
天体運行、時間、昼/夜の交代という周期性のある動的分節システムの起源を語る -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(110_『神話論理4 裸の人』-7)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第110回目です。『神話論理4 裸の人1』の第一部「家族の秘密」を読みます。
前回の記事はこちらです。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。

経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?
仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。図1のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。

私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。
マンダラ
そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。
例えば弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。
およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかしこだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)、この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。
転識得智
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。
特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。
ここで、人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層の固着した様相である。心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。
この伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
*
神話や夢こそ、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
この神話と仏教、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。
マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。
マンダラ
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。
一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。
両義的媒介項
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。
分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動
神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。
2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。
4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。
例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。
「分けるから分かれる」 ——意味分節の起源
空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。
このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。
起源神話 —区別があること、それ自体の起源
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。
そしてこの区別が、神話では、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。
神話の語りを分析する
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。
以上を踏まえ、 『神話論理4 裸の人』から、M541 モドック アイシシュの武勲詩、という神話をみてみよう。

M541 モドック アイシシュの武勲詩
むかし、クラマス湖の南岸に五人の兄弟と住んでいる若いインディアンの女がいた。
彼女はラトカカワスと呼ばれていた。(※ラトカカワスは五人の妹である)
毎日兄弟たちは湖の中央にある島の近くへカヌーで漁に行った。
ラトカカワスは兄弟のために食事の準備をし、野生の種を集めるため以外には住まいを離れなかった。
彼女が働いている時には、老女に見えたが、「彼女が身体をふるって家から出ると、若く、青く、うっとりするほど美しく見えた」。
*
大いなる老人クムカムチュ(モドック語ではクムシュだが、クラマス語の名前を使いつづけることにする)は湖の東岸に住んでいた。西岸に住むたくさんのインディアンたちは、背中の曲がった老女の姿を捨て去ったときのラトカカワスの美しさに感嘆していた。
この村の若い男たちは、ひとりまたひとりと不意を突こうとして、家にたどりつくと家のなかには老女がいるだけだったので、がっかりして老女をさんざんからかうのだった。
* *
女主人公の兄弟は、日中サケを捕えて干した。
彼らは夜に帰ってきた。
ある晩、彼女は長兄に、男たちが訪ねて来て彼女を困らせるとこぼした。
長兄は彼女が野生の種を集め終わったら、誰にも悩まされない島に連れて行くと約束した。
ーー
湖の西側に、あまりに美しいので父親が籠に入れて地中に隠していた若い男も住んでいた。村の若者たちがすべてラトカカワスに近づくのに失敗したとき、若者は隠れ場所から連れ出され、すばらしく美しい衣装を着せら れた。彼は「空の雲のように青、金色、緑で」、その美しさは想像を超えていた。彼は魔術の力を与えられたので、 地下を進んで日の出にやっと彼女を不意打ちすることができた。ラトカカワスは彼がそこにいるのを知り、気に入ったので老女の姿をとらなかった。しかし、彼らは一言も言葉を交わさず、ラトカカワスはその出来事を兄弟たちにこと細かに語った。
*
兄弟は島への移転をつぎの日に早めることに決めた。
日没までに、彼らは二匹の大きなサケを捕まえていた。
彼らは明け方に出かけ、サケをさばき、そのあいだに荷物の用意をしていた妹を連れに戻るつもりだった。
しかし、彼らが出かけるやいなや、西からの訪問者(※籠に隠されていた若者)が現われた。彼は、まばゆいほど光り輝いていたので、少女は目がくらんだ。
午前中に兄弟たちが到着し、家を取り壊し始めた。
ラトカカワスがその上を進めるように、正午に彼らは家からカヌーまで筵のマットを敷き渡した。
船に足を踏み入れたとき、訪問者についても、彼(※籠に隠されていた若者)にいだいた恋についても、すべての記憶を彼女は失ってしまった。いっぽう、姿は見えなかったが、彼(※籠に隠されていた若者)はそこにいて、カヌーをおさえていた。
午後のなかごろまでには、兄弟は無駄な努力に疲れ果てていた。
最後に、若者(※籠に隠されていた若者)は彼らを出発させた。 しかし、愛した人の姿をまだ見ていたくて、彼は、サケの姿をして、彼らの後ろを泳いだ。
彼女(ラトカカワス)は兄弟のひとりといっしょにカヌーの中央にすわっていた。
兄弟のうちふたりはカヌーの舳先に、ふたりは艪にすわっていた。
漕いで行く間に、兄弟のひとりが、青、金、緑のすばらしいサケを見た。
彼はそれに銛を刺し、カヌーに引き寄せた。
カヌーに上がるやいなや、魚は若者に変身したが、すぐに息を引き取った。
ラトカカワスは泣き崩れ、兄弟を非難した。
彼らは申し訳なく思って、ビーズと筵の捧げものとともに遺体を薪の上に載せて火葬した。
ーー
灰のなかから彼らは空の太陽のように輝く円盤を取り上げた。
ーー
