
分ける動き、結ぶ動きを体現する者たちを、身近な日々の営みの中に探す-レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(116_『神話論理4 裸の人』-13)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第116回目です。『神話論理4 裸の人1』の第二部「こだまのゲーム」を読みます。
前回の記事はこちらです。
前々回の記事はこちら。
前回までの記事を読まなくても、今回だけでお楽しみ(?)いただけます。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったいどういうことだろうか?
まず「経験的感覚的な区別」について。

仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ結合したもの(Δ1=Δ2)を、ひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。
下図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。
私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界は、二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
これらの区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。
マンダラ
そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係、
Δ=/=Δ
|| ||
/ /
|| ||
Δ=/=Δ
という姿が定常的に安定して浮かびあがり得るように均衡している状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。

二項対立関係の対立関係、四つのΔの均衡を保つためには、この四つのΔを、互いに区別できないように混じり合ってしまわないように分離する一方で、離れすぎてしまってペアになっていることがわからなくなってしまわないように結合するという、分離しつつも結合し結合しつつも分離する動きが動いている必要がある。この分離する動きと結合する動きを表現する述語を引き受ける主語の位置を占めうるものが、図1にβと表現した項、両義的媒介項である。
主語的なもののペア、述語のペア、分ける述語と分けない述語のペアを分けるでもなく分けないでもなく
例えば、弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない、分離しきるでもなく結合しきるでもない、分別無分別どちらか不可得なモードとを、二重化した心のモデルを示している。
およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかし、こだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)。この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、分離しながら結合し結合しながら分離する、非同非異、二辺を離れるでもなく離れないでもない「空」ということを覚るべしと教えるのである。
転識得智
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。
特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。
ユングによる意識の四機能
ここで人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になるという。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層(自覚できるところとしては、前五識=感覚の分別=なにがあってなにがないのかの分別、第六意識の分別=思考の分別=ある何かがなにであってなにではないのか、ある何かは何であるべきで何であるべきではないのか、の分別。)の固着した様相である。
一方、心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し、結合しつつも分離するという伸縮自在な動きを表している。
この分離と結合の伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
*
神話や夢は、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影である。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
この神話と夢と仏教、その他、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。
マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。
マンダラは動いている
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。
一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。
両義的媒介項
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。
分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動
神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。
2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。
4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
「/」(分ける)と「||」(結ぶ)は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。そして「=/=」と表記した様相においては分離しつつ結合し、結合しつつ分離する、分離することが結合することでもあり、結合することが分離することでもある、という関係になる。
+
この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。
例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。
「分けるから分かれる」 —意味分節の起源
意味分節というと、人間の主観と客観との分節を所与のものとみなした上で、主観の側の、主観の内部の何かなのではないかと考えられる向きもあるが、ここでいう意味分節はそうした主観内部の話ではない。主観/客観の分節もまた、人間が経験的に意味ある世界を理解しようとする時に用いるひとつの意味分節の最小構成単位なのであると考えてみたい。これは主/客にとどまらない。空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。
主/客
生/死
遠/近
内/外
有/無
こういったこともまた、分けるから分かれるのだ、となると、もしこれらを分けない、いや、分けるでもなく分けないでもない境位に入ることができるなら、そこで私たちの「心」は一体なにを経験することになるのだろうか?!
神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。

上記を、冒頭の転識得智の図に統合して、仮に下記のように描いておこう。

起源神話 —区別があること、それ自体の起源
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。
そしてこの区別が、神話では、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。
神話の語りを分析する
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。
異文ごとに手厚く語るフェーズが異なる
*
*
以上を踏まえ、人類の叡智たる野生の思考が生み出した「神話」の一例として、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話を読み解いてみよう。
前回までの記事では、神話というものが、私たち人類にとっての、まさに人類ひとりひとりにとっての、経験的感覚的に意味のあるリアルな(=切実な、のっぴきならない)世界の起源を語ろうとしているということをレヴィ=ストロース氏の導きにより読み解いてきた。そして神話が世界の起源を語るやり方というのは次のようになっている。まず、人間にとっての経験的で感覚的に意味あるリアルな世界というものが二項対立関係を組み合わせた分節システムとしてできているのだということを明らかにし、その上で、ありとあらゆる二項対立関係は、対立する二項は、分けるから分かれるのだということを示そうとする。
そして、時間(いま/いま以外)や、空間(ここ/ここ以外)、生/死、人間/人間以外の動物(特に人間がその肉を食べることができる動物)といった、およそ人間にとってリアルな世界の経験の大枠をがっちりと固めているかのように思われる対立関係もまた、分けるから分かれるのだということを、神話の言葉は止むことなく説き続けている。
+
今回も引き続き「アビ」の神話をみてみよう。
前回の記事でくわしくみた神話とよく似た異文の関係にある神話である。

