
天地の区別も時間も空間も、人類にとって意味ある世界の根源的な分別は、「分ける」から「分かれる」 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(115_『神話論理4 裸の人』-12)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第115回目です。『神話論理4 裸の人1』の第二部「こだまのゲーム」を読みます。
前回の記事はこちらです。
前々回の記事はこちら。
前回までの記事を読まなくても、今回だけでお楽しみ(?)いただけます。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?
まず「経験的感覚的な区別」について。
仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。下図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。
私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。
マンダラ
そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。

例えば弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなく分けないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。
およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかし、こだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)。この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。
転識得智
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。
特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。
ここで人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になるという。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層(自覚できるところとしては、前五識=感覚の分別=なにがあってなにがないのかの分別、第六意識の分別=思考の分別=ある何かがなにであってなにではないのか、ある何かは何であるべきで何であるべきではないのか、の分別。)の固着した様相である。
一方、心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。
この伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
*
神話や夢こそ、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
この神話と仏教、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。
マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。
マンダラは動いている
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。
一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。
両義的媒介項
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。
分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動
神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。
2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。
4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。
例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。
「分けるから分かれる」 —意味分節の起源
空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。
このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。

上記を、冒頭の転識得智の図に統合して、仮に下記のように描いておこう。

起源神話 —区別があること、それ自体の起源
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。
そしてこの区別が、神話では、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。
神話の語りを分析する
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。
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アビ=火おこし錐
前回までみてきたβアビ、「アビ女」の諸神話では、空間の分節の起源が語られた。

ところで、この「βアビ-女」、実は「β火おこし錐」でもある、という説をレヴィ=ストロース氏が紹介している(クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.176)。
水鳥のアビと、火おこし錐。
似ているところや同じところを探そうと思っても難しい二つの存在者であるが、実はこのβアビが演じる述語的様相と、β火おこし錐が演じる述語的様相とが非同非異の関係にある。
アビの述語的様相とは、周期的な回転運動である。
季節ごとに渡ってくるアビは、季節が規則正しく交代すること、回帰すること、その回転を反復する動きを、象徴することができる。
そして火おこしの錐もまた、その周期的な回転運動により着火する。
錐の回転運動が人間の手によって生じる時、前後にそれぞれ動く右手と左手の間で、錐の回転の方向は高速で真逆に交代しながら、規則正しい反復を描く。
大きく分ければ二つ、あるいはもっと細かく分けることもできるが、とにかく互いに異なるいくつかの状態が交互に交代して訪れつつ、規則的に回転する。
この動きが、アビの渡りと、火おこし錐の双方に共通しているのである。

アビの周期的な動きは夏と冬、季節を分節する。
すなわち、長周期の経験的な時間を分節する。
一方、火おこし錐は、雨避け風除けさえあれば、暴風雨の中であってさえ、人にその回転運動から火を起こすことを可能にする。
これは、自然と文化を分節することを可能にする。
自然に出火することもある火そのものではなく、あくまでも人間が、風雨の中であっても着火させる人工的な、文化の火。自然の火と文化の火を分けることをするのが火おこし錐なのである。
自然の火 / 文化の火

自然の火は、しばしば大規模な山火事のように人間には手のほどこしようのないスケールで広がることもあるし、逆に、雨に降られて人間の都合とは関係なく消えてしまったりする。自然の火は人間によるコントロールに従わない。
これはちょうどこの間の神話で、しばしばβアビ主人公が引き起こす大火にも似ている。大火から逃げようと、神話的な動物でもあり人間でもある村人たちは天へと上昇しようとするが、登っている途中に皆が乗っている籠に穴があくなどして、村びとたちは大火の中に落下し「飛ぶ心臓」になる。
*
一方、文化の火は、人間が自在につけたり消したりできる火である。
それは私たち人類が経験的感覚的によく知っている、日常の火、料理の火や暖を取るための火の姿をしている。
+ +