それは若者の頭蓋冠だ った。「それをクムカムチュのところにもって行け」。サケを殺した兄弟は妹に言った。「彼はニフラスキの蒸し風呂のなかにいる。彼なら、生き返らせるのに髪の毛一本で十分だ」。
ラトカカワスは円盤を胸にしまい、兄弟たちに頭掻き(服喪儀礼については『食卓作法の起源』五八二—五八四 頁参照)を与えた。そして、彼女が夫と呼ぶ人を造化の神が生き返らせてくれないかぎり、二度と戻ってこないつもりで出発した。
彼女は一日中進み、夜が来るとコフスキャで野営し、明け方にすばらしく美しい男の子を産んだ。先住民の習慣に従って、赤ん坊を板にしばりつけ、背中に背負って、造化の神のところに到着した。
**
訪問者(ラトカカワス)は懇願した。
クムカムチュは水と熟した石で満たした籠のなかで円盤を煮て、ラトカカワスに見ないように言った。
すぐに若い男は生き返った。
しかし、クムカムチュは、その美しさに嫉妬して、円盤と、若者の美しい姿をふたつともわがものにするために彼を即座に殺した。
*
顔を覆うのをやめたとき、彼女は夫が死んでいるのを見た。
そして、造化の神が火葬の薪を用意しているあいだじゅう泣きつづけた。
彼女は造化の神にもっと薪を追加するように頼み、夫の身体が焼き尽くされたときに立ち上がり、赤ん坊を背負うと、炎のなかに跳びこんだ。
造化の神には子供を炎から救い出す時間しかなかった。
もらいたい名前が発せられるのを耳にするまで、彼(ラトカカワスが産んだ子)は絶え間なく叫びつづけた[この名前はカーティンの筆写 ではイシス Isis であるが、アイシシュのままでつづけよう]。
*
*
造化の神は灰のなかから円盤を取り上げ、膝の上に、 腋の下に、胸の上に、額に、そして肩に置こうとしたが、それをしっかりと取りつけることはできなかった。最後にそれを腰の下に挿入するのに成功した。彼は即座に若く美しくなった。「アイシシュの父」の円盤は造化の神の一部となったので、彼自身が子供の父親になった。
*
造化の神は北に向かって旅立ち、赤児を膝のなかに入れた。
彼が夜を過ごした家のふたりの老女が産婆となっ た。
誰に質問されても、大地がわたしにこの赤児をくれた、と答えた。
その後、彼はトゥレ湖の南東に居を定め、子供を育てた。
子供が結婚できる歳になったとき、モワトワス[「南の人々」、ビット川の部族]は、タウペという名前の働き者の女を妻にすすめた。
*ー*
カラスがすべての人を石に変え、それには造化の神とその息子も含まれていた。しかし、彼らはただちにもとの姿を取り戻し、レクリス[トゥレ湖の北の場所の通称、Ray 3, p. 209: /liklis/ 参照] に移った。
誰も住んでいないと彼らが考えていた山の上には、アマガエルと鳥のナダ (Gatschet 1. II. p. 230: クラマス語の ナタ/mag/「小さな黒いカモ Barker 2, p. 275: /na.ta/ コモンシギ」参照)というふたりの女が住んでいた。
ふたりはともにアイシシュに恋をし、自分の夫にしたいと思った。
造化の神は湖の水を汲んでもってくるのが早いことを証明した方を受け入れると約束した。
水たまりでいくらかの水を手に入れたので、アマガエルが最初に戻ってきたが、主人公はナダがもってきた新鮮な水を選んだ。
造化の神はカエルをバラバラに引き裂いた。その断片はそれぞれ岩になって、みな今でも湖面に現われている。
*
いまだに孤独を愛していたので、主人公たちは北西に向かって旅立ち、ついにはロスト川に着き、造化の神はそこをサケとヒスティス( ボラ)で一杯にし た。
さらなる遍歴ののちに、父と息子は別れた。
アイシシュはトゥレ湖の東側の山の上に居を構え、クムカムチュは西に向かって出発した。
この新たな滞在のあいだに、アイシシュはボラ、アナグマ、カモやその他の鳥、チョウなど数多くの妻をもった。
ひとりはミソサザイはすぐに息子を産んだ。
* *
彼女はクムカムチュの不在が不安だった。
しかし、クムカムチュは種を小さな袋に入れて戻り、あらゆる方向に種を投げた。それが野生の植物の起源となった。そして、クムカムチュは息子の妻たちを欲していたので、アイシシュをやっかい払いすることを望んだ。
新しい矢につける羽根が足りないという口実のもとに、クムカムチュは木の頂にいるワシの若鳥を巣から取ってくるようにと、アイシシュに命じた。
アイシシュは着ているものを脱ぎ、よじ登って、ワシを地面に投げ落とした。それを終えたとき、父の命令によって、木はとても高くなっていた。頂はほとんど空に触れようとしていたのである。
造化の神はアイシシュの衣装を拾い上げ、それを身につけた。
クムカムチュが帰って来たとき、女たちは彼が夫であると最初は思った。
彼は陽が落ちるのを急がせ、日が暮れた。チョウ、アナグマ、ミソサザイ、ボラだけは、本当に夫であるか疑った。
翌日、彼女たちは、競技会がおこなわれることになっているトゥレ湖北東の高台ビトコワに、彼や他の妻たちと同行することを拒んだ。途中で、造化の神は草に火を点けた。煙がまっすぐ空に上がらなかったので、彼の同行者たちは怪しいと思うようになった。
*
そのあいだに、チョウとアナグマは夫(アイシシュ)を探していた。
彼(アイシシュ)は木の頂で半死半生でいるのが見つかった。
アナグマが木を根こそぎにしようとしたができなかった。
チョウは頂まで上ることに成功した。彼女はアイシシュに生気を取り戻させ、やせ細った身体にクマの油を塗った。そして、籠に入れて下ろした。
ふたりの女はアイシシュの世話をし、着物を着せた。
そして他の妻たちの不品行を語った。
賭博競技が終わったあと、ビトコワでボール遊びが始まっていた。
クムカムチュがボールを拾い上げるために身をかがめたとき、 シャーマンが南風を呼び起こし、風はケープをもち上げた。すべての人が彼の背中に、大きな傷跡に似た円盤を見た。そして、彼らはそれがクムカムチュであることがわかり、彼を笑いものにした。
*
アイシシュは健康を取り戻すと、ふたりの貞節な妻とともに出発した。途中、彼は火を点け、まっすぐ上がった煙はアイシシュが近くに来ていることをしめした。クムカムチュは震え始めた。
アイシシュと最初に会ったのは、彼の小さな息子であった。
その母親は子供といっしょに野営し、根を食物として与えながら途方にくれていた。「ああ、そうだ」主人公は彼女に言った、「わたしを助けてくれたのは、わたしが遠ざけていたふたりの妻だったのだ」。
造化の神は息子を懐柔しようとしたが無駄だった。
アイシシュは大きな薪の山をつくるように命じ、貞淑でない妻たちの出頭を命じ、彼女たちの足を焼いた。そして彼は、未来の人間たちの食料とするために、彼女たちをカモやその他の水鳥に変えた。そして、クムカムチュを炎のなかに投げこみ、焼いて灰にした。しかし、灰のなかには円盤があった。
翌日の明け方、クムカムチュの魔力の護符である明けの明星が、円盤に呼びかけた。「どうしてそんなに長く寝ているんだ。老人よ、起きろ」。クムカムチュはただちに生き返った。
それ以来、彼は円盤と明けの明星があるかぎり生きるようになった。
==
アイシシュはこうして彼の父親が不死であることを知った。
比類なく美しい歌を歌いながら、彼は山のなかを長くさまよった。
クムカムチュは、何年ものあいだアイシシュについてまわり、ついに合流した。彼は息子と和解したかったが、アイシシュは拒んだ。
「おまえは世界の好きなところへ行け。わたしも自分の行きたいところへ行く。おまえが父親であるとは思わない。そして、大地が人で満ちるとき、どの父親もおまえがわたしを扱ったように扱わないことを望む」。
造化の神はトゥレ湖の近くに居を定め、アイシシュは三人の妻たちを、チョウ、 アナグマ、ミソサザイに変身させた。そしてツクトゴシ山の頂にひとりで住んだ 。
訳文をもとに一部筆者にて再構成をしている。
この神話は同じ様な分離と結合の伸縮の動きを二重に描いている。
まず「ラトカカワス」の物語。そしてクムカムチュとアイシシュの物語。同じ動的構造を、二つの異なる登場人物による二つの異なる語りに託して、二重に浮かび上がらせてくる。
男/女、老/若、内/外
まず「クラマス湖の南岸に五人の兄弟と住」む若い女性「ラトカカワス」が登場する。ラトカカワスと五人の兄弟たちは、同じ家、同じ両親の子という点で「同じ」であるが、男/女の違いという点では「異なる」ものである。五人の男子と一人の女子からなる六人兄妹は、「同じだが異なる、異なるが同じ」非同非異ということを端的に表現している。特に同じであることと異なっていることがひとつにギュッとまとまっている。これは図2でいう1)の述語的様相ということになる。