今回みる神話「M555a,b シャスタ アビ女」についての報告では、経験的で感覚的な現世の分節システムの確立、安定化、定常化、といった局面はあまり手厚くは語られず、その前処理にあたる激しい分離と結合の伸縮を少ない言葉で端的に伝えることに力点が置かれている。
M555a,b シャスタ アビ女
ひとりの女性が十人の息子、ひとりの娘とともに暮らしていた(M555b、十人の子供でいちばん上が娘)。
*
この娘はいちばん下の弟に夢中になったので、母親は彼を隠さねばならなくなった(M555b)。
あるいは、彼は自分で隠れ、ほかの兄弟がインセストをおこなった(M555a)。
しかし、女主人公は自分の好きな人を自分に引き渡すようにさせた。
M555aによれば、この二番目のインセストはやはり成立したようである。が、ふたつのヴァージョンで、主人公は遅かれ早かれ逃げ出して、家族といっしょに天に登ろうとする。
*
彼女は、逃亡者たちが共犯を取りつけておかなかった「灰」に教えてもらうか(M555b)、あるいは自分がかき立てた炎の上に昇っていく火の粉を無意識に目で追っているときに(M555a)、彼らがまさに天に登ろうとしているのを見た。
彼女が呼びかけると、母親(M555b)か兄弟のひとり(M555a)が誤って彼女を見てしまう。ロープが切れて、皆が燃え盛る火のなかで死んだ。
愛する兄弟の心臓ははじけ、飛んでいって川の近く(M555a)か、海岸(M555b)に落ちた。M555aだけが、女主人公が焼けた骨を集めて、それで髪を飾ったことをつけ加えている。
*
カモ(M555a)かカモメ(M555b)の二姉妹が心臓を見つけて、持ち主の身体すべてを復元し、彼と結婚する。
女たちは複数の男の子(M555a)か、ひとりの少年とひとりの少女(M555b)を産んだ。
**
自分たちだけで、あるいは父にそそのかされて、子供たちは殺人者のおばの小屋を見つける。
彼らは父親から矢を借りて、それに石の矢じりをつけた。
が、おばは彼らの攻撃に頑強に反撃した(M555a)。
あるいは、父親自身も闘いに参加したが、より成果があがったというわけではない(M555b)。
++
最後にマキバドリが「明るく光っている」(M555a)、「火のような」(M555b)人喰い鬼の女の心臓が彼女のかかとに隠されていることを教えた。
この弱い部分に一本の矢が当たると、彼女は大音響とともに倒れ、その音は世界中に響きわたった。彼女の小屋を焼いたあとで、彼女も土に埋められた。
冒頭、図2の1)→2)と思われる様相から物語は始まる。
まず、大人数の家族が登場したことがわかる。母親と十人の息子と一人の娘、つまり十二人家族である。一つ屋根の下に十人以上がぎゅっと集まって暮らす図2の1)を思わせる様相である。
+
ところがここにさっそく不均衡、偏りがみえる。
父/母、男/女
まず「母親」とあるが、「父親」が不在のようである。
父 / 母
父/母が揃って、両者の間が付かず離れずに対峙しているというのが経験的に分離する動きと結合する動きが均衡した状態であるとすれば、父親がどこかへ分離しているらしい状態は、どちらかといえば不均衡である。
・・
そして次に男女比である。
男/女
経験的には、世界には男性と女性は同じくらいの人数がいるはずであるが、この家族においては男性が多く、女性は二人だけである。ここにも男女の間で一方に偏りがある。
β
β ーーーーーーーーーー β
β
過度な結合と過度な分離のあいだでの急展開
さて、ここから過度な結合の様相と過度な分離の様相との間の激しい交代、伸縮が急展開する。
まず、兄弟姉妹のうち、唯一の娘(アビ女)が、十人の兄弟たちのうちの一番下の弟に、好意を寄せるようになる。過度な結合へと向かう動きである。
インセスト・タブーの侵犯を恐れた母親は、この一番下の弟を、どこかへ「隠す」ということをする。過度な結合を、過度な分離へと転じる動きである。姉から弟(?)へ過度に結合しようとしたのに対して、この弟は姉から見えないところへ姿を隠す(隠される)ことで過度に分離する。

