
【マンダラ夢分析】火傷の手当てをしている部屋から生ゴミを運び出す夢 - 第七末那識をストレッチして、分離すべきところと結合すべきところを安定させる
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界というのは、心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束に投射されたときに、そこに浮かび上がるパターンである。そのパターンを意識が自覚できる相にまで浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。
視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる曼荼羅として直接ビジュアル化される(視覚的なイメージになる)場合もあれば、夢の中での自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる場合もある。
例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。
夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)で繰り広げる分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。
また、マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。

神話論理と夢分析
神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ結合したもの(Δ1=Δ2)を、ひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。
下図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。
私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界は、二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
これらの区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。
マンダラ
そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係、
Δ=/=Δ
|| ||
/ /
|| ||
Δ=/=Δ
という姿が定常的に安定して浮かびあがり得るように均衡している状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。

二項対立関係の対立関係、四つのΔの均衡を保つためには、この四つのΔを、互いに区別できないように混じり合ってしまわないように分離する一方で、離れすぎてしまってペアになっていることがわからなくなってしまわないように結合するという、分離しつつも結合し結合しつつも分離する動きが動いている必要がある。この分離する動きと結合する動きを表現する述語を引き受ける主語の位置を占めうるものが、図1にβと表現した項、両義的媒介項である。
主語的なもののペア、述語のペア、分ける述語と分けない述語のペアを分けるでもなく分けないでもなく
例えば、弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなく分けないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない、分離しきるでもなく結合しきるでもない、分別無分別どちらか不可得なモードとを、二重化した心のモデルを示している。
およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかし、こだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)。この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、分離しながら結合し結合しながら分離する、非同非異、二辺を離れるでもなく離れないでもない「空」ということを覚るべしと教えるのである。
転識得智
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。
特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。
ユングによる意識の四機能
ここで人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの分別機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になるという。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもないモードへの分別識の転換である。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層(自覚できるところとしては、前五識=感覚の分別=なにがあってなにがないのかの分別、第六意識の分別=思考の分別=ある何かがなにであってなにではないのか、ある何かは何であるべきで何であるべきではないのか、の分別。)の固着した様相である。
一方、心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し、結合しつつも分離するという伸縮自在な動きを表している。
この分離と結合の伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
*
神話や夢は、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影である。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
この神話と夢と仏教、その他、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。
マンダラは動いている
当アカウントでは、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。
例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。
両義的媒介項。分離する述語、結合する述語の主語の役をひきうけるもの
一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。
神話の語りはじめには、まだΔはない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。
神話の語りは、まず経験的感覚的に区別される二つの事柄を過度に結合して(あるいは経験的感覚的に他から区別された一つのことを過度に引き伸ばして両端を分離して)両義的媒介項βを作った上で、このβ、両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。
この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。
一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離するという具合に動く。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
* * *
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。
分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。
神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動
神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。
1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。
2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。
4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

「/」(分ける)と「||」(結ぶ)は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する述語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。そして「=/=」と表記した様相においては分離しつつ結合し、結合しつつ分離する、分離することが結合することでもあり、結合することが分離することでもある、という関係になる。
+
この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。
例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。
「分けるから分かれる」 —意味分節の起源
意味分節というと、人間の主観と客観との分節を所与のものとみなした上で、主観の側の、主観の内部の何かなのではないかと考えられる向きもあるが、ここでいう意味分節はそうした主観内部の話ではない。主観/客観の分節もまた、人間が経験的に意味ある世界を理解しようとする時に用いるひとつの意味分節の最小構成単位なのであると考えてみたい。これは主/客にとどまらない。空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。
主/客
生/死
遠/近
内/外
有/無
こういったこともまた、分けるから分かれるのだ、となると、もしこれらを分けない、いや、分けるでもなく分けないでもない境位に入ることができるなら、そこで私たちの「心」は一体なにを経験することになるのだろうか?!
神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。