ここでもうひとつ、アビの神話を見てみよう。
三次元空間(遠/近、ここ/そこ)の起源
レヴィ=ストロース氏はこの神話を、特に「東から西への横断的な軸」に注目して読んでいる(クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.150)。すなわち、この神話は、東/西/南/北、遠/近、ここ/そこといった三次元空間という分節システムの起源を語っているとも解釈できるのである。
東/西/南/北、遠/近、ここ/そこ、といった三次元の空間というものは、宇宙を収めておく箱のようなものとして、宇宙開闢以前からあらかじめ「ある」ような何かではなく、あくまでも人間にとって経験的に意味ある世界を浮かび上がらせる諸々の分節システムのうちのひとつなのである。このことを、古来、人類に神話を語らせた叡智は、よくよく知悉していたというのがおもしろい。
M554 マイドゥ アビ女
湖のほとりの共同の家では、ワシとアビだけが女性で、そこで彼女たちは兄弟や従兄弟といっしょに暮らしていた。
彼らのうちひとりは、他の者たちより水浴びに出かけることがまれだった。
水のなかで拾った並外れて長い毛に好奇心をそそられたアビは、それがずっと以前から好きだったこの兄弟のものであることに気がついた。
彼女は水浴びに行く人たちが通る道を見張ったが、コヨーテだけがそれに気がついた。彼(コヨーテ)は後ろにいて、彼女を犯した。
おそらく、この出来事で若い娘の官能は目覚めた。というのも、そのすぐあとで、彼女は兄弟の「森の獣」に愛を打ち明けたからである。
村の長、マイドゥのソコティムが、彼女にコヨーテをはじめとしてべつの夫たち(アビ女が結婚を望んでいる兄弟ではない者たち)を提案したので、彼女は村に炎を投げ始め、自分の命令で太陽はまもなく家を燃え上がらせるだろうと告げた。
とうとう、愛する人が彼女に委ねられたが、あらかじめ、彼のペニスには性交を妨げるためのドングリの殻斗が被せられた。
ふたりが出発したとき、すでに日は落ちていた。
瞬きひとつで、彼女は太陽を地平線に消した。しかし、自分にならって未来の人間はあらゆる不品行に耽るだろう、と宣言しながら彼女がいくら努力してみても無駄で、彼女は愛人から何も得ることができなかった。
明け方、男は女の腕のなかに身代わりの薪を置いて逃げ出した。
*
皆がクモの編んだ綱に乗りこむと、クモはそれを天に掲げようとした。
目覚めるとアビは炎を投げながら村まで走った。
トカゲは網の底にいたが姉妹を見たいと思った。
彼が穴をあけると網は裂けた。
皆の身体は燃え盛る火のなかに落ちていくにつれ、はじけ、心臓が空中に飛び散った。
杓子の形に編まれた藁、あるいは種子の打ち木といった用具を使って、アビはそれらを捕えた。
まずは、トカゲの心臓を捕まえたが、「いちばんいいいくつかを逃してしまった」。自分のもとに残った心臓で首飾りをつくると、彼女はもっと北の湖に行って身を落ちつけた。
*
この間、ワシは山の上、谷の底、どこに落ちようとも、飛んでいった心臓を見つけてみせる、と誓いながら空を飛びまわっていた。ワシはそうして少しずつ心臓を見つけていったが、いちばん大事なふたつが欠けていた。
とうとう彼女(ワシ)は、遠く北の方で、ムナジロカワガラスと彼らの祖母から姉妹が近くの湖に住んでいることを教えてもらった。
村に戻って兄弟の弓矢を探すと、彼女はそれをムナジロカワガラスに委ねた。
彼らはアビが水に映った自分の姿を見つめているあいだに、この罪人を殺した。「もう悪いことはできないわよ」とワシは宣言した。
「今後あなたは殺される鳥になるのですからね」。
ワシは村に戻ると、湖に心臓を沈めた。
それらは翌日生き返った。
ついで、彼女は欠けている心臓を探しにふたたび北の方に出発した。
ある女性とそのふたりの娘がそこには暮らしていた。
どこからともなく聞こえてくる得も言われぬ美しい歌に注意をひかれて、娘たちはある日、みずからの涙で塩分を含むようになった土地に埋もれた心臓を見つけた。この土地の土をシカが嘗めにやって来ていた。彼女たちは心臓を掘り出すと世話をした。その持ち主の森の獣とテンは身体全体を取り戻すと、彼女たちと結婚した。
兄弟に会うと、ワシは、彼女とその一族が長い生を得るというこの試みに敗れることがなければ、人類は死を回避して、水に沈むことで生き返るだろう、と告げた。彼女は村に戻ると親族にも同じことを告げた。
「もしわれわれがこの試みに敗れるのなら、われわれの家は山に変わり、われわれは散り散りになるだろう」。
そして皆、何が起こるかを待った。
冒頭、「湖のほとり」の「共同の家」に大家族が暮らしている。
メンバーは一つ屋根の下にぎゅっと集まっており、図2の1)の様相にある。
β
β β
β
ところでこの大家族のなかに、二つの偏りが生じる。
第一の偏りは、男/女、比の不均衡である。
女性が二人だけで、あとは皆男性。
男女は同数ではなく、どうやら男性が相対的に多いのである。
男 / 女
|| ||
多い / 少ない(一人)
さらに、二つ目の偏り。男性たちの「うちひとりは、他の者たちより水浴びに出かけることがまれ」であるという。つまり男性たちが、
水浴びを好む者 / 水浴びを好まない者
という二つの対立するあり方に分けられ、しかも前者は人数が相対的に多く、後者は一人だけである。
水浴びを好む者 / 水浴びを好まない者
|| ||
多い / 少ない(一人)
この偏り、不均衡は、
β
β ーーーーーーーーー β
β
という感じで、図2の2)から3)にかけての振動の、ひとつの局面である。

