠/近、上/下、左/右といった分節システムをあるでもないでもないモードから「ある」のモードに転じる動きである。

    そしてハカラシが上空を見上げると、「籠」が太陽に向かって上昇している。

    ここで「太陽」が出現している。

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    天/地をつかずはなれずに

    ハカラシは地上と上空の籠を分離したまま結合する媒介項として「煙」を利用する。小屋を燃やし、その煙は上昇し、籠まで届く。

    ここで、籠の一番底にいるコヨーテは、外の様子がわからない状態で、籠目の隙間から入ってくる煙の匂いにさぞ驚いたことだろう。

    外が起きているのか気になって仕方なくなったコヨーテは、状況を確認しようと、籠の底に「穴」を開けてしまう!

    穴は、分離されている二つの領域を、一つに結合するインターフェースである。

    煙と穴、β煙とβ穴

    これによって、籠が持ち上げられることによって分離された天/地のあいだは、また結合されることになる。経験的感覚的な図2の6)のモードの「天地」分節を確立するためには、天地の間は分離されすぎてもいけないし、結合されすぎてもいけない。地上から天へと昇りすぎたとなれば、今度は天から地上へと降下させないといけない。

    このコヨーテが開けた穴から、籠は破れて、ばらばらになり、籠に乗っていた家の者たちは、上の姉ツォレジョワ(ワシ)を除いて、皆、天から地へと落下していく。

    下から上へ、昇っているかと思えば降りて(落ちて)いく。

    上下方向での、天/地の二極のあいだでの分離と結合の伸縮である。
    地上から分離し天と結合したかとおもえば、天から分離し地上と結合する。

    図2でいうと3)のモードから4)のモードへの展開が動き始める。

    さて、この落下の過程で、上の姉ツォレジョワ(ワシ)だけは、落下を免れ「太陽」に掴まって、天にとどまることができるようになった。つまりこの時点で、家族たちは手を伸ばせた太陽に届くほどの、とんでもない「高さ」にまで上がっていた=地上から過度に分離していたのである。

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    一方、その高さから地上へと落下した家族たちは、それぞれ「砕け散」る。
    砕け散って心臓も飛び出して空を舞う。
    経験的感覚的な図2の6)の世界ならば、空から落ちてきたものはバラバラと地上に散らばることになるのだろうが、ここはまだ図2の4)あたりの世界である。β家族たちは心臓だけの姿になって、空を飛び回る。もちろんその空は、太陽ほどの高さ=遠さではなく、網で捕まえられる程度の低さ=地上への近さである。

    バラバラになるとか、心臓だけになるとか、酷い話だと思われるかもしれないが、これは図2で言えば、両義的媒介項βであったこの家族たちがΔ項に分離するということに他ならない。

    Δ ← β → Δ

    ここで「空飛ぶ心臓」は引き続きβ、両義的媒介項である。

    ここまで親とか子とか、兄とか妹といった経験的に知られた言葉で語られてきた登場人物たちであるが、そもそも彼ら彼女らは「毛虫」だったり、「コヨーテ」だったり、人間ではない。しかし人間ではないが人間のように家族を作って村で家を建てて暮らし、火を使ったりしている。

    人間/動物

    この経験的区別を短絡した両義的媒介項が、この家族たちなのである。

    Δ人間→ β ←Δ動物

    こういう家族たちの間で、家族のメンバー間のすれ違いやぶつかり合いといった過度な分離をする動きや、過度な結合をする動きが語られる。両義的媒介項が過度に結合したり過度に分離したり、図2の1)〜3)の様相から4)への展開である。家族関係というのは、分離と結合の激しい伸縮を語り、イメージさせ、象徴する上でもっとも手頃で身近な、誰もが納得できる実例なのである。実地の経験的な分離と結合をありありと想起させることは、聞き手の心の底、無意識の深みで、図2に示したマンダラ状のパターンを動的に生成するプロセスをしなやかに起動させるトリガーになる。

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    網で捉えて首飾りに

    飛ぶ心臓に変容したβ家族たちは、このあとも語りの中で、分離と結合を伸縮させる述語的様相の主語の位置を引き受けることになる。β飛ぶ心臓たちはハカラシに「網」で回収され、紐を通されて輪っかに、首飾りにされる。

