
時空間の分節の手前を、複数の座標系の間の写像関係として記号で記述=分節しようとするのも人類の心であるという -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(114_『神話論理4 裸の人』-11)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第114回目です。『神話論理4 裸の人1』の第二部「こだまのゲーム」を読みます。
前回の記事はこちらです。
前々回の記事はこちら。
前回までの記事を読まなくても、今回だけでお楽しみ(?)いただけます。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?
まず「経験的感覚的な区別」について。
仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。下図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。
私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。
マンダラ
そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。

例えば弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。
およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかし、こだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)。この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。
転識得智
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。
特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。
ここで人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になるという。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層(自覚できるところとしては、前五識=感覚の分別=なにがあってなにがないのかの分別、第六意識の分別=思考の分別=ある何かがなにであってなにではないのか、ある何かは何であるべきで何であるべきではないのか、の分別。)の固着した様相である。
一方、心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。
この伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
*
神話や夢こそ、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。神話は、仏教が色即是空にして空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
この神話と仏教、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。
マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。
マンダラは動いている
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。
一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。
両義的媒介項
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。
分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動
神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。
2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。
4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。
例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。
「分けるから分かれる」 —意味分節の起源
空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。
このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。

上記を、冒頭の転識得智の図に統合して、仮に下記のように描いておこう。

起源神話 —区別があること、それ自体の起源
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。
そしてこの区別が、神話では、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。
神話の語りを分析する
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。
*
神話の語りは時系列で展開するけれども
前回の記事で取り上げた神話では、図2に示した1)〜6)の展開が、時系列に、単線的に切り替わっていくのではなく、1)〜6)の各モードが時間の分節に照らして言うならば同時に、空間の分節に照らして言うならば重なり合っていた。
神話の語りは、私たち人類の日常の言語、日常の定常化した意味分節体系を利用、転用、ブリコラージュすることで生成される。
すなわち、通常わたしたちの言語は、
Δ → Δ → Δ → Δ →Δ →
t0→ t1 → t2 → t3→ t4→ t5→
という具合に、他から区別された単位(Δ)を、ひとつひとつ、同時に複数を重ねることなく、時間軸上に一列に並べていく形をしている。なぜそうなるのかといえば、要するに人間の言葉はもともと音声、つまり喉、口、鼻といった首から上の空気の通り道の形を調整しながら振動させることによって作り出された空気の振動であるからに他ならない。「あ」の口と、「ん」の口を、同時に形作ることはできないのである。「あ」といいながら「ん」と言ってみるとどうなるか、実際にやってみるとおもしろい。
要するに、人間が経験的な現実の中で、他者たちとのあいだで実際に、口と耳の間の空気の震えを介してコミュニケートする限り、言葉はΔ → Δ → Δ → Δ →Δ →という、他から区別される限りでの最小構成単位を次から次へと並べていくというやり方を用いる必要がある。
もちろん手で印を結んだり、全身でダイナミックにポーズをとったり、複数人でコーラスして複数の音を重ねるなどすることで、Δたちを多重化して、Δ → Δ → Δ → Δ →Δ →の鎖を伸縮させることもできる。そして神話もまたそのようなものなのである。
神話の語りは、経験的感覚的な現実の日常の意識が理解できる=分別できる言葉の形(Δ → Δ → Δ → Δ →Δ →)を保ちながら、それを転用、流用して、ひとつのΔを引っ張って二つに分離したり、ふたつのΔをくっつけて一つに結合したりすることで両義的媒介項を作り出す。さらにその両義的媒介項どうしを近づけたり離したり、結合したり分離したりと伸縮させることで、Δを線形に配列することをそもそも可能にしている個々のΔを他から分離することと、互いに分離されたΔを異なったまま同じであるという関係で他のΔたちと分離したまま結合するということを、私たち人類がなんとなく意識化できるようにする。
神話の語りも言葉である以上、Δ → Δ → Δ → Δ →Δ → という形で演技をせざるを得ないがゆえに、その語られたことの筋書きをながめると、典型的には図2のように時系列で話が展開していくようにみえる。
しかしこの時系列での展開という形をとることは、神話を発生させているアルゴリズムにとっては、分離する述語と結合する述語の伸縮がマンダラ状のパターンを浮かび上がらせるように動くアルゴリズムそのものにとっては、二次的なことである。
この時系列は、行きつ戻りつしてもよいし、1)〜6)のうちの複数の「ステップ」が重なり合ってもよいし、順番を超えて6)がいきなり1)になったりしてもよい(図2-2)。