「過度な分離」モードと「過度な結合」モードが交互に繰り返される
またこの兄弟たちのうちの相対的な少数派の一人が「水浴びを好まない」というのは、彼が、経験的にアビの領域である湖のような場所から、強く分離されているということでもあろうか。
しかし、この経験的なアビの領域=湖から強く分離された兄弟のうちの一人と、βアビ女の間には、インセストに向かう動きが生じる。
両者の間は、過度な分離から一挙に過度な結合へと転じようとする。
しかしこの過度な分離から過度な結合へと転じる動きは成就することなく、βアビが実際に結ばれる=結合するのは「βコヨーテ」であった。
過度に結合したいところとは分離したままになり、結合するつもりのないところ(分離しているところ)と過度に結合する。図2の2)と3)の様相が激しく転換しつつ、次第に4)の様相に均衡していくところである。

+
ここで村のリーダーは、βアビに対して、彼女の本命である彼女の兄弟以外の誰とでもかまわないから、と、適当に正式な結婚をするよう提案する。
正式な結婚というのは、過度な分離と結合の伸縮=交代を、一挙に落ち着かせて、付かず離れずの関係に転換し、静止させてしまおうとすることでもある。つまり図2の6)の様相が成立している状態が、正式な結婚が成っている状態である。村のリーダーは分離と結合を激しく伸縮させるアビの動きを危険なものと感じ、一挙に安定的な図2の6)モードへと、彼女の存在を転換しようと画策したのである。
しかし、その提案を、βアビは拒絶する。当然と言えば当然だろう。
神話の語りはまだ図2の2)か3)、あるいは4)にいるわけで、いきなり6)に切り替えてしまうのは危険である。
分離と結合の伸縮は、徐々に減衰させていく必要があるらしい。
+ +
火をつけてまわるアビ
さて、アビは、自分と実の兄弟との結婚が認められないのならば、村を丸焼きにしてやると、火をつけ始める。そして、太陽を地上に過度に結合すると予言する。
天/地の未分。
天/地の過度な結合。
いや、分離と結合の区別さえはっきりとしないモードである。

経験的感覚的に意味あるリアルな世界では、天/地の分節は定常化しており、太陽が地上に降りてきたりすること(=天と地の間の距離がゼロになって、分離せずに結合してしまうこと)はまずない(もちろん、遠い将来、地球が膨張した太陽に飲み込まれる日が来るとすれば、そういう天/地の過度な結合が絶対にありえないとはいえない)。しかし神話の語りを生み出す「野生の思考」では、この天/地の区別、地上世界と太陽を中心とする天体たちの世界との分離もまた、分けているから分かれているのであって(図2の6)のモード)、しっかりと分けておかないと(図2の1)〜4)のモード)、分かれないことになってしまう。くっついてしまう、結合してしまう場合もある(しない場合もある)と考える。
そしてこの神話の今のくだりは、まだ図2で言うと2)や3)のモードであった。天/地は分かれているでもなく分かれていないでもない関係にあり、やりようによっては太陽を地上に降ろして=天地を結合させて、地上を暑すぎる世界にすることもできてしまうのである。
また同時に、このβアビ女は「瞬きひとつで、彼女は太陽を地平線に消」すこともできるという。
太陽と地上世界とを、天と地とを、過度に結合するのも、過度に分離するのも、自由自在である。火をつけたり消したり自在。これがこのβアビ(=β火おこし錐?)の述語的様相である。
*
空間の分節もまだ、時間の分節もまだ
そしてこの、太陽を自由自在に地上に近づけたり遠ざけたりすることができる、ということは、逆に言えば、太陽の動きが規則正しい周期性をまだもっていないということでもある。この時点では。
太陽の動きが規則正しい周期性をもっていないということは、要するに、人類にとって経験的感覚的な時間の分節システム、一日のうちの昼夜の交代や、一年周期での季節のめぐり、といったことが、まだない(あるでもなくないでもない)のである。
空間の分節もまだ、時間の分節もまだである。