+
ここでなぜか突然、兄弟のうちの末弟とは別の一人が、意味不明、脈絡なしに、この姉と「インセストをおこなう」に至る。過度に結合するのである。
もともと過度に結合しようとしたところは過度に分離したままで、逆に、結合しようと思っていなかったところ=分離していたところが過度に結合する。
結合したいところは分離したままで、分離しておきたいところは結合する。
分離/結合
分離する動き/結合する動き
この対立する二極のあいだじたいが、激しく分離したり、激しく結合したりする。
想定外のインセスト、この結合は、またすぐに分離に転じる。
唯一の娘はこの望まないインセスト婚を拒否し、つまりこの兄弟のうちの誰かとは確定的に分離することを選び、代わりに、当初から結合することを望んでいた末弟(?)とのインセスト婚を認めるよう要求する。
そしてその要求は認められるのである。
こうして先ほどは分離していたところが、今度は過度に結合するように転じる。
こうして過度な結合が成就して、過度な結合モードが固定されるか、と思わせておきながら、しかしこの結合は、結合せず、過度な分離へと転じる。
姉とインセスト婚をさせられることになった末弟は、姉のもとから「逃げ出」す。つまり結合しかけたところから分離する。
過度な結合は、決定的な分離へと転じるのである。
分離は結合へ、結合は分離へ。
同世代間の「結婚」という水平的な軸上で、分離すること/結合すること、この二つの述語的様相の間が激しく交代する。

天/地の間の過度な分離と過度な結合
さて、先ほどの姉弟の結婚話が同世代間の、いわば「水平」軸上での分離と結合の伸縮(図2の2))であったのに対して、次の場面、村人たちが天に昇ろうとしながらも落下するくだりでは、垂直軸方向での分離と結合の伸縮が見られる。図2の3)である。
β
ββ
↑
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|
β
すなわち家族たちは、姉との結婚から逃げ出してきた(分離してきた)弟を追いかけて(分離を結合に転じようとして)きた一人娘から逃げる=分離する=結合しそうなところを分離に転じるために、垂直軸、上/下の「下」から「上」方向への移動を試みる。
ここで逃げた弟を追いかけてきた姉は、家族たちの家に火をかける。
全てを飲み込み図2の1)のような様相をもたらす火である。
この地上の大火から逃れるべく、家族たちは上へ上へと上昇していく。この上昇するという動き、述語的様相を通じて、上昇運動の起点としての地上と、上昇運動の終点としての天上が、分離されはじめる。大火で燃え盛る地上とは、要するに太陽が地上にくっついている状態と等価である。つまり天の代表のような太陽が地上に降りてきている=天地が未分である、ということである。

この天地未分のところで動き始める、上下方向で二極を区切り出すような動きが、家族たちの天への上昇なのである。
しかし、この天/地の分離が過度なものにならないよう、分離しすぎないよう、付かず離れずを保つように、家族たちの上昇は止まり、そしてまた地上に戻ってくる。ただしその戻り方は激しいものである。家族たちを上空に引き上げていたロープが切れて、家族たちは地上へと落下するのである。
両義的媒介項〜分離と結合を伸縮させる(分離を結合に転じ、結合を分離に転じる)「灰」が、天/地を付かず離れず均衡させる
落下のきっかけになるのが「灰」である。
灰は火から生じたものでありながら、しかし燃えることなく、むしろ扱い方によっては火を消すものである。灰は火を消すという面では反-火、火に鋭く対立するものでありながら、しかしまた灰は火から生まれるものであり、元々は火と不可分一体、火と「同じ」ものであった。灰は火と真逆に異なるがしかし同じでもあるという、非同非異の関係にある。