    β
    β    β
    β

    ここで家族たちはまたぎゅっと凝集して図2でいうと1)のモードに成っているが、これは神話の語りの冒頭の1)のモードとは似て非なるものである。冒頭の1)はより激しく動き回る余地に開かれ得ていたのに対して、首飾りにされた1)は激しく動き回ることができない。これは要するに、一見すると1)のようであるが、すでに4)の準備、仕掛かりが進んでいるモードだということになる。

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    空間の分節の確定(図2の6))

    ところでこのβ飛ぶ心臓たちのうち、「父の心臓」と「長兄の心臓」だけは、首飾りにされることなく、遠くまで飛んでいって、それぞれ地上に落下する。ちなみにこの長兄というのが、くだんのオオヤマネコであるらしい。

    その落下地点は、父のβ心臓が「クラマス湖近くの川の真ん中の島」で、兄のβ心臓「ワフカル山(シャスタ山) のふもと」であった。

    クラマス湖から見てシャスタ山は南南東の方向にあり、シャスタ山から見てクラマス湖は北北西の方向にある。

    Δ 
        十
           Δ

    山と湖(高地と低地)、東と西、北と南。
    見事に三次元空間の分節が定まっている。

    おもしろいのは、彼らの落下地点が完全な東西南北のいずれかの地点ではなく、東西軸、南北軸から微妙にずれた、南南東、北北西であるということだ。東西南北がΔだとすれば、南南東、北北西は相対的にはβである。

    かれらの両義的媒介項らしさは他の姿でも表現されている。

    この地上に落ちた「β飛ぶ心臓」は、飛ぶ心臓の姿であることをやめて、もともとの「最初の姿を取り戻した」とあるが、同時におもしろいことに「あまりに地面深く埋もれ、顔だけが地上に現われてい」る状態になる。

    Δ(顔だけ):地上
    ↑
    β(飛ぶ心臓=人間である毛虫)
    ↓
    Δ(顔から下):地下

    ここまでのところで、老ジュカは一貫して両義的媒介項β、つまり経験的な現世の分別を超えた、経験的な分別が対立させる二極を一つに結合したような存在であった。かれは「毛虫」でありながら人間のように家に暮らし、家族を狩猟に行かせ、娘の結婚に口出しをしたりしている。普通の毛虫はそういうことはしないだろう(そもそも毛虫が老人であるというのが経験的にはおかしい。毛虫はチョウの幼虫である)。老ジュカは、老/若、人間/動物、といった経験的な対立関係を不可得にする両義的媒介項そのものである。

    この老ジュカは、飛ぶ心臓に変容するが、飛ぶ心臓もまた両義的媒介項である。

    それが地上に落下して、もとの姿に戻るのだが、その時に「顔だけ」が地上に出て、顔から下が深く地下に埋まった状態になる。

    これは老ジュカの全体が、地上と地下、二つの領域に分離された、ということである。

    神話の語りでは、図2の6)にあるように、両義的媒介項βを引き延ばして、二つのΔにぷちんとちぎるということがなされる。

    Δ / Δ 
    ↑  ↑ 
    β / β
    ↓  ↓
    Δ / Δ

    もちろん、この神話のこの時点では、老ジュカはプチンと二つに分離してはいないで、いまだに一体的、単に長く伸びたβのままである。つまり図2の6ではなく、5)なのである。

    ここで「長兄の心臓」も全く同じ動きを空間的に老ジュカと対立する地点で引き起こす。父と長兄がセットになって同じ動きをすることで、βが引き伸ばされて、いよいよΔが生じ、それぞれ対立関係を組む相手を持てるようになる。とてもよくできた神話である。

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    経験的に意味ある現実のはじまり

    さて、引き続き飛ぶ心臓のままの家族たちを首飾りにして捕らえたハカラシは、右往左往した挙句、つぎにクラマス湖の北西のクレーター湖というところに一旦落ち着く。

    ここで神話の続きをみてみよう。
    この神話の語りはまだまだ続く!