これを転識得智の話に統合したものが下記の図である。

このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。ことによると神話は、いま現在ここで生きる私たちからは時間的に空間的に遠く隔たったものと感じられるかもしれない。しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んだ方にこだわっているところを少しずつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。
*
*
主語たちの述語的様相にフォーカスする
「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる
神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」、特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。
つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
分離したり結合したり伸縮する述語
この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中では、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動く
が、うまく結合できない
あるいは
結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動く
が、うまく分離できない
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。
夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。
◇
夢
不思議な夢を見た。
とある夜、私は、子供の頃に住んでいた家に帰っている。
鄙びたマンションの一室である。
私が子供の頃には、家の中はもので溢れていたが、いま夢で訪れてみると、随分とがらんとしている。
実際にはこの物件はもう何年も前に手放しているので、いまどうなっているのかわからない。
*
家には私と、そして父がいる。
父は現実には亡くなって久しいが、夢の中では健在である。
私と父は、母と弟が帰ってくるのを待っている。
どうやら私も父も、かなり久しぶりにこの家に戻ってきたらしい。
家の中の勝手が分からなくなっているので、あれがない、これがない、と、うろうろ探し物をする。しかし、何を探しているのか、何の準備をしているのかは、よくわからない。
そうして父と私は、母と弟は、まだ帰ってこないのか、どこにいったのか、などなど取り止めもなく会話する。
その後、ドヤドヤと母と弟も到着するが、それぞれ思い思いに言いたいことを喋り、好き勝手にテーブルに物を広げたり、何かを探してうろうろ歩き回るので、みんなで落ち着いて食事するといった感じではない。
私は「この家族は、ほんとうに他人の話を聞かない、会話が噛み合わない人たちだなあ」と、自分のことは棚に上げて呆れ気味に見ている。
ふとみると、外は真っ暗である。
部屋の中の照明も薄暗く、いい塩梅である。
* *
ここで場面が変わって、私は小学校の理科室のような場所にいる。
私は大人の姿で、私の現実の仕事の同僚たちが4、5名、スーツや作業着のユニフォームを着て集まって、何やら相談をしている。
ふと外を見ると、校庭では子どもたちや地域の大人が集まって、焚き火をしている。いや、焚き火にしては大規模だ。昼間なのにキャンプファイヤーという感じである。土器でも焼成しているのだろうか。
不意に、仕事の同僚のうちの一人、リーダー格の人が、焚き火をみて楽しくなったらしく、部屋から校庭へと飛び出して走っていく。
そうして彼はなんと、飛び跳ねながら、その火の中を走り抜けていく。
すごいなあ、と眺めているうちに、
彼のスーツに火が燃えうつる。
彼は火を消そうともがいたり、水道の方へ向かおうと走るが、かえって風が送り込まれて炎が強くなる。もう上半身火だるまである。
私も、その場にいる全ての人が困惑する。
なかなか火が消えない。
そして彼はほうほうの体で理科室に戻ってくる。
上半身大火傷である。
火で炙られて、膨れて剥がれそうな彼の首の皮を、同僚の一人が丁寧に引っ張って剥がそうとしている。
治療しているつもりらしいが、どうも不安である。
私は、ここが学校だと思い出し、保健室の先生を探しにいくことにする。
私は学校中を探し回る。
まず保健室にはいない。職員室にもいない。音楽室や家庭科室など、人が集まっているところに行っても、養護の先生はいない。
たまたま居合わせた人に養護の先生はどこにいるのかと尋ねても、みんな知らないとか、どこそこの部屋にいるんじゃないか、と根拠のない推定を述べる。
しかし、どこに行っても見つからない。
私は昼の眩しい光が差し込む校舎の廊下や階段で、途方にくれる。
私は困り果てて、もとの理科室に戻る。
火の中を走り回って大火傷した彼は、床に寝かされて、周りに大勢の人がいて治療をしている。
よく見ると、救急隊員のような、救急の訓練を受けた人が忙しく動き回って火傷の処置をしたり、人工呼吸器を扱うひとに指示を出したりしている。
救急車が来た気配はしなかったが、これでなんとかなりそうだ、と思う。
救急隊員以外の周りの人も手伝っている。
人工呼吸器は、手動ポンプ式のものであり、それを操作しているのは私の学生時代の仲間の一人であった。現実には異なる時と場所にいた人たちが一同に集まっている。
この学生時代の仲間が人工呼吸器の風船のような部分を押すのであるが、そのリズムがくるうと、火傷した彼に繋がれた心電図のアラームが激しく鳴る。
この時私は、なぜか生ゴミの入ったゴミ袋を三つ持っていることに気づく。
そのうち一つは袋が破れて、中身が漏れ出そうになっている。
これはまずい、治療の場に不衛生なものを持ち込んではまずいと、私はごみ収集ボックスを探しにいく。
私はまた理科室を出て、校舎の外にあるであろうゴミ置き場を探しにいく。
途中で、校舎内の階段の途中にゴミ箱と思しきものを見つける。
これ幸いと蓋を開けてみるが、中には何か液体がはいっており、しかも加熱されてぐつぐつと煮込まれている。
謎だが、ゴミ箱ではないことは明白だ。
いや、ゴミ箱の一種で、生ごみを分解しているようにも見えるが、よくわからないし、溢れそうなのでこれ以上は物を入れられない。
私は階段を降りて、ようやく校舎の昇降口でゴミを入れる箱を見つける。
そこにゴミ袋を入れる。
校舎のすぐ外には青々と茂った大木が何本も生えており。木漏れ日がまぶしく、薄暗い校舎の中にも光が差し込んできている。
この日の夢も二つの場面が順番に展開する。
深夜の旧宅と、眩しい昼間の小学校である。
どちらも四角形を組み合わせた空間であることは、当たり前のことのようであるが注意しておこう。
*
深夜の旧宅の方には、私の家族がいる。四人揃っている。
実際には、父はもう亡くなっているし、弟も遠方に居住しており、滅多に会うことはない。四人集まるのは現実には不可能なことなのである。
一方、眩しい昼間の小学校の方には、家族はおらず、仕事上の知人や学生の頃の友人、そしてその他大勢の世間の人がいる。
深夜の旧宅はプライベートな空間で、眩しい昼間の小学校は仕事や学校などパブリックな空間という感じだろうか。
深夜の旧宅 / 昼間の眩しい小学校
夜 / 昼
プライベート / パブリック
こういう感じの対立が大きく区切り出されているようだ。
そして昼夜それぞれの空間の中で、私は大騒ぎに巻き込まれる。
*
夜の空間では、家族が好き放題にしゃべり、それぞれ勝手に物を置いたり、食べたり、立ち歩いたりしている。
昼の学校では、突然走り出す人が火の中に飛び込んだり、その火傷の処置をしようと医療関係者ではなさそうな人たちが右往左往したりと、これも大騒ぎである。
私も、傍観者的に眺めてもいられないので、保健室の先生を探しに行ったり、謎のゴミ袋を捨てる場所を探しにいったりと、あちこち動き回る。
建物や部屋という四角形の枠の中で、私を含むたくさんの人たちが、あちらに行ったりこちらにもどったり、上がったり下がったり、右往左往しながら動き回る。
また、私にとっては「謎の物」たちが続々と空間に溢れていく。
深夜の旧宅の場面では、母や弟が持ち込んでくるよくわからないものたち。
学校の場面では、理科室に置かれた諸々の資材から、火傷の治療に使われているもの、火傷した彼の首から剥がされた皮膚、人工呼吸器に心電図といった、私には扱い方がわからないもの。
そしてなぜか私が持ち歩いているゴミ袋三つ、破れて中身が漏れそうになっているゴミ袋。
そうして謎の煮込みをつくっているポット。
それが「いったい何であるか」が不可得なものたちが、つぎつぎと高速で私に近づいたり離れたり、結合したり分離したりしていく。