火と非同非異である灰は、火と、反-火の間の両義的媒介項になる、といえそうである。
火 ← β灰 → 反-火
とにかくも灰の介在により、家族たちの上昇は下降に転じ、天/地の間は過度に分離することなく、付かず離れずになった。
また、これによって、地上の大火は鎮火したらしく、地上には「川」が、つまり水の流れが生じる。
空の太陽が地上に結合している天地未分の「暑すぎる」状態は終わり、天/地の間が分かれ、太陽は地上を焼き尽くすものではなく、天上に居るものになり、地上には水の流れが維持されるようになった、というのと等価な状況に至る。
また逆に天/地が離れすぎてしまうこともなく、「灰」によって適度に調整された地上の火、料理の火が、安定的に燃える世界がひらけてくる。

天/地の付かず離れず、分離と結合の均衡のはじまりは、図2の4)から5)へと至る様相である。

分離と結合を過度に伸縮させ得る両義的媒介項たちは、分離と結合が均衡した現世の表層からは排除される
さてここで、落下した兄弟たちの「骨」は、大火を起こした張本人である姉の手で、川のなかから回収されて、髪飾りにされる。
前回までの神話では骨ではなく「心臓」たちが「首飾り」にされている。
今回の「骨」の髪飾りが円環状のものかどうかよく分からないが、仮に円環状に結ばれたとするならば、その形状は、
β = / = β
|| ||
/ /
|| ||
β = / = β
ということで、図2の4)になるはずである。
図2は便宜上、1)から6)へと順番にステップを踏んで展開しているように描いてしまったが、実は、1)〜6)の各段階の間も無段階に連続しており、また実際の神話の語りがいつも1)〜6)へと順番にワンステップづつ展開するということではなく、2)〜4)のあいだで激しく行ったり来たりする。5)になった後に、またより小規模に1)〜4)をやり直すといったことも起きる。

別の家族との結婚。分離と結合の均衡
さてここで、別の家族が登場する。「カモ(M555a) 」か「カモメ(M555b)」の家の二人姉妹である。
彼女たち二人セットになった動物人間は、人間/動物という経験的に対立する二極をひとつに結合した両義的媒介項のペアである(Δ→β←Δ)。
このような両義的媒介項が登場したということで、神話はまだまだ図2の6)には落ち着かず、引き続き、分離する動きと結合する動きを伸縮させるのであろうということが窺えるが、このカモまたはカモメの姉妹については、冒頭のインセストや大火に比べると、分離と結合の伸縮が、ずいぶんと穏やかになっている。
アビの家族たちのインセストや大火が図2の1)〜3)の動きであったのに対して、カモまたはカモメの姉妹の動きは図2の4)や5)のモードである。
姉妹が一人の夫を共有する結婚
このカモまたはカモメの姉妹は、川の中に落下した「心臓」を救出し、癒し、心臓の主の肉体を復活させ、そして彼と結婚する。この心臓の主は、姉とのインセストで激しい分離と結合の伸縮を引き起こしていた末弟である。
末弟は、姉とではなく、別の家族(カモ家族、カモメ家族)の生まれである娘たちと結婚をすることになる。この結婚は当然ながらインセスト・タブーを侵すものではなく、二つの家族の間での結婚である。
ただしこの結婚、一人の男が二人の女性(姉妹)を妻にするという点で、まだ一抹の不均衡を抱えている。とはいえその不均衡は、インセストほどの不均衡ではない。インセストが図2の2)だったとすれば、この姉妹二人を同時に妻にする結婚は、図2の4)くらいの感じである。
これはちょうど、日本の神話でいえば、山幸彦と豊玉姫・玉依姫の関係で語られるくだりと、伸縮モードに関しては近いものがある。
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そしてこの結婚から、子供が生まれる。神話によって、生まれる子どもは「複数の男の子」であったり、ひとりの男の子とひとりの女の子のペアであったりする。とにかくこどもは「二人」生まれる。
ここに
夫 / 婦
親 / 子
兄/弟/姉/妹
といった経験的な家族に見られる付かず離れずに均衡した関係が定常化してくる。これは図2で言うと、4)から5)が浮かび上がりはじめるといったところの様相である。
ちなみに、ここではまだカモやカモメというのはβカモ人間やβカモメ人間である。図2でいえば4)と5)のあいだくらいである。ここから図2の6)に至るためには、この両義的媒介項たちは、すべて世界の表面から姿を消して、経験的に知られたあの普通のカモや、普通のカモメ、普通のアビ、そして普通の人間へと、縮みすぎず伸びすぎず、のあり方にならなければならない。