    (つづき)

    ツァヌネワ(漁をする鳥の名である)の二兄弟は、年老いた祖母といっしょに、そこ(ハカラシの移住先)からそれほど遠くない場所に住んでいた。

    カモを狩っているとき、兄弟はハカラシが水から身をもたげる姿を見たり、その音を聞いたりした。

    *

    そのあいだ、空から下ったツォレジョワは、皆の共同の家が建っていた場所に、灰と骸骨だけが残っているのを見つけた。
    彼女は喪に服し、それから妹(ハカラシ)を捜し始めた。
    彼女はいたるところを探しまわり、クラマス湖にまで行き、最後にツァヌネワ兄弟の家に行って話をした。

    **

    彼らは、彼女にカモをごちそうし、殺人者がどんな様子をしているのかを話させた。

    そうして、湖の女がその話の人だとわかったので、その女を捕えようと申し出た。

    ツォレジョワは彼らに毛皮とビーズを与える約束をし、結婚してもいいとまで言った。

    しかし、彼らは彼女からは何も望まず、矢じりをつくるために、シカの緑と赤の色をした骨がほしいとだけ申し出た。

    そこで、彼女は山に その骨を探しに行った。
    兄は赤を選び、弟は緑を選んだ。
    この色の違いは長い骨の周囲についている脂肪の差から来ている、との注解もある。

    兄弟は、夜明けに湖に到着した。
    彼らは魔法を使って小さくなり、アシの茎でつくったきわめて小さな二隻の カヌーに乗り込んだ。

    **

    ハカラシが現われたとき、おたがいにはじめから言っていたとおり、ふたりとも矢で彼女の心臓を射抜くことはできなかった。
    しかし、彼らは彼女の首とわきの下を傷つけた。

    少したって、ハカラシは 水面に浮かび上がって死んだ。
    *
    彼らは、自分たちの小屋の近くまで死体を引っぱって来た。

    皆が夕食の魚を食べ終えると、彼らは、狩りの獲物を見てきてごらん、と無造作にツォレジョワに言った。彼女は、それが妹だとわかると、自分の服を脱ぎ、上着で死体をくるんだ。
    そして彼女は心臓を数えた。父と長兄のが欠けていた。

    *


    ツァヌネワ兄弟は彼女に、遠く北の方でときどきうめき声が聞こえると教えた。ツォレジョワはそちらの方角に急いだ。

    すぐに、彼女は父の声を認めた。左右を見わたし、愛しい頭部を見つけると、熱に浮かされたように 猪槍で土を掘り、とうとう身体全部を掘り出した。ジュカにはもう骨しか残っていなかった。
    彼女はそれをシカの皮で包み、もとの場所に戻って妹の死体ももつと、このふたつの荷をジグルマトゥの東の昔の村にまで運んだ。 そこでふたつの身体を安全な場所に置くと、兄弟を捜しにふたたび出発した。


    *
    **
    *


    シャスタ山のふもとにはジャムカすなわちドングリ虫という男が、妻やふたりの娘とともに住んでいた。

    娘たちがある日、木ぎれを集めていると、どこからか歌が聞こえてきた。
    つぎに木切れを集めに行ったときには、妹が、地面すれすれに泣きぬれた人間の頭部を見つけた。
    それは汚れて醜かった。

    姉妹は、二日間土を掘り、とうとう男をまるごと掘り出した。

    彼にはもう骨しか残っていなかったが、彼女たちは彼を自分たちの上着でくるむと、 オオヤマネコの毛皮を探しにいった。

    ふたりから掘り出したものを教えられ、父は、これは自分も聞いたことのある大虐殺の生存者かもしれないと考えた。

    そこで彼は、この男を丁重に扱うようにと娘たちに言った。

    毛皮を もって戻ってくると、彼女たちは男の眼から小川が流れ出しているのを見た。

    シカが近くの高地からそこに水を飲みに降りて来ていた。

    毎日毎日、姉妹は保護した男に食物を与えた。

    夜はいつも、そのそばで眠った。

    彼は健康を回復していったが、 絶え間なく泣きつづけ、シカが彼の眼からほとばしり出る水を飲みに来た。

    彼は話せるようになると、弓矢を求め、ふたりの看護人を追い払った。

    たった一夜のあいだに、彼は自分の涙を飲みにきた四頭のシカをつぎつぎと殺し、つぎの夜にはさらに多くのシカを殺した。
    若い娘たちは恐れをなしたが、父は大喜びだった。
    彼は獲物の皮を剝ぎ、肉を乾かした
    。