この六人は、しかしいつもいつもずっとぎゅっと固まっているわけではない。男/女の対立に沿って、結合と分離の伸縮が繰り返されるのである。すなわち、5人の男子たちは、「漁」のために、毎日、家を出て、家からおそらく遠く離れた「湖の中央にある島の近くへカヌーで」出かけていく。
その間、ラトカカワスは一人家に残って、「兄弟のために食事の準備を」する。
ここで同じ兄妹たちのあいだに、家の外に出るもの/中に入っているもの、男/女、さらには自然/文化の対立の上で、漁りと料理が対立する。すなわち、文化の側から自然の側へと入り込む動き(漁)、と、自然の側から文化の側へと取り込む動き(料理)が対立する。
男 / 女
外 / 内
出る / 入る
文化から自然へ / 自然から文化へ

*
こうした対立が際立ちつつも、すぐに「ずれ」も見えてくる。ラトカカワスは家の内に固定されていて決して外に出てこないというわけではなく、「野生の種を集めるために」、採集活動のためにしばしば外に出てくる。
ところがその時、種集めの労働で外出する時のラトカカワスは、若い女性の姿ではなく、なぜか「老女」に見える姿をしているという。
老/若
この経験的感覚的にはっきりと分けられているはずの二極の間が、くるくるとひっくり返る。若なのに老、老なのに若。老でもなく若でもなく。
おもしろいのはこの老/若の転換が、家の内/外という、これははっきりと区別された対立に重ねられて、規則正しくひっくり返えることである。つまりランダムに不規則に不意に老若が入れ替わることはなく、内/外の区別をはっきりと固めながら、規則正しく交代していくのである。さらに詳しくみると、ラトカカワスは若い姿のまま「外」に出ることもできる。種集めの労働のためではなく、何か別のことで「彼女が身体をふるって家から出る」場合は、ラトカカワスは若美しい姿をしている。
とすると、老/若の転換は、内/外の区別だけでなく、種集めの労働をするかしないか、という区別をもはっきりと固めようとしているらしいことがわかる。
東西南北
次に、空間の分節が際立つ。
ラトカカワスたちが暮らしているのは「湖」の「南」である。
それに対して「湖」の「東」にも人々が暮らしており、彼らはラトカカワスの美貌に惹かれ、求婚を試みようとしている。求婚は端的に分離を結合に転じる、分離した二極の間を分離したまま結合しようとする動きである。
しかし、東の若者たちが訪れるたびに、南のラトカカワスは家の中でも「老女」の姿になって、訪れる男たちが自ら退散していくようにした。つまり東の者たちとのあいだでは、結婚(分離と結合の均衡)が成立することはなく、ずっと分離したままになる。
見方によってはこの結婚の不成立により、南と東、つまり東/西の軸と、南/北の軸の区別が、空間の分節が、発生しはじめるとも言える。
東西軸 / 南北軸
* * *
西の男とラトカカワスの結婚
さて、ラトカカワスは兄たちに、東の男たちが彼女のことを狙って日々訪ねてくるのが困ると訴える。それに応じて長兄は、野生の種の採集が終わったら、ラトカカワスも一緒に、「誰にも悩まされない島」へ連れていくという。
ところが、ここで事情が変わってくる。
湖の、東ではなく、「西」の方に新たな登場人物、美しい若者が現れる。彼は「あまりにも美しい」青年で、父親は彼を「籠に入れて地中に隠して」保護していた。
前回の記事で見た神話では、籠に入れられ地中に隠された美少年は姉に好かれ、インセストタブーを侵しそうになり、遠くの島へと脱出する。姉/弟という、もともと一つ屋根の下で過度に結合する傾向にある関係を、一挙にひっくり返して過度な分離へと急転換する動きの中で、隠された=経験的な距離感以上に過度に分離された少年という項が用いられた。その際、籠に入れられ地中に隠された少年は「追われる者」、つまり本人は分離しようと動いているのに女性の方が結合しようと迫ってくる、という関係のなかにいる。
一方、この神話では、籠に入れられ地中に隠された少年は、自分の方から、逃げる=分離する傾向のある女性(ラトカカワス)へと、結合しにいく方向で動く。
そうしてこの籠に入れられ地下に隠された若者と、これまで一切の男性からの求婚を拒んでいたラトカカワスとは、なんと結ばれるのである。
村の若者たちがすべてラトカカワスに近づくのに失敗したとき、若者(注意:籠に入れられ地中に隠された少年)は隠れ場所から連れ出され、すばらしく美しい衣装を着せられた。彼は「空の雲のように青、金色、緑で」、その美しさは想像を超えていた。彼は魔術の力を与えられたので、 地下を進んで日の出にやっと彼女を不意打ちすることができた。ラトカカワスは彼がそこにいるのを知り、気に入ったので老女の姿をとらなかった。しかし、彼らは一言も言葉を交わさず、ラトカカワスはその出来事を兄弟たちにこと細かに語った。
まず、「村の若者がちがすべてラトカカワスに近づくのに失敗」する。男/女の二極の間での結婚という関係において、過度な分離が際立つ。
そこで隠れ場所の地中の籠のなかから「連れ出され」たのが、かの美貌の少年。彼は「美しい衣装を着せられ」、「魔術」によって真夜中の「地中」を、西の人々の暮らしている場所から南のラトカカワスの家まで移動する。
この夜中に地下、つまり地表の下側を移動するというのは、夜の太陽の動きを思わせるものがある。地中から再生し光り輝く少年はβ太陽のようである。
そしてこれまで一切の男たちを拒んでいたラトカカワスは、この少年の登場に際し、ついに老女に変身することをやめ、そうして二人は結ばれるのである。
とはいえこの際、二人は「一言も言葉を交わさず」という様式で、言語的なコミュニケーションにおては分離を徹底したままである。結婚するほど結合していながら、言葉を一言も交わさない。分離しながらの結合、結合しながらの分離ということが表現されている。
太陽としての籠に隠され埋められた少年
さて、ラトカカワスのもとに男が訪れていると知った兄たちは、遠くの島への移住を急ぐことにする。ここで1日周期の時間の分節がクリアーになる。
「日没まで」に、兄たちは「二匹の大きなサケ」を捉えた。
兄たちは「明け方」にまた出かけ、サケをさばきにいく。
その間、ラトカカワスは荷造りをしようとした。しかし、兄たちが出かけると、すぐに「西から」籠に隠されていた若者がラトカカワスのもとを再訪する。ラトカカワスは「まばゆいほど光り輝」く彼に目がくらむ。「午前中」に兄たちは戻り、家を取り壊す。
そして「正午」にかけて、兄たちは「家からカヌーまで」のあいだに、ラトカカワスが渡る用の筵のマットを敷く。
そして正午ごろ、ラトカカワスはカヌーに乗り込む。そして、籠に隠されていた若者に対して「いだいた恋についても、すべての記憶を彼女は失って」しまう。
日没から深夜へ、そして明け方、夜明け、午前中、正午へ。一日の時間が展開していく。この展開の中で、兄たちとラトカカワス、そして籠に隠され埋められていた美少年の三者のあいだの距離が、分離したり結合したり、激しく伸縮する。兄たちは夜に帰宅したかと思えば明け方に出ていき=ラトカカワスから分離し、それと入れ替わる様に、籠に隠されて埋められていた美少年がラトカカワスのもとへ結合しにくる。そして今度は兄たちが戻ってくると、籠に隠されて埋められていた美少年は姿を消すが、しかし、見えなくなっているだけで側にいる。しかし、当のラトカカワスは、彼女をカヌーに結合するための特別なマットの上を歩いているうちに(それまでラトカカワスは漁に出ておらず、おそらくカヌーからは強く分離されていたのである)、一旦結ばれた美少年のことを忘れてしまう=分離する。とはいえ美少年は引き続きそこに居て、そしてなんと、出発しようとするカヌーを見えない姿で「おさえ」つけて、いくら漕いでもカヌーが岸から離れないようにしていた。このカヌーの引き留めは「午後のなかごろ」まで続く。
姿は見えなかったが、彼(※籠に隠されていた若者)はカヌーをおさえていた。午後のなかごろまでには、兄弟たちは、漕いでも漕いでも離岸しないカヌーに疲れ果てた。
ついに籠に隠されていた西の若者は、カヌーを抑えるのをやめて、出発させた。
午後になり、カヌーは出発した。そして西の美しい若者は、ラトカカワスの姿を見ようと「サケの姿」に変身し、カヌーの後をついて泳いだ。