*
垂直軸での分離と結合・・天/地の分離と結合へ
さて、アビが村に放火し始めたので、驚いた村長たちは、渋々あわててアビの要求を飲むことにする。
村長たちは、βアビ女がその当初から夫にすることを望んでいた実の兄弟との結婚を認めるのである。こうして、太陽が地上と過度に結合する事態は回避されたが、しかし、実の兄弟姉妹間の結婚という過度な結合(インセスト・タブーの侵犯)がいよいよ成就しようかというところになる。
ーー
ところが、である。過度に結合するかと思わせておきながら、あわやと言うところで逆に、過度な分離へと転じるのが神話を語る野生の思考の論理である。
いよいよ、βアビとその水浴び嫌いの兄弟との過度な結合が実現するか、と思わせておきながら、なんとこの兄弟、一計を案じた村人たちによって「ドングリの殻斗が被せられ」ることで去勢状態におかれる。結婚式が始まる直前に新郎を去勢しておくわけである。なかなかアヴァンギャルドな村人たちである。
そうしてβアビ女はこの兄弟と結合しようにも結合できず、分離したままである。「彼女がいくら努力してみても無駄で、彼女は愛人から何も得ることができなかった」ということになる。
過度に結合するかとおもわせておきながら、すかさず分離したまま、完全に分離したまま、強い、過度な、分離のモードにひっくり返す。
+
挙句、兄弟はβアビ女のもとから逃げ出す。
分離する。付かず離れずの分離ではなく、過度な分離である。
身代わりに「薪」をβアビ女の腕に抱かせて、である。
燃料投下炎上必至である。
・・・
破れる籠
さて、案の定、βアビ女は逃げ出した夫を追いかけて、世界に火をつけながら、「炎を投げながら」村まで戻ってくる。
村人たち=村の動物=人間たちは、村人の一人である「クモ」が編んだ籠にのって、天に昇り、地上の大火を避けようとした。
+
しかし、兄弟の一人である「トカゲ」が、地上に火をつけてまわっているアビの姿を「みたい」と、籠の下に穴をあけてしまう。
せっかく籠で持ち上げて地上から分離したのに、穴を開けて、見る、という述語の様式でもって「結合」してしまったのである。
この籠にあいた穴から、籠の網目は裂け、中に入っていた人々は地上の火の中に落下していく。
昇ったと思ったら、落ちていく。
下から上へ、上から下へ。
上
↑↓
/
↑↓
下
この上/下方向での、天/地の間の分離を切り開くような動きは、図2で言えば、3)の述語的様相である。