    主人公は、完全に回復すると、新しい家族のもとで暮らすようになった。

    彼はもう泣かなくなったが、彼があれほど多くの涙をながした場所には塩分を含んだ泉が湧き出していた。泉は今でもそこにあって、シカの群れが水を飲みにやって来る。狩人たちは待ち伏せし、ジュカの息子(オオヤマネコ)のように、そこで多くの獲物を殺す。

    ===

    ツォレジョワは、兄弟を捜して小屋から小屋へとさまよったあげく、とうとうジャムカの家で彼を見つけた。
    彼の境遇に安心し、幸せに結婚したことも知ったので、彼女は自分の村に戻った。

    彼女は一夜にして広大な住居を建て、水の漏れない大きな籠を編んで、それを水で満たした。つぎの晩、彼女はそのなかに、あらかじめ死体から抜き取っておいた妹の心臓といっしょに皆の心臓を置き、焼けるように熱い石を入れた。水が沸騰しはじめると、彼女は籠にふたをし、それを小屋の屋根に置いて、それから眠った。

    夜明けとともに籠はひっくりかえって一群の人々を吐き出した。
    彼らは震えて、戸口に急いだ。ツォレジョワ は皆をなかに入れ、兄弟と、つぎに妹を認めた。

    妹にもはや邪悪なところはなく、心は清められていた。
    ツォレ ジョワはここにいない兄の消息を伝え、男たちは普段の仕事に戻った。

    **

    ある日、ジャムカは婿に、妻たちを彼の親族に紹介しに行ってはどうかと言った。

    息子を見るとすぐに、老ジュカは彼を大きな毛布に閉じこめ、隠してしまった。
    兄弟のうちふたりが彼の妻たちを自分のものにした。
    もうけっして、彼女たちが最初の夫を見ることはなかった。
    というのも、ジュカは彼をウェアンマウナ/weänmauna/ すなわち隠された子にしてしまったからである。

    贈り物をもって父のもとを訪れたとき、彼女たちは自分たちの境遇を話した。

    「それでみんなうまくいってい るんだよ」と父は言った
    。

    「義父さんは彼をこの世から隠してしまったけれど、その兄弟はおまえたちにとって同じぐらいよい夫なのだろう」。

    ふたりはそれを否定せず、それからはジュカの家で暮らした。

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』pp.100-104 より

    さて、β心臓家族を首飾りにしたハカラシの移住先の近くに「ツァヌネワの二兄弟」が「祖母」と暮らしていた。

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    この兄弟たちの家に、太陽に掴まって難を逃れたツォレジョワが、ハカラシを探してやってくる。

    1. ツァヌネワの兄

    2. ツァヌネワの弟

    3. 彼らの祖母

    4. ツォレジョワ

    この四人が一つ屋根の下に暮らすことになる。

    この四人、一見するとΔ四項関係の均衡した姿と見紛うが、兄弟たちがお互いに区別がつかないほど同じような存在であること、つまり強く結合しているのに対して、両親がなぜか居らず、一世代あけた「祖母」が一つ屋根の下に暮らしている。ここは経験的な親/子の関係に対して、相対的に強く分離している。

    そしてツァヌネワの二兄弟は、いつもカモ猟の際に見かけるアビ(「湖の女」)がハカラシであるらしいことに気づき、これを狩ってくるとツォレジョワに約束する。対するツォレジョワは兄弟たちとの結婚を申し出るが、しかし兄弟たちは結婚を断り、代わりに狩の道具の材料を求めた。経験的によその家の者である男/女が一つ屋根の下に暮らす場合によくある関係である「結婚」と比べると、彼らのあいだの同居しながらも狩の技術的支援をするにとどまる関係は、相対的に分離したものである。

    四人家族のあいだが、経験的な親/子、夫/婦といった関係よりも相対的に強く分離した関係と相対的に強く結合した関係で結ばれている。つまりこの四人家族の関係は四者の距離が均衡した正方形ではなく、