カヌーの旅
ここでカヌーの上の兄妹たちの配置を見てみよう。
カヌーに複数人がのる場合、バランスを崩して転覆しないよう、カヌーの前後(左右も)の重さを均衡させる必要がある。『神話論理3 食卓作法の起源』の「カヌーに乗った太陽と月の旅」の章でレヴィ=ストロース氏が書いているように、カヌーにのってバランスを保っている人たちの姿は、カヌーの前/後に分離しつつも、一つのカヌーに一体的に結合しているという点で、分離と結合が均衡した述語的様相を象徴するものである。
さて、ラトカカワスたちも、カヌーにのっている。
ラトカカワスは兄の一人とともに、カヌーの中央に。
兄弟のうちふたりはカヌーの舳先に。
5人兄弟の残りのふたりはカヌーの艪に。
◆ ◆ ◆
← ← 🐟
◆ ◇ ◆
さて、この付かず離れず、分離したまま結合した均衡モードで移動している兄妹六人であったが、そのカヌーの後ろを、西の美少年が変身した鮭が追いかけていた。
ところが、この鮭の姿を発見した兄弟のうちの一人は(彼らは漁師であった)、この鮭に「銛を刺し、カヌーに引き寄せ」獲ってしまった。
銛を刺された美少年は、カヌーの上で元の姿に戻るが、「すぐに息を引き取っ」てしまう。この姿を見てラトカカワスはこの恋人のことを思い出し、「泣き崩れ、兄弟を非難」する。
さて、ここは神話である。Δ生/Δ死の区別も、分けるから分かれるが、分けなければ分かれない。一旦命を落とした様に見えても、適切な手順を踏めば、生死の間を転換することもできる。銛を刺された西の籠中の美少年を生き返らせることも可能なのである。