激しい分離と結合の伸縮を引き起こす両義的媒介項を排除する
さて、この子供達は、かつて大火を起こして彼らの父を心臓と骨に変えた張本人である「おば」(アビ)が住んでいるところをみつける。そしてもう二度と、インセストのような分離と結合の過度な伸縮(図2の2)〜3)のモード)が生じないように、このおばを退治しようとする。
子どもたちは弓矢でもって、おばに戦いを挑むが、おばも反撃をしてくる。弓矢は、狩猟者と獲物のあいだを、分離したまま結合する述語的様相を体現したものである。
この勝負は簡単にはつかない。
この戦いは、どちらが勝者になるでもなく敗者になるでもない、勝ち負けがはっきりと分節されない様相になる。
勝ち/負け
そこに新たな登場人物「マキバドリ」が現れて、分離と結合の過度な伸縮を象徴するこのおばの弱点を教える。

すなわち、彼女の「β心臓」は、経験的なΔ心臓がそうであるような体の上下左右の真ん中あたりにではなく、体の真ん中からずれて、その一番端である「かかと」の位置に隠されている、と。
子どもたちはβおばの「かかと」を狙って矢を放ち、ついにβおばを倒すことに成功する。
両義的媒介項βの「かかと」つまり「端」を分離することで、つまり両義的媒介項βを長く引き延ばして、切り取る=分離するのに相当する処理を行うことで、
Δ ← β → Δ
という具合にΔ項を析出する。

* *
倒されたβおばは、よほどの巨人だったのだろうか。そもそも両義的媒介項なので大きくなったり小さくなったり、「三枚のお札」の山姥のように大/小どちらかという分別も不可得である。
いずれにせよ、大きさはよく分からなくなっているが、その倒れる音といえば「世界中に響きわた」るほどの大音声になった。
そうしてその倒れた身体は土に埋められ、つまり現世の地上世界から見えないところへずらされ、隠され、また彼女の「小屋」も、現世の地上世界からは焼いて消される。
こうして過度な分離と結合の伸縮の動きを動かす両義的媒介項βの姿は、表向きにはこの世界から見えなくなった。現世のこの経験的感覚的に意味ある世界というΔ四項関係、意味分節システムが定常的なものとして安定したのである。