         β
       |
     |
                β  ーーーーーー  β
    ||
    β

    このような具合に歪んだ四角形になっている。

    そしてこのくだりでは、まだアビであるハカラシが「人間の女」でもあったり、ツァヌネワの兄弟が魔法で非常に小さくなって葦のストロー状の茎でつくった船の中に乗り込めたりと、人間/動物、大/小、といった、経験的にははっきりと分かれて両極が混じり合わないようになっている二極の間がくるくると入れ替わったり、どちらがどちらかわからないような、不可得な様相になっている。

    つまり彼らは両義的媒介項であり、経験的で感覚的な我々に馴染み深い存在者たちΔではない。

    これは図2で言えば、4)のモードである。

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    さて、魔法で小さくなった兄弟たちのアビ猟は成功する。
    いや、当初の計画通りに「心臓を射抜く」という方法は失敗したのだが、矢の当たりどころは異なるものの、狩ることには成功する。
    失敗だが成功、成功だが失敗。
    ここでも不可得感が全面に際立つ。

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    さて、矢で討たれた妹ハカラシが斃れているのを、姉ツォレジョワは確認する。そして妹の首にかけられているβ家族たちの心臓を集めて連ねた首飾りを回収する。

    β
    β  β
    β

    ところがこの首飾りに、父ジュカと長兄(オオヤマネコ?)の心臓が、欠けていることに気づく。ツォレジョワは、「遠く北の方」で聞こえるという謎の声のことを兄弟たちから聞き、それが父あるいは兄であると察して、救出へと向かう。

    両義的媒介項たちを回収してまわる

    そうしてまず父、毛虫のジュカが地面から顔だけ出して、あとは埋まっているのを見つける。

    ツォレジョワは父の埋まっている身体を掘り出す。

    体はもう骨になっていたが、この骨はβ骨である。
    生/死の対立もまだ分けられていないのである。
    ツォレジョワは父の骨をかつての居住地に持ち帰り、討たれたハカラシと一緒に安置した。
    そして残る最後のひとりの兄弟を探す旅に出る。

    現世における狩猟の場を設立

    さて、ここからまた別の家族の話になる。

    長兄(オオヤマネコ)の心臓が落下して、顔だけだして地下に深く埋まった地点の近くには「ジャムカ(ドングリ虫)」という男とその妻、二人の娘が住んでいた。

    ジャムカの娘たちは、顔だけ出して土に埋まっていたオオヤマネコを発見し、掘り起こして救助する。

    オオヤマネコはこのあと、このジャムカの娘たちと結婚することになる。実の妹のハカラシではなく、よその家族の娘たちと結婚するのである。

    さて、掘り出された時、オオヤマネコももうすでに骨になっていたが、これもまたβ骨である。「汚れて醜」い姿のオオヤマネコを、ドングリ虫の娘たちは手当し、そして「オオヤマネコの毛皮」でくるんで癒した。

    そして不思議なことに、復活している最中のオオヤマネコは涙を流し続け、その溢れた涙は、ついには小川をそして湖、塩湖を形成するに至る。

    この塩湖は現世、経験的で感覚的な現世に存在するΔであり、現実そこはΔ山の鹿たちが塩を舐めにくる場所になっており、現実のΔ狩猟民たちがΔ鹿を待ち伏せて狩猟する狩場になった。

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    結婚と、結婚相手の変更

    さて、回復したオオヤマネコは一旦は、ジャムカの娘たち二人を追い払う(看病のために結合していたところを、一旦、分離に転じる必要がある。図2の4)なので)。しかし追い払いつつも当の娘たちから狩の道具である弓矢を得て、まず四頭、翌日にはまた多くの鹿を狩猟した。そうして「皮を剝ぎ、肉を乾か」す、という、自然のものである生の鹿の肉体を、文化のものである衣服の材料と食べ物へと変換するわざを起源させた。図2の5)の様相である。

    そうしてオオヤマネコはジャムカの家族たちと一緒に暮らすことになった。二人の娘と結婚したのである。よく確認しておこう。夫であるオオヤマネコは「一人」であるが、妻は「二人」である。