円盤と子どもを携え
さて、ここで兄妹たちは、銛を刺された西の籠中の美少年を復活させるべく動く。まず「ビーズと筵の捧げもの」を添えて、銛を刺された西の籠中の美少年を薪の上に載せて「火葬」する。そしてその「灰」のなかから彼らは「空の太陽のように輝く円盤」を取り出す。それは銛を刺された西の籠中の美少年の「頭蓋冠」であるという。
そして兄たちはラトカカワスに、この「空の太陽のように輝く円盤」を「ニフラスキの蒸し風呂」に居る造化の神クムカムチュのもとへ持っていけば、銛を刺された西の籠中の美少年を復活させてくれるはずだと教える。
+
ここでラトカカワスと兄弟たちは、完全に分離する。
ラトカカワスは兄弟たちのもとを離れて、くだんの円盤をもって、クムカムチュのもとへと一人旅を続ける。
そしてこの旅の途中で、なんとラトカカワスは出産をする。銛を刺された西の籠中の美少年とラトカカワスが出会ったのは数日前のことのはずで、流石に出産は早すぎるように思うが、ここは神話である。時間の長/短も自在に伸縮して然るべきである。
こうしてラトカカワスは、光り輝く円盤になった夫を「胸にしまい」、その夫とのあいだに生まれたばかりの赤ん坊を背中に背負って、つまり身体の前後に夫と子どもを結合した状態で、クムカムチュのもとへ向かう。
ββ
β
そうしてラトカカワスたちは、無事に(?)クムカムチュのもとに到着する。クムカムチュはラトカカワスの懇願に応え、「水と熟した石で満たした籠のなか」へ、くだんの「円盤」(銛を刺された西の籠中の美少年の頭蓋冠)を入れて煮込む。前回の記事で取り上げた神話でも、魔法使いである少女が姉によって骨にされてしまった家族たちを復活させるために、この「水と熟した石で満たした籠」の中に骨て加熱するという方法をとっていた。
またその特別な蘇りのための加熱の間、魔法使いである少女は筵をかぶって顔を隠して、骨を煮ている籠の方を見ない様にしていたのであるが、今回の神話でもクムカムチュはラトカカワスに対して、煮込みの籠の方を「見ないように」いう。
見るというのは、分離したまま結合することである。あるいは邪視などにあるように、過度な結合を引き起こす述語的様相が「見る」である。いま、生/死の分離を一旦結合し直し、区別ができないほど過度に混ぜ合わせた上で、改めて逆向きに生/死を分離しようとするところで、見るということ、通常であれば素朴にどこでも発動してしまう結合する述語的様相を、強いて見ない様に、分離をするように動かす。
経験的に分離しているところを結合し。
経験的に結合しているところを分離する。
分離を結合へ結合を分離へと激しく伸縮させて、図2の2)と3)の述語的様相を浮かび上がらせる。

クムカムチュ
さて、ここでとんでもないことになる(ずっととんでもないことになっているが)。銛を刺された西の籠中の美少年はクムカムチュの煮込みで無事に復活するのである!
しかし、クムカムチュは蘇った若者の「美しさ」に激しく「嫉妬」する。
嫉妬、ヤキモチというのは自分にないもの=自分から分離しているものを、自分と結合する方向に転じたいと欲望することである。クムカムチュは蘇った若者の「円盤と、若者の美しい姿をふたつともわがものにするために」、せっかく復活させた若者の命をまたすぐに奪ってしまう。
ラトカカワスはその騒ぎに、目を覆うのをやめる。
するとどうしたことか、光円盤の姿から、もとの肉体を取り戻した夫が、しかしその肉体のまま骸になっているではないか!
とんでもないクムカムチュである。
と、常識的な経験と感覚では思えるのであるが、ここは神話である。
重要なことは両義的媒介項たちに分離する動きと結合する動きの伸縮を激しく担わせることである。西の若者が、籠にいれられて地下に埋められ人目から分離されていたところから、着飾って人前に登場し、そしてそれまで一切の男と分離していたラトカカワスと結合する。しかしその結合はラトカカワスの兄たちによって分離され、そうして魚に変身した西の若者は、一旦命を奪われ、こんどは光る円盤に変身したかと思えば、またその円盤の姿で煮え湯に放り込まれ、もとの若者の姿に戻ったかとおもったら、またまた命を奪われる。生/死の二極の間をあちらにいったりこちらに行ったり、大忙しである。
これは実は、太陽の姿そのもの、毎日日没とともにその命を失い=西の地平の彼方に消えてしまい、そうしてまた朝になると東の地平から生まれ直してくる、毎日朝夕に生/死を繰り返している太陽の述語的様相そのものである。
さてこの太陽である西の美少年は、また、二度目の火葬をされることになる。クムカムチュは薪の準備をし、火をつける。そしてその火の中へ、ラトカカワスは子どもを背負ったまま飛び込む!
クムカムチュはラトカカワスと子どもを助け出そうとするが、助け出せたのは子供だけであった。
逆に、火の中で、ラトカカワスとその恋人=夫は、一つに結合したとも言える。
いずれにしてもこの神話はここまでのところで、男/女、妻/夫、生/死といった経験的感覚的に対立する二極の間で、激しく、過度な分離と過度な結合の様相の間を転換し続けてきた。図2の2)、3)の様相である。
第二の物語
さて、ここからは世代がかわる。
ラトカカワスが産んだ息子と、その育ての親となったクムカムチュとの間に繰り広げられる物語へとうつる。
ラトカカワスが産んだ息子=火の中から助け出された男の子は、他の神話でもそうであるように、過度に泣き続ける。そうしていっこうに泣き止まなかったものが、ついに「アイシシュ」という名前を授けられて、泣き止むことになるらしい。
一方クムカムチュは、西の若者の遺灰のなかから取り出した「円盤」をわがものとした。しかしこの円盤、クムカムチュがその身体のいろいろな部分(膝の上、 腋の下、胸の上、額、肩)に結合しようとするがどこを選んでもしっかり結合することがなかった。仕方なく「腰の下に挿入」することで、ようやくクムカムチュはその身体に円盤を保持し続けることができる。
円盤を身体内に結合している限り、クムカムチュは「若く美し」い姿に変身していることができた。
さて、アイシシュ(ラトカカワスが産んだ息子)にとっては、自分の父親がクムカムチュと一体化したので、クムカムチュを父親ではないが父親であるものとして扱うことになる。
ここでクムカムチュは、いままで出てこなかった方角「北」へと向かって旅をする。ついに東西南北、経験的な空間の分節が起源しそうな気配である。
男神による膝からの出産
この北への旅の途上、クムカムチュは一旦息子を(ラトカカワスが産んだ子)を、「膝のなかに」入れて隠していく。
そして旅の途中、クムカムチュは立ち寄ったある家で「ふたりの老婆」を産婆役として、膝から息子を出産した。前の記事でも取り上げた男神による出産である。
こうして二人の産婆を証人として、アイシシュはクムカムチュが産んだ息子だということになる。ラトカカワスのこと、本当の父母のことは隠されたのである。
こうしてクムカムチュとアイシシュは、くだんの「湖」の、「南東」で暮らすことになる。
β→Δ←β
クムカムチュはアイシシュを立派に育てる。
そうしてアイシシュは成長し、結婚相手を探すまでになる。
そしてまず「南」の人々(思い出してみると、ラトカカワスたちも湖の南に住んでいたはずである)の娘との間に結婚話が持ち上がる。
ところがこの結婚は成立しないらしい。
なぜか突如「カラス」が現れて、人々を、南の人々も、アイシシュの見合いの相手も、ことごとく「石」に変えてしまう。クムカムチュとアイシシュももれなく石に変えられたのであるが、クムカムチュは伸縮自在な神なので、すぐにまた石から元の姿に戻ることができた。アイシシュも石から元に戻った。
そうしてクムカムチュとアイシシュは、今度は「湖」の「北」の「山の上」に移住する。東西南北の各方面を切り開く様に一通り動いた後(図2の4)に相当)、ついに垂直方向、上/下、天/地の距離も区切り出される。山の「上」に二人は登るのである。ここに下と上とを分離しその間を距離を切り開く動き、述語的様相をみることができる。