+ +
主語が何であるかの前に、分離する述語と結合する述語がどう転換しているかが問題
この神話と、これまでのよく似た神話との大きな相違点について、レヴィ=ストロース氏は次のように指摘する。
しかしふたつのシャスタのヴァージョンはいっそうラディカルな反転をおこない、ほかでは再生の手段であった心臓そのものを、絶滅の手段としてしまっている。女主人公は不死身の身体をもっているが、かかとのなかに隠された心臓だけが、まさにべつなのである。だから、彼女が外に取り出した心臓が、彼女によって殺された家族が生き返る素地になるというのではなく、ここでは彼女こそが、はじめから自分にとって外のものである心臓、彼女を殺そうとする親族の標的となる心臓のなかで死ぬのである。
ここでかいま見られるのは、西ではシャスタのヴァージョンが、東側に位置するヴァージョンとはべつの軸の上で中央の神話を反転させているということである。
すなわち生/死の対立に重ねると、「心臓」というものが、前回の記事でみた神話などでは、死を生へと転換するものであったのが、今回は生を死に転換するものになっている、ということにレヴィ=ストロース氏は注目する。
生 / 死
生→死 / 死→生
内 / 外
分離 / 結合
経験的感覚的に分別できる二項対立関係を、どちらの向きで重ねるか。図2の6)のモード、安定した分節体系となった現世においては、あちらとこちら、どちらがどちらかは大問題であるが、しかし神話の語りの中では、図2の1)〜4)の様相では、どちらがどちらでも構わないのである。
ΔA /Δ非A
ΔX /Δ非X
この二つの二項対立関係を「重ねる」というとき、
ΔA /Δ非A
|| ||
ΔX /Δ非X
でもよいし、
ΔA /Δ非A
|| ||
Δ非X /ΔX
でもよい。
なぜなら、
ΔA /Δ非A
|| ||
ΔX /Δ非X
であれ、
ΔA /Δ非A
|| ||
Δ非X /ΔX
であれ、どちらも図2でいえば6)の様相である。
神話の論理にとって大問題なのは6)に至るまでの、1)〜5)の分離と結合の伸縮の動きである。この1)〜5)の伸縮の動きを通じての、
(Δ) / (Δ)
|| ||
(Δ) / (Δ)
という関係が定常化するに至る経緯を描き出すことができるなら、語りの最後に浮かんでくる経験的で感覚的なものたち(Δ)のどこにどれを当てはめるかという並び方のパターンは、どれがどこであっても構造的には等価ということになるらしい。対立する関係にある二項はくるくるとその位置を入れ替えるのである。それが分離と結合の伸縮ということである。
+ + +
なぜアビ?
分離する述語と結合する述語がどう転換しているか?
つまり、「構造」が重要である。
すなわち、分離する動きと結合する動きの伸縮が均衡に至るダイナミックなプロセスが重要で、その動きを語るための述語に乗っかってくる主語の役割を演じるものはなんでもよいとはいいつつも、とはいえやはり、神話が人間の言葉で語られ、人間が聞くものである以上、ある程度、経験的にも分離を結合に転じるような動きをしているもの、結合を分離に転じるような動きをしているもの、を、両義的媒介項βの位置にすえたほうがよい。そうでないと、分離と結合の伸縮の話をしているのだということを、聞き手の心に感じさせることが難しくなる。
この際、「アビ」は、「季節の変化を告げる」という点で、図2の1)〜6)のモードチェンジの全体を動かしていくいくつもの述語たちを引き受ける共通の主語として「もってこい」の経験的感覚的にリアルな存在者なのである。
死者が甦り、混乱に決着がつけられるためには、神話の主役たちは三度にわたって、宇宙の周期性の要求に屈しなければならない。まず、地形の起伏、すなわち転調された空間をつくることで。つぎに、暦を参照して決められた矢じりを正義の矢につけることで。なぜなら、矢じりは骨(非-石)でつくられねばならず、その骨は一年のうちで異なる時期に殺された動物からとって来なければならないからである。最後に、季節の変化を告げるという積極的な機能をアビに与えることで。そのときはじめて、生活はふたたび「かつての」ように始まることができるだろう。
アビは、季節ごとに、これらの神話が語られる土地にやってきたり(分離の様相から結合の様相へと転じたり)、また別の季節になると、よその土地へと去っていく(結合の様相から分離の様相へと転じる)。
ここにまず、空間的な分節、「ここ」と「ここではないどこか」とが、分離されながらも結合し、結合されながらも分離する、という第一の「周期性」を示す分離と結合の伸縮する動きが動く。
そして第二に、このアビによる分離と結合のあいだの交代は、一度きり起こったらもう二度と起こらないというものでもなく、またランダムに起こったり起こらなかったりすることでもなく、規則正しく、周期的に、「暦」を、時間の分節を刻むようにも動く。
そして第三に、この時間の分節は単に互いに区別できる時点があるということではなく、「季節」、春夏秋冬とそれぞれの季節の先住民の人々の生業の変化という、経験的で感覚的な世界の様相の変化の周期的な交代も刻む。ここに「生活はふたたび「かつての」ように」、つまり経験的感覚的によく知られた意味ある世界のリアリティを定常的に分節できる、意味分節システムが安定稼働するようになる。
こうしたときに、渡り鳥であるアビは周期性という、分離モードと結合モードの間を規則正しく交代させていく運動、つまり図2の5)を安定的に、定常的に、動的に均衡させ続けるように動く動きを表現する上で、ぴったりの主語なのである。