    男女が一対一である結婚に比べると、相対的にこのオオヤマネコとジャムカの娘たち二人の結婚は、少々アンバランス、不均衡である。

    *

    さて、長兄オオヤマネコがそのようにしてジャムカの家で暮らしているのを知ったツォレジョワは、その幸せな結婚の様子に安心し、兄を連れて帰ろうとはせず、自分だけ、もとの家があった場所に戻った。

    もとの家は、妹ハカラシによって焼き払われており、灰燼に帰していたわけであるが、ツォレジョワは「一夜にして広大な住居を建て」る。そして「水の漏れない大きな籠を編」むと、そこに家族たちの心臓(オオヤマネコ以外の家族たち。他ならぬハカラシも含む)や骨を水と一緒に入れ、熱した石を放り込む。煮込みである。

    家族のβ心臓やβ骨が煮込まれているのを確認すると、ツォレジョワは籠に蓋をして、家の屋根の上におくと、そして決して開けて中身を見ないように、家の中で一晩中眠る。

    これは煮込みであるが、煮込み籠が屋根の上という通常の地表の調理場とは「逆」に対立する場所に置かれていたり、一晩中蓋を開けられずに放置される(煮過ぎになるか、あるいは冷めて食べにくくなるか)いずれにしても通常の料理からは少し「ずれた」あり方になる。

    そして夜明け。

    屋根の上の籠はひっくり返り、中から家族たちが復活して飛び出してくる。

    復活早々、夜明けの屋根の上に放り出された家族たちは、寒かったので、家の中に入ろうとする。家の中にはツォレジョワがいて、扉を開けて皆を迎え入れた。もちろんこのときハカラシも一緒に復活したが、復活したハカラシは「邪悪なところ」がすっかりなくなり「心は清められていた」という。つまりもうオオヤマネコに執着することがなくなったということである。

    そうして彼らは、また昔のように皆で暮らし始めた。

    生/死も転換するほど激しいβ脈動のはてに、βの伸縮は減衰し、つかず離れずの均衡の様相が出てきたのである。

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    *

    二つの家族のあいだの往来(図2の5))

    ここで二つの「家族」が成立していることに注目しよう。

    • オオヤマネコが婿入りしたジャムカ(どんぐり虫)の家族

    • 老ジュカ(毛虫)の家族

    この二つ、Δ人間→β←Δ動物 たちの家族の関係が均衡した時、図2の6)モード、即ち現世の意味ある世界が一挙に分節することになる。

    *

    さて、老ジュカ一家の復活を聞いたジャムカ(オオヤマネコの婿入り先の義理の父)は、婿であるオオヤマネコに、二人の妻たち(ジャムカの娘たち)を紹介しにいくようにいう。

    二つの家族の間で往来が始まるのである。

    ここで不思議な展開が起きる。

    老ジュカは、オオヤマネコが二人の妻を連れてやってきたのをみると、大急ぎでオオヤマネコを毛布に包んで、閉じ込め、隠した。

    またハカラシが、あらぬのぞみを抱かぬようにしたのであろうか。

    図2でいえば、4)の様相と5)の様相の間で、分離と結合が振動し続けている。

    そしてこれ以降、神話の冒頭からβ伸縮の激しい述語的様相の主語の位置を一貫して引き受けてきたβオオヤマネコは、もう二度と、姿を現さないことになる。両義的媒介項βが、順番に消えていくのである。

    両義的媒介項の消え方にはいくつかパターンがあって、一つは今回、オオヤマネコが包まれて埋められて隠されるように、βがβのまま、その姿が二度とこの現世に現れてこないようにすること。

    もう一つはβを長く引き延ばして、

    Δ ← β → Δ

    という具合に、二つのΔに切り分けてβでなくしてしまうこと。

    あるいは

    β → Δ ← β

    という具合に、二つのβを結合して、一つのΔにすること。

    こうしたパターンで、β脈動するモード(図2の1)〜5))を現世の背景に隠して、Δだけが並んだ現世、図2の6)のモードだけが意識される世界を作るのである。

    この神話の分離と結合を最初に起動したインセスト・タブーの侵犯と同じこと(図2の2)〜3)あたりのうごき)は、オオヤマネコが永久に隠されたことで、もう生じないことになった。