さて、この北の山の上はだれも暮らしていないと思われていたところであるが、クムカムチュとアイシシュが辿り着いてみると、「アマガエル」と「小さな黒いカモ」という二人の女性が暮らしていた。ちなみに、アマガエルであるとかカモであると言われると、つい経験的感覚的に分節され済みの現世のΔカモやΔアマガエルの姿を思い起こしてしまい、それが人間の女性であるとは如何なることかと混乱してしまうが、ここは神話である。
動物/人間
この区別、対立さえ、特に断りがない限りはあらかじめ分かれてはいないのだ。人間と動物という経験的な区別があるとして、それに対して神話の世界では人間でもなく動物でもない者たちが、互いに分離したり結合したりを繰り返している。ここで「アマガエル」と「小さな黒いカモ」はどちらもΔではなくβである。二つセットになったβが、二つ揃ってβアイシシュに求婚する。
ここでβ父であるクムカムチュによるβ息子のβ妻選びが始まる。
クムカムチュは「アマガエル」と「小さな黒いカモ」に水汲み競争を課す。「湖の水を汲んでもってくるのが早いことを証明した方」にアイシシュとの結婚を許すという。
アマガエルとカモ、この二人は、アイシシュと
結婚できる者 / 結婚できない者
に分離されようとしている。
さて、水汲み競争をやらせてみると、「湖の水を汲んでもってくるのが早」かったのは、アマガエルの方であった。クムカムチュが定めたルールに従えば、アマガエルが優勝、アマガエルがアイシシュと結婚することになるはずだった。しかし、選ばれたのは、「ナダ」、小さな黒いカモの方だった。なぜならカモが持ってきた水の方が「新鮮」、きれいだったのである。
試合に勝って、結婚を許されるはずの方が結婚を許されず。
試合に負けて結婚を許されないはずの方が結婚を許される。
あちらがこちらに、こちらがあちらに。
当初の約束、ルールとはあべこべになっている。
このあたりがβ伸縮らしい動きである。
* *
汚れた水を持ってきたβアマガエルは、クムカムチュによって「バラバラに引き裂」かれる。
Δ ← β → Δ
ここでついに図2の5)の様相、Δが浮かび上がってくる。この引き裂かれたβカエルの「断片」が「それぞれ岩になって、みな今でも湖面に現われている」ようになる。今でも湖面に現れている岩というのは、要するに経験的感覚的に「ある」と分別できるもの、現世に安定して持続的に存在する存在者である。こういうものを図2ではΔという記号で表しているが、βアマガエルが引き開かれ、バラバラに分離されたところにΔ岩が定常的に姿を現し続ける世界が開ける。

父子の東西への分離とアイシシュの結婚と
さて、アイシシュはこの水汲み競争の勝者(?)である黒い小さなカモと結婚するはずであった。
しかし、まさかのアイシシュは「いまだに孤独を愛していた」ということで、黒い小さなカモとは結婚せず、また「湖」の「北西に向かって旅立」っていく。
アマガエルとカモはいったい何のために競争させられたのかという気もするが、これは端的にβ脈動を図2の5)の相に転じるためであったといえよう。
*
「湖」の「北西」でクムカムチュは「サケ」と「ボラ」の漁をする。この魚たちは神話の冒頭で、籠に隠されて地中に埋められていた少年が変身したβ鮭ではなく、経験的に現世に存在するΔ鮭たちである。
先ほどのβアマガエルが引き広げられて引っ張り出された湖のΔ岩に続いて、今度は湖のΔ魚も起源した。次第に現世の諸存在者Δたちが姿を現してきた。
* *
さて、ここに至って、クムカムチュとアイシシュの親子が、これまでずっと二人一組で動き回っていた二人が、別々に、真逆の方向に分離する。
クムカムチュは「西に向かって」旅立っていく。
アイシシュは「トゥレ湖の東側の山の上」へ居所を定める。
東/西方向へ、太陽の運行の軸を開く様に分離する。
そして「湖」の東の「山の上」に定住したアイシシュは、「ボラ、アナグマ、カモやその他の鳥、チョウなど数多くの妻」たちと結婚をする。この妻たちがみな動物や鳥や虫たちであることに注意しよう。この結婚は経験的な現世のΔ結婚ではなく、両義的媒介項βたちが動かす過度な分離からの過度な結合への相転換である。
そしてこの結婚のなかから、アイシシュと「ミソサザイ」の間に息子が生まれる。
クムカムチュの帰還ー東/西の短絡結合
さて、そこへ、「西」へ旅立ったクムカムチュが帰還する。
東/西軸を伸ばす様に分離していたクムカムチュとアイシシュの親子の間が、再び結合に転じる。
戻ってきたクムカムチュは「野生の植物」の種を「あらゆる方向」へ蒔く。こうして経験的感覚的に存在するΔ野生の植物が起源する。ということはこれまで彼ら彼女らが動き回っていた世界には、Δ野生の植物はなかったのである(もちろんβ野生の植物はあっただろう。喋ったり、歩き回ったりするような・・)。
鳥の巣あさり〜父でもなく息子でもなく
さて、ここでこの神話は、最後の分離と結合の激しい伸縮を演じる。
図2の1)から5)に至る伸縮モードの転換を、総復習するように、ここでまた反復する。そのために語られるのが「鳥の巣あさり」のモチーフである。
クムカムチュは息子の妻たちを欲していたので、アイシシュをやっかい払いすることを望んだ。新しい矢につける羽根が足りないという口実のもとに、クムカムチュは木の頂にいるワシの若鳥を巣から取ってくるようにと、アイシシュに命じた。アイシシュは着ているものを脱ぎ、よじ登って、ワシを地面に投げ落とした。それを終えたとき、父の命令によって、木はとても高くなっていた。頂はほとんど空に触れようとしていたのである。
造化の神はアイシシュの衣装を拾い上げ、それを身につけた。クムカムチュが帰って来たとき、女たちは彼が夫であると最初は思った。彼は陽が落ちるのを急がせ、日が暮れた。チョウ、アナグマ、ミソサザイ、ボラだけは、本当に夫であるか疑った。