結合を分離に転じる動き、分離を結合に転じる動き、そうした動きを表現する述語的様相に注目しながら、詳しくみてみよう。
まず夢見者が子供の頃に住んでいたマンションの一室である。
夢見者は四人家族である。
父 / 母
兄
/
弟
この四人のうち、夢の中では「父」と「夢見者(私)」が、二人で自宅マンションの中にいて、母と弟は不在である。
部屋の内 ←/→ 部屋の外
|| ||
父 / 母
|| ||
兄 / 弟
父と兄(夢見者)は結合している。
母と弟は結合している。
そして、父=兄のペアと、母=弟のペアは分離している。
ββ ーーー / ーーー ββ
こういう感じである。
+
+
ところで、ここは自宅のはずなのだが、夢見者と父は、共に「かなり久しぶりに」この家に戻ってきた感じがする。父も夢見者私も、もうずいぶん前にこの家から離れて、分離している。それがどういうわけだか、久しぶりに戻ってきた、という体である。
家と夢見者たちとの関係が、過度に分離した状態から、結合した状態へと転じているのである。
いや、家と結合したと言ったが、結合できていない、分離したままであるとも言える。夢見者と父は、家の中の勝手がすっかりわからなくなっており、「あれがない、これがない」と、目当ての物を探せずに、つまり分離状態を結合状態に転じたいと願うものたちと結合することができずに右往左往する。そもそも、自分たちが「何を探しているのか」、何と結合しようとしているのかもよくわからなくなる。
結合しているようで分離し、分離したまま結合しようとするも分離したまま。分離か、結合か、どちらかはっきり定まらない。