    ところが、そうなると困るのはオオヤマネコが連れてきた、その妻、ジャムカの娘たちなのであるが、ジュカの自分の息子たちのうちから二人選んで、それぞれ嫁がせた。一夫二妻の組み合わせだったところが、二組の一夫一婦の夫婦ができたことになる。

    そうしてジュカはジャムカの娘たちに土産を持たせ、夫が替わったこと、二人の娘それぞれが夫を得たことを伝えさせる。

    ジャムカの娘たちは、オオヤマネコが隠されてしまったことについて釈然としないようだが、ジャムカはむしろよかったよかったと、「それでみんなうまくいっているんだよ」という。夫が義父に捕まって監禁され、代わりの息子たちと結婚することになって、娘たちからするとなにがうまくいっているのかと言いたくなるところであるが、じっさい、とてもうまくいっている。なぜならこのオオヤマネコから二人の兄弟への夫役の交代によって、つぎのような関係ができたからである。

    ジュカの息子1 β → Δ ← β ジャムカの娘1
    ||
    (兄弟 / 姉妹)
    ||
    ジュカの息子2 β → Δ ← β ジャムカの娘2

    ジュカも毛虫、ジャムカも芋虫?であることを思い出そう。
    かれらは両義的媒介項βなのである。

    両義的媒介項どうしが結婚することでβ→Δ←βというパターンで、図2の5)、Δの析出が可能になる。この神話の場合、兄弟姉妹であるという関係によって、そうして生まれたΔが二つ、非同非異の関係で(=/=)付かず離れずにもなれる。見事な図2の5)の表現である。

    ようするに神話でいう「うまくいっている」というのは、過度に分離する動きや過度に結合する動きが生じないことによって、付かず離れずの四項関係(βのつかずはなれずの四項関係であり、つまり同時にΔの四項関係であり。図2の5)にして6)である)が壊れずに持続できているということなのである。

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    最後のジャムカの言葉が印象的である。

    「義父さんは彼をこの世から隠してしまったけれど、その兄弟はおまえたちにとって同じぐらいよい夫なのだろう」

    同じくらい。同じではないが、同じくらい。
    非同非異ということである。
    非同非異は図2における「=/=」である。

    そして良い夫。

    夫/婦、男/女、そして、ジュカの家/ジャムカの家。

    経験的に対立する二極のあいだが、付かず離れずに分離しつつ結合し結合しつつ分離して、Δ四項関係

    Δ=Δ
    / /
    Δ=Δ

    を均衡させつづけることができているならば、この分離と結合の均衡モードこそが神話にとって安定的に現存し続ける現世の起源を語り切ったことになり、つまり「よい」ことになる。

    こうして、なるほど夫が替わったが(主語的な項の中身はチェンジされたが)、分離と結合を均衡させる述語的様相としての関係自体は前よりもさらに均衡したものになった。二つの家が、それぞれ二人の娘、二人の息子を出し合って、二組の夫婦ができ、その二組の夫婦が贈り物を持って二つの家のあいだを行ったり来たりするようになったのである。

    主語が何であるかに拘らず、述語の伸縮の均衡を旨とする。

    主語の位置に収まるものが何であるのかには拘らず、分離する述語と結合する述語との交代、伸縮が均衡し付かず離れずの関係が保たれることをよしとする。いや、細かく言えばよしとするというか、よしあし、善悪の分別の問題というよりも、神話が仮にも所与のリアルに意味ある世界(それがさまざまな立場から見て良いものであるか悪いものであるかは一旦置いておいて)の起源、そこに意味分節システムが示現するに至っていることを言語とイメージで持って意識に自覚させようとしているものである限り、伸縮が均衡し付かず離れずの関係が保たれるモードが律動するところで、神話の語りはもうそれ以上なにもいうことはなくなるのである。


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    つづく




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    意味ということの謎に憑かれ濫読の途上で博士(学術)号取得。コミュニケーションを考える法人の代表兼大学非常勤講師。主な業績はコロナ禍の遠隔授業を乳幼児2名在宅中に実施したこと。高専出身柔道初段 https://note.com/way_finding/n/n5af3a19375b7

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