父が息子の妻をわがものにしようとする。
そのために父は息子の着ているものを騙し取って、そしてそれを身につけて息子に変身しようとする。
そのために、父は息子を騙して服を脱がせて(分離させて)、木の上に登らせる(地上から分離させる)。そうして息子が降りられないほど、木を高く成長させる。天/地の間で、父と子は過度に分離する。
その一方で、息子の服と父親とが結合する。そうして父親は息子に変身する。息子の妻たちのうちの何人かはこの変身を見抜けないほどである。
*
ところが、ふとしたことでこの変身(変装)は見抜かれる。正体がバレる。
舞台は「競技会」である。
翌日、彼女たちは、競技会がおこなわれることになっているトゥレ湖北東の高台ビトコワに、彼や他の妻たちと同行することを拒んだ。途中で、造化の神は草に火を点けた。煙がまっすぐ空に上がらなかったので、彼の同行者たちは怪しいと思うようになった。
競技会といえば、勝/負をわける。勝者/敗者をはっきりと分ける。
勝ち / 負け
|| ||
勝った者が誰であるか / 負けた者が誰であるか
勝ち負けに照らし合わせて、ある人が何者であるのかが明らかになる。
*
そうした勝負の舞台に向かう途中で、息子アイシシュに変装した父クムカムチュが吹かしたタバコの煙が、いつもアイシシュがそうする時とは異なる漂い方をした。
煙がまっすぐ空に上がる / 上がらない
|| ||
アイシシュ / 非アイシシュ
さて、クムカムチュが競技会に出かけている間、「チョウ」と「アナグマ」が彼女たちの本物の夫であるアイシシュが、「木の頂で半死半生でいる」のを発見する。
まず、アナグマが、木を倒してアイシシュを降ろそうとするが失敗する。
次に、チョウは、木を倒そうとせずそのままにして、自ら舞い上がって頂きのアイシシュのところに到達する。そうして「半死半生」のアイシシュに「クマの油」を塗って活力を復活させ、「籠に入れて」大地まで降ろした。
この籠による降下の動き、述語的様相の展開を通じて、天/地の区別が明らかに際立つ。
Δ天
/ ↓籠+アイシシュ↓
Δ地
二人の妻(アナグマ、チョウ)から新しい服をもらったアイシシュは、競技会の会場に向かう。
*
そのころ競技会場では、クムカムチュがボールを使ったゲームに興じていたが、シャーマンが起こした南風(経験的な自然の南風ではない)に吹かれて、着ていた「ケープ」(アイシシュのものであろう)が捲れ上がる。
アイシシュが新たに服を着て「裸の人」ではなくなったのと対照的に、クムカムチュはその着ていた服(ケープ)が風で捲れ上がり、裸の背中が会場の多くの者たちの前で顕になる。
その裸の背中には、例の「円盤」、アイシシュの本当の父が変身した円盤が結合していたが、それをみた会場のものたちは、彼がアイシシュではなくクムカムチュであることを知って「笑いものに」した。
アイシシュはクムカムチュに復讐する。
クムカムチュは、アイシシュとその父の二代に渡ってその美しさに嫉妬し、その美しさを奪おうとしたのであるが、ついに立場が反転する時が来たのである。
*
さて、アイシシュは、かつてクムカムチュがアイシシュの父と母にしたように、「大きな薪の山」を用意させる。
そしてまず、妻たち(元々アイシシュの妻で、後にアイシシュに変身したクムカムチュと共にいた妻たち)の「足を焼」く。そして「未来の人間たちの食料とするために、彼女たちをカモやその他の水鳥に変え」る。
足を焼くというのは、この妻たち、つまりあちらこちらと結合したり分離したりと伸縮し続けている両義的媒介項βを半分にする(ぴったり二等分するのではなく、端を切り取る)ということだろう。
Δ ← β → Δ
両義的媒介項β動物の妻たちは、Δ焼かれた足と、Δ人間の食糧となる鶏肉の供給者たちとに引き伸ばされる。ここで図2の5)に対応するΔの区切りだしが起きる。
周期性(時間の動的分節)の起源
さらにクムカムチュも、燃え盛る炎の中に放り込まれる。
そうしてクムカムチュは、「灰」と「円盤」に(一旦)分離する。
灰Δ〜β〜Δ円盤
ところが、クムカムチュはすぐに蘇る。この辺りがやはり神は徹底して神のまま、Δ生/Δ死の分別を超えたβ不死なのである。
βクムカムチュを復活させたのは、喋るβ明けの明星である。
こうして円盤(太陽)と明けの明星という、昼間と夜中、光の時間と闇の時間とが交互に周期的に反復する円環状のサイクルが動き続けるようになる。
時間というのは分節システムであるが、白黒はっきり対立二項を固定的に分けて置いておけるたぐいの分節システムとは少し趣が異なっている。
白黒はっきり対立二項を固定的に分けて置いておけるたぐいの分節システムというのは、冒頭に示した下記の様なペアたちである。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
こういう対立関係は、一度分け終わってしまうと(分け終わった様にみえるようになってしまえば)、あとは対立関係にある二項それぞれが、単独でも、つまりそのペアを組む相手のことが意識されない状態でも、「生」それ自体、「ある」それ自体、「まずい」それ自体、といったように所与の実体であるかのような顔をするようになる。分けたから分かれたという経緯を考えることなく、無意識に分節を反復することができるのである。
一方、天体の運行=時間の周期性というのは、どうしてもその動き、分けるでもなく分けないでもないところを仮に分ける動きを、無意識の深みへと追い払うことができない現象である。
夜から朝へ、朝から昼へ、そして午後をまわって夕暮れに、そして夜へ、そしてまた夜明けへと、昼/夜は、常に、いつでも、昼でもなく夜でもない逢魔時の只中から仮に、その始端と終端が不分明なまま、分かれ出てきたかと思えば、また溶けて不可分に溶けていく。
「昼」と「夜」はそれぞれ、分かれるでもなく分かれないでもないところから、分かれてきたり分かれてこなかったりする。しかしそれでいて、世界は昼だけになることもなく、夜だけになることもなく、昼/夜の区別ははっきりと繰り返し繰り返し精密に分かれ続ける。
この分離と結合の動きの様相を、この神話は次の様に語っている。
彼(クムカムチュ)は円盤と明けの明星があるかぎり生きるようになった。
アイシシュはこうして彼の父親が不死であることを知った。
比類なく美しい歌を歌いながら、彼(アイシシュ)は山のなかを長くさまよった。
クムカムチュは、何年ものあいだアイシシュについてまわり、ついに合流した。彼は息子と和解したかったが、アイシシュは拒んだ。
「おまえは世界の好きなところへ行け。わたしも自分の行きたいところへ行く。おまえが父親であるとは思わない。そして、大地が人で満ちるとき、どの父親もおまえがわたしを扱ったように扱わないことを望む」と、アイシシュはクムカムチュに宣言する。
クムカムチュはトゥレ湖の近くに居を定めた。
アイシシュは三人の妻たちを、チョウ、 アナグマ、ミソサザイに変身させて、そしてツクトゴシ山の頂にひとりで住んだ 。
「円盤」はおそらく太陽。
「明けの明星」は明けの明星である。
このふたつが「ある」限り、つまり規則正しく、夜の世界にまず「明けの明星」が現れ、その後に「太陽」が昇るという動きが繰り返される。この動きそのものが「クムカムチュ」が不死、永遠に生き続けているということなのである。