分離と結合の伸縮が減衰へと向かう
そして地上で燃える大火の中に落ちた身体は「はじけ」て、バラバラに分離して、そのうちの心臓が飛び出して宙を舞う。
β ← /β/ → β
両義的媒介項βたちが「バラバラに」なって飛び散ろうとする。β項どうしの間の境界線を安定的に定めておくことができない様相は、図2の1)である(図2の1)ではβ四つがお行儀よく並んでいるように見えてしまうのはあまりよろしくない。いずれ別の図に書き直したいと思っているところである)。
この飛ぶ心臓に変身した村人たちを、βアビは、「種子の打ち木」や「杓子」という、種の中身を殻から分離する道具、水分の中からその一部を分離する道具、強く結合しているところを分離に転じる道具をつかって、捕まえる。
飛び散って世界各地に広がろうとしている心臓たちを捕まえて集める。
空(そら)から分離するのである。
そしてあつめて、結合して、首飾りにする。
こうして激しく動き回ったβ村人たちは、一連の輪っかという静止した状態に、配列されることになる。
β =/= β
|| ||
/ /
|| ||
β =/= β
この動き回らなくなった心臓の姿をした村人たちは、図2の4)の述語的様相であると言える。
+ +
そうして「北の湖」へ「身を落ちつけ」る。
つまりこちらもまた、動かなくなるのである。
激しく動き回っていたβアビが、居所を定める。
しかも、わざわざ「北」というからには、東/西、南/北の分節ができているということである。両義的媒介項βたちが動き回らなくなって、止まった、ということをもってして、三次元空間的な分節体系の定常化が成る。
また、飛び散った心臓たちのうちのいくつかは、アビにとらえられずに遠くへと飛んでいったのであるが、それらもまた、飛んでいった先のいろいろな地点に落下して、そこで動かなくなる。
βたちの間が分離モードと結合モードの間で激しく伸縮した挙句、ついに動かなくなる。図2の4)、分離と結合の動きが均衡して、止まったように見えるようになっている様相である。
*

安定的に分節された世界の設立へ
さて、ここから、アビの姉妹である「ワシ」が活躍する話になる。
ワシは、アビが起こした大火の中で心臓に変身させられた村の人々を助けるべく、心臓を集めに世界中を飛び回る。
「山の上、谷の底」
心臓になったβ村人たちを探しているうちに、ワシの飛翔は地形の複雑な高低差を作り出していく。
経験的感覚的に知られた現世の地形、地上世界の生成である。
・・
そうしてワシは、心臓を探し出しては集めていく。
そして遠くへ飛んでいった心臓のうち、未発見のものがあと二つ、という段階で、ワシは、「北」の地方でアビの居所を掴む。アビは多くの村人たちの心臓を首飾りにしたものを持っているのである。
*
ワシは「ムナジロ カワ ガラス」の老婆と、その二人の孫娘の助力を得て、アビを討ち取ることにした。

まずワシは、一旦もとの村、アビの大火で焼け落ちた村に戻って、兄弟たちの弓矢を回収する。そしてこの弓矢を北の方に暮らすムナジロカワガラス姉妹のところへ持って行って、託す。
ムナジロカワガラス姉妹はワシから授けられた弓矢でもってアビを、湖面に映った自分の姿に見惚れているアビを、周囲への注意が著しく散漫になっている隙をついて討ち取る。
アビは、もともとインセストを目論んでいた兄弟の「矢」を突き刺されて、インセストを目論んでいた兄弟の「矢」と過度に結合される。
こうして討ち取られたことで、βアビは、ワシが「今後あなたは殺される鳥になるのですからね」と言うように、狩猟対象の鳥に、つまり経験的感覚的に意味あるリアルな現世に存在する、普通のアビ、Δアビに変容する。
二つの両義的媒介項βを結合して、固めて、経験的感覚的な意味分節システムの最小構成単位である二項対立関係のうちの項を生み出す。図2の5)の様相である。
βアビ →← β兄弟の矢
↓
Δアビ
+ +
経験的に意味ある世界を定常化する意味分節システムの設立
さて、ここまでくると、神話を生み出す野生の思考は、いよいよ経験的感覚的に意味ある世界の分節システムである、二項対立関係を複数組み合わせた四項関係の定常的な均衡を設立するモードに入っていく。図2の5から6)である。
まず、βアビをΔアビに変換したワシは、心臓に変身したβ村人たちで作られた首飾り
β =/= β
|| ||
/ /
|| ||
β =/= β
を回収する。そしてそれを「湖」に沈めて、先ほど大火のなかで炙られたのとは真逆に対称的に、水の中でじっくりとクールダウンする。
一晩、湖水に浸けられたβ心臓たちは、「翌日生き返った」のである。
さて、この生き返った村人たちが、β村人のままなのか、Δ村人なのか、神話によってどちらのバージョンもあり得るが、ここでは引き続き当面はβ村人であるらしい。なぜならこのあとに、人間の生/死の分節の起源、死の起源の話がでてくるからである。つまりこの湖水で生き返った時点では、この村人たちは、生/死の二極の間を自在に行き来できるのであり、つまりある意味で不死身、何度死んでもいくらでも生き返ることができる両義的媒介項なのである。