*
*
そこへ、後から母と弟も帰ってくる。家の中に入ってくる。
四人揃って久しぶりの一家団欒・・・とはならず、四者それぞれが好き勝手に「思い思いに言いたいことを喋り、好き勝手にテーブルに物を広げたり、何かを探してうろうろ歩き回る」。特に会話の噛み合わなさ、言語的なコミュニケーションが成立しているようで成立していないという様相が夢見者に強い印象を残している。夢見者は「この家族は、ほんとうに他人の話を聞かない、会話が噛み合わない人たちだなあ」という。
一方的に喋るひとが四人、同じ部屋のなかを動き回りながら何か喋っている。おたがいに言っていることは耳には入っているであろう。音声として聞こえているという点では、家族たちは言語を介して結合している。しかし、その音声の意味するところは伝わっていない。意図を伝え合うという意味でのコミュニケーションは分離したままである。
結合している様で分離している。
しかし。分離しているが結合していないわけでもない。

ここまでのくだりは上の図2の、1)〜4)の様相を激しく切り替えていく、分離と結合の伸縮の動きに相当すると言えそうである。
β
β β
β

* *
ここで夜になる。夢の中で、夜を迎える。
そして別の時空が意識される。
夢見者私は小学校の理科室のような場所にいる。4〜5名の大人がいる。外に見える校庭にも大勢の人がいる。先ほどの自宅マンションとは登場人物が違うが、しかし複数の人が集まって落ち着かない様子であるという述語的様相は同じである。

さて、この理科室風の場面で印象的なのは「火」である。
理科室から外を見ると、校庭で大きな火柱が上がっている。
神話によくある、巨大な火を思わせる場面である。
ここで分離と結合の激しい伸縮が起きる。
理科室という部屋、四角形の空間の「内」にいた人のひとりが、突然「外」へ、校庭へと走り出す。そして飛び跳ねながら火柱のなかにつっこんでいく!彼は火だるまになって走り回る。
人が踊りながら火の中に飛び込む。
実に神話的な場面である。
これは図2における1)の様相と言える。
β
β ※ β
β
さて、火だるまの彼は、なんとか理科室に戻ってくる。
案の定、火傷をしている。
ここで夢見者ら、理科室のメンバーは、彼を手当てしようとする。
火傷して爛れた彼の皮膚を、同僚の一人が引っ張って、分離しようとする。
首の皮を引っ張って分離する。これもまた神話的である。
火に包まれるという過度な結合モードから、首の皮を引っ張って外そうとするという、経験的には結合していて分離しないところをあえて分離しようとする、過度な分離である。
過度な結合から、過度な分離へ。
図2の1)から、2)または3)への展開といえよう。