さて、クムカムチュが天体運行の周期的な動的分節システムを樹立しつつあるときに、息子アイシシュは「地上を彷徨う。どうやら不規則に、つまりクムカムチュがやっているような周期性、その反復される規則的パターンに反するように、あるいは同期しないモードで動き回る。
しかしその不規則に動くアイシシュに、いままさに規則性を樹立しようとしてるクムカムチュが「ついてまわり」(夜空の月や、昼間の太陽が、歩いている人のついてくるように感じられる、あれ)、それをながく続けているうちに、いつしか地上のアイシシュの動きがクムカムチュの動きと同期するに至る(ふたりの「合流」)。
ここで極めつきの分離と結合の伸縮、分離しながらも結合し、結合しながらも分離する、分離一辺倒でもなく結合一辺倒でもない、分離と結合の均衡が成立する。クムカムチュはアイシシュと和解することを望んだが、アイシシュがそれを拒む、というくだりがそれである。
そうして二人は付かず離れずになる。
クムカムチュはトゥレ湖の近くに、アイシシュはツクトゴシ山の頂に、分かれて住むことになる。この湖と山は、どうやらちょうど東西軸上にあるらしい。
西:トゥレ湖 / 東(ツクトゴシ山)
湖の側(低地) / 山の上(高地)
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クムカムチュ / アイシシュ
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分離を結合に転じる述語的様相 / 結合を分離に転じる述語的様相
この二人の付かず離れずの関係から、東/西軸という空間の水平方向の分節システム(しかも一日サイクルの時間の周期的分節システムと同期している)と、地上世界における高/低という経験的で感覚的な垂直軸の空間の分節が、一挙に成立する。
そして度々嫉妬深く、分離を結合に転じようとする動きを動かしてきたクムカムチュと、ちょうどその真逆の動き、結合を分離に転じるような動きを体現するアイシシュとがクリアな対立関係を描き出す。
三人の妻をもつアイシシュは、夫と妻×3で、合わせて四人でワンセットの夫婦をなしている。夫婦は付かず離れず、分離と結合が均衡した様相の象徴である。この結婚が、二人だけではなく四人の関係で描かれる。三人の妻たちは、それぞれ夫アイシシュとは結合しているが、妻同士ではそれほどガッチリと結合しているわけではないだろう。また肝心の夫アイシシュも、三人の妻の誰とも一緒に暮らさずに「一人」で、山の上に暮らす。この四人組の夫婦はどこにも過度に結合するところがなく、分離と結合が均衡している。
妻1 =/= 妻2
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/ /
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妻3 =/= 夫1
クムカムチュとアイシシュ、分離を結合に転じる述語的様相と結合を分離に転じる述語的様相とが付かず離れずに均衡したところで開かれたフィールドにおいて、付かず離れずの四項関係が、過度な結合で潰れることもなく、過度な分離で飛び散ることもなく、四角形を安定的に保つ様に均衡する。

まとめ
『神話論理』はこのあたりから周期性、周期的に動く動的な分節システムの起源という話に進んでいく。
上述した様に、分節システムというときに、特に静的(にみえる)ものと、動的なモノ、二つの種類があるらしいことが、ここから重要になってくる。
静的なΔ二項対立:一度分節が固定されると、二項がそれぞれ独立した実体として機能し始める(生/死、内/外、有/無など)
動的なΔ二項対立:分節が固定されない、常にβ的伸縮の痕跡を残し続ける(昼/夜、季節、月の満ち欠けなど)
そして特に、2.のことを、分節済みの言語でもって記述しモデル化しようとする場合、ここには必ず、「動き」を表現する述語の姿が意識の表層に際立ってくることになり、この動き=述語には、Δ分節システムが設定されたあとも、引き続き両義的媒介項β(上の神話の父と子のように)のペアがその主語の役割を引き受けるものとして、日常の表層からは一応姿を隠しつつも、すぐ近くにいつもずっといるものとして佇み続けることになる。

静的な分節体系ではなく、昼/夜の交代のような周期的に動く動的な分節システムの起源を語ろうとする神話は図2に示す動的マンダラ伸縮モデルで言えば、6)の様相を語りだすと同時に、常にその背景に、5)の様相を動かす天体の様なものたちの姿を意識化できるものとして保っておく必要があるらしい。

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