経験的に意味ある世界を安定させる、根源的な分節のひとつが、自然と文化の分節
時間の分節、空間の分節、そして季節の周期的な交代・反復という動的、述語的な対立関係の安定化。こうしたことは人間にとって経験的で感覚的に意味ある世界の安定を支える根源的な分節になるが、他にも、いくつかそうした根源的で切実な分節がある。そのひとつが
自然(野生) / 文化
の二項対立であったり、
生 / 死
の二項対立であったりする。
アチョマウィのヴァージョンのひとつ(M551)は同じ起源論的機能を果たしているが、それに反転された表現を与えている。
まず、形式の観点から、というのも、起源論的に意味深いエピソードは、ここでははじめではなく終わりに置かれているからである。
このエピソードはそこで、種とその多様性、そしてその分散の起源を扱っている。だから、ひとつの神話はまず文化の起源を語ることで始まるが、もうひとつは、自然の秩序の起源を、その秩序が未分化な原初の状態から姿を現わした時点で語って終わることになる。
この違いは内容に作用を及ぼすが、M551は、M550以上に、満たされているか窪んでいるかという地形の起伏の特性を強調しているので、違いはいっそうきわだっている。
しかし、はじめは、同じ屋根の下で暮らす人間の一家族を構成していた神話の登場人物たちが、最後には、べつべつの種の、散り散りに離れて暮らす動物になるというのだから、おそらく、彼らは、以後、インセスト的な結合と、あまりに近くにいることから来る危険な結果からは護られることになるだろう。それでも、M550の終わりが告げたのとは違い、彼らにとって、生活はもはや、ふたたびかつてのように始まることはけっしてないであろう。
「死者の甦り」 や、ベビーから子供へ、そして大人へという経験的な成長も、「周期性」のひとつのあり方である(p.159)。「神話的時間から歴史的時間への移行」(p.158)、つまり図2の1)〜4)のモードで行ったり来たり、伸びたり縮んだりする時間から、6)のモードで規則正しくリズムを刻み一直線に伸びていく時間への移行、すなわちβ伸縮時間から、Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ時間へ。後者では、「人類はもはや死者を甦らせることはできない」ことになるし、人類の「寿命の長さ」も限られてくる。すなわち、経験的なΔ生/Δ死の分別の起源である。
幾多の人が生まれ生まれ生まれ生まれて、死に死に死に死ぬことは、周期的に繰り返されることであるが、しかしあくまでも一人の人間の主観的な自己意識の身体感覚からすると、自らの生も死もただ一回きりのことで、繰り返されているようには感じられない。
しかしひとたび神話的な時間からみれば、生き死にもまた周期的な反復以外の何ものでもない。
以上見たように、われわれが手にしているふたつの起源論的な神話は対になっている。もっとも、こういってよければいっぽうは文化を、もういっぽうは自然を鍵にして書かれており、周期性が帯びることのできる空間的・時間的側面も、それぞれ違った割合で配合されているのであるが。
この点からすれば、M551は全面的に空間的に見えるが(山と谷に区別された地形の起伏の多様性、分散に結びついた種の多様性)、M550は空間的次元と時間的次元のあいだで等しくバランスをとっている(地形の起伏と、季節の周期性)。
さまざまな神話は不思議なほどいつもおなじように、分離と結合の伸縮を、図2に示したいくつかのモードを次第に移行させていくという形で表現するが、その表現はあくまでも「経験的区別」を用いて行われるのであり、その経験的区別とは、時間的次元でのΔ/Δの感覚的に分別される対立関係であるし、空間的次元でのΔ/Δの感覚的に分別される対立関係であるが、そのときどきで実際に、どのようなΔ/Δ経験的区別を分離と結合の伸縮を概念の道具とするか=言語化する=分離と結合の伸縮を描き出す述語を担う主語の位置に立つものとして連れてくるかは、じつに千差万別、自由自在なのである。
この間『神話論理4 裸の人』の前半でみている神話は北米神話であり、北米の風土における地形や季節の交代、動物たちの活動や、人間の生業がΔ/Δ経験的区別として引き合いに出されてきたが、これが例えば、現代の日本であれば、どういうΔ/Δ経験的区別でもって図2の動的マンダラ伸縮プロセスは言語化、イメージ化されるのであろうか。
その身近なサンプルは、私たちが日々寝ているときに見る「夢」から、いくらでも拾うことができそうである。
ここしばらく、『神話論理』の話を続けてきたが、また夢の分析にも取り組みたいところである。