+ +
さて、ワシのβ心臓を探す旅はまだ終わっていなかった。
β村人のうち「森の獣」と「テン」は、遠くの土地に落下して、大地に埋もれた状態のままだったのである。
β「森の獣」の心臓とβ「テン」の心臓は、地面に(おそらく半分だけ)埋まった状態で、美しい歌を歌う。歌は遠くまで聞こえ、歌い手と聞き手を分離したまま結合する。分離したままの結合とは、図2の4)を5)のモードへと安定化させる述語的様相である。
このβ「森の獣」の心臓とβ「テン」の心臓が埋まっていた場所は、塩分を含んだ土地になり、のちにそこがシカの集まる場所、経験的な現世における狩猟の場となる。Δ猟場の起源であり、Δ狩猟者とΔ獲物の付かず離れずの関係の起源である。他の神話ではこの埋まった心臓が流した涙が、塩分を含んだ湖や土地を生じた、と語る場合もあった。
さて、β「森の獣」の心臓とβ「テン」の心臓が歌う歌にひかれ、「ふたりの娘」がやってくる。ふたりの娘はβ「森の獣」の心臓とβ「テン」の心臓を地面から掘り出して、世話をして、その肉体を復活させ、結婚した。
= / = / =
死の起源
さて、ここでいよいよ神話は図2の6)、経験的感覚的に安定した意味ある世界を定常的に分節する、意味分節システムを設立する。
人間にとって、ほとんど絶対的に重い意味のある経験的感覚的に安定した世界とは、生/死の分別がある世界、個々の人間が生まれ、そしていずれは死を迎える世界である。
ワシは、β「森の獣」の心臓とβ「テン」(彼らもワシ、アビたちと兄弟である)が身体を取り戻し結婚していることを、再会して知る。
そして、おもしろい謎かけをする。
ワシやアビ、その兄弟たちからなる一族、神話の冒頭から激しく分離したり結合したりしていた一族たちが「長い生を得るというこの試みに敗れることがなければ、人類は死を回避して、水に沈むことで生き返るだろう」と言うのである。
長い生を得るという試み。
この試みには勝ち/負けが、成功/失敗がある。
もし成功すれば、何度でも生き返ることができる「人類(β人類)」が存在し続けることになるだろう。ワシやその兄弟たちが、神話的な両義的媒介項として、生/死の間さえ自在に行ったり来たりできる存在として、生き続ける世界になる。しかしそれは、現実の人間にとっての現世のあり方ではない。
そして、もし彼らが「長い生を得るという試み」に失敗すれば、生死を超えたβ人類は存在しなくなり、今日のわれわれ人類がよく知っている、生/死の分別がある世界、この現世が起源する。
そこではワシが「われわれの家は山に変わり、われわれは散り散りになる」と宣言したように、両義的媒介項β村人たちは、もはや人間でもなく動物でもない姿で存在し続けることはなく、彼らのβ家、アビに焼かれたり、再建されたりしたβ家は、この人類が見慣れた風景の中のΔ山に変容する。
そしてまた「われわれは散り散りになる」というように、β村人たちは、βアビがΔアビになったように、それぞれΔワシや、Δ森の獣、Δテン、Δムナジロカワガラスなどの姿へと「バラバラに」分離される。そしてそれらの中の一種としてΔ人類もまた生死の海をわたる存在者として起源することになる。
この神話の語りの最後が良い。
そして皆、 何が起こるかを待った。
分かりきった既知の事実に、あえて神話の語りの中で、両義的媒介項βたちの分離と結合の伸縮を語りきったところで、わざわざ言及する必要もないのである。
この神話について、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
とりわけマイドゥのヴァージョンは、周期性というきわめて通時的な概念に訴えて、M553でしきりにおこなわれていた共時的な二分化に取って代わらせている。
時間の分節。
時間の分節は、古来、人類にとって、一日の昼夜の交代、一年周期の季節の交代、そして個々人の一生の生/死の交代、というすがたでありありと経験されてきたことである。
+
時間、空間、生死
これらの分別、分節は、人類にとっては所与の条件のようなものとして経験されるが、それもまた分けるから分かれるのだということを、古来、そして現在でも、人類の心の深みで無意識のうちに動いている「野生の思考」の論理でうごく叡智、あるいは霊性は、よくよくご存知なのである。
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