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さて、このひっぱり。
丁寧な処置であるが、この同僚は医者ではない。素人が傷口を処置するのはいかがなものか、と夢見者は思う。そしてふと、ここが学校であるなら「保健室の先生」が居るのではないか、と思う。
そうして養護の先生を探して、夢見者は学校中を走り回る。
職員室。
音楽室。
家庭科室。
人が集まっている部屋がいくつもあるが、どこにも養護の先生は見当たらない。探しているのに見つからない、というのは、分離を結合に転じようと動いても、分離したままになっている、ということである。
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さて、夢見者は埒のあかない養護の先生探しを諦めて、もと居た理科室に戻る。すると、夢見者が養護の先生を見つけられずに右往左往しているうちに、救急隊が呼ばれており、どうやら適切な治療の準備が行われているらしい。
考えてみれば、養護の先生に大掛かりな外科的処置を頼めるはずもなく、ここは救急車を呼ぶ方が最適である。経験的に結合すべきところと結合しようとせず、結合する必要のないところと結合しようと動き回る。図2の2)〜3)の様相にみえる。
さてよく見ると、その応急処置で活躍しているのは、夢見者私の「学生時代」 の知人であった。彼は元々理科室に夢見者私の「仕事の同僚」が集まっていた時には居なかった人である。夢見者の経験的な時間の記憶のそれぞれ違う年代に分離された人たちが、実年齢の違いを超えて、一堂に会している。時間の分節がはっきりと区切られていないのである。
その学生時代の知人が手際よく人工呼吸のためと思われる手動ポンプをリズミカルに伸縮させている。
このリズミカルの伸縮は、図2の4)から5)へと至るモードである。


清/濁
そしていよいよ、最後の場面である。
応急処置の様子を眺めながら、夢見者私は不意に、自分が「生ゴミの入ったゴミ袋を三つ」手に持っていることに気づく。「袋が破れて、中身が漏れ出そう」な生ゴミの袋である。いかにも不衛生というか、細菌がたくさん繁殖していそうである。外科的な処置を施している場所には相応しくない。
清浄であるべき場所から、汚穢を分離すべきである。
結合すべきところは結合し、分離すべきところは分離する。
夢見者私はゴミ袋を三つ持って、保健室から退出し、ゴミ置き場を探しにいく。
分離と結合をはっきりと管理しておくべきだ、と夢見者は考える。
図2の5)から6)へのモードである。
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ゴミ置き場を探していると、まだ校舎の外に出る前、学校の廊下の階段の踊り場に、なにやら大きな円筒形をした容器を見つける。ゴミ箱か、コンポストのようなものだろうか。よくわからない。
試しに開けてみると、何かが煮込まれている。
食べ物ではないらしいが、調理されている様にも見える。しかし人間の食べる物という感じはしない。生ゴミを分解する機械なのかもしれないが、なんだかよくわからない。中身はいっぱいで溢れそうで、手に持っている袋を入れて良い感じではない。

この煮込みは、伸縮の振れ幅が小さく減衰した図2の5)に相当するモードである。
さて、夢見者は校舎の外にでて、ついに昇降口の近くにゴミ箱を見つける。持っていた三袋の生ゴミをその中に入れる。
清/濁
の分離を現世的に確定することに成功したのである。

生ゴミをゴミ箱に入れた後に、校舎や校庭、これまで走り回ってきた学校の敷地の全体像が光に包まれているような感じを俯瞰的に感得する。

+
もちろん、ゴミ箱に放り込んだからと言って、それで話は終わりではない。いまゴミ袋に入っているものたちだって、分子ひとつ、原子一つのスケールで考えれば、このあと適切に処理されて、分解されて、また地球の自然環境の一部としてめぐりめぐって、いつか私たち自身の一部になるのがこの生ゴミたちである。
とはいえ、いまのところは眼に見える経験的な範囲の分別を安定させることができればよいらしい。清/濁、つまり結合したいところと分離したいところの分別、第七末那識が分別する自/他の境界がはっきり定まりそうになったところで、夢見者は目覚める。

まとめ
今回の夢は、火に飛び込んだり、火傷した皮膚を剥がされたりと、かなり強く第七末那識をぞわぞわと刺激するイメージを繰り出しつつ、最終的に清/濁という、これまた自己の心身に結合しておきたいものと分離しておきたいものをはっきりと分節する第七末那識の分別をあ立ち上げるところへと展開していく。
この夢は、第七末那識を伸縮させる、なかなかエキサイティングな心のストレッチであった。
つづく
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