*

前回の記事で取り上げた神話(M550)とよく似た神話について、レヴィ=ストロース氏がまとめられた記述を見てみよう。
(M551)ではアビ女が大火を起こすのは、叫んだり、地面を転げ回ったりしながらである。と同時に、大地は彼女の下で裂け、谷や大峡谷が現われる。
村で、人々は怯えた。
彼らのひとり、繭が皆を励ます。
そしてハツカネズミの兄弟は、植物の繊維でロープを編むと、矢で狙いすまして、それを天蓋に固定した。
皆がロープを登ったが、アビの父コヨーテだけは、最後に娘を見たいと後ろを振り返った。
ロープは切れて、登っていた者たちは燃え盛る火のなかに落下した。
そしてアビは網で彼らの心臓を集めた。
彼女は自分の首飾りをつくるために大部分をとっておいたが、ほかの心臓は灰色のキツネ(アチョマウィの造化の神)に与えた。そしてアビは世界中を駆け巡ろうとする。
いっぽう、彼女を見つけて心臓を取り返そうとしていた姉妹のワシは大地をうがち、山をつくった。
彼女は最後に心臓を見つけだし、共同の家も再建し、家の隣の川に心臓を沈めた。
アビの犠牲者たちは夜明けとともに生き返る。
そのとき、灰色のキツネは彼らに名前を与え、世界中に散り散りになるようにと命令した。彼は各自に生息地、そして鳴き声と色を割り振った。
そして、皆、あらゆる方角へと遠ざかっていった。
ここに「世界創世神話」の典型的な動きが見られるとレヴィ=ストロース氏は指摘する。
世界の創造・・・世界とは?
世界が創造されるとは、分離する述語と結合する述語が交代しながら伸縮するように動きつつ、次第につかず離れずに、つまり分離するでもなく結合するでもない均衡状態になったところで、経験的感覚的に他ではないそれとして分別・分節できる何か(Δ)どうしの対立関係を安定的に持続できるようになる、ということだと考えておこう。世界、あくまでも人間にとっての世界、衆生界とか、器世間というものは、経験的感覚的に「リアル」なところであり、それは意味分節の体系であり、意味分節は対立関係の対立関係の対立関係を組み合わせることによって維持され、またそれを組み替えることで生まれ変わったり、再生したりする。

この神話では、「アビ女」は「叫んだり、地面を転げ回ったりしながら」、つまり激しく、過度に動き回り、どこにいて、どこにいないのかも、よくわからないほど、時間と場所も分節さえもよくわからない状態になる。図2でいう1)β諸項が凝集して区別できなくなっているモードである。
+
三次元時空間という分節体系
この動き回りから、直接的に「と同時に、大地は彼女の下で裂け、谷や大峡谷が現われる」のである。大地、地形の生成である。
すなわち、
天/地
の分節であり、経験的感覚的に意味あるこの現世の三次元空間の分節である。
前回のM550では、「地面に起伏をつく」るのは、大火を起こしたアビ女本人の動きではなく、その姉妹である「ワシ」の飛翔という動きであった。
「もうひとりの姉妹、ワシは泣きながらあちこちを飛び回り、地面に起伏をつくった。というのも、この時代、まだ山はなく、地面はどこも平らだったからである。」
この三次元空間の分節は、図2でいえば5)から6)に該当する。
このM551では、図2の1)のモードと5)のモードとが2)〜4)をすっ飛ばして、分かれることなくひとつで動いている。

そして遅れて(そもそもまだここでは時間の分節もまだないので遅れてもいないし進んでもいないのであるが)図2の3)、上/下方向、垂直方向の過度な分離と結合の伸縮が展開する。大火の中で怯えた神話の登場人物にして動物たちは、「繭」の励ましで大火からの脱出を決意し、「ハツカネズミの兄弟」(二人で一つ、Δ→β←Δである)が、ロープを結わえ付けた矢を弓で放ち、「天」に射して固定する。
登場人物でもなく動物でもないひとびと?は、このロープを伝って、大火に包まれつつ、地上から分離して、天へと結合しようとする。
しかし、「アビ」の「父」である「コヨーテ」が下をみようと振り返ったときに、ロープは切れて、ロープにつかまっていた一同は天から地へと落下する。そして大火の中へ。一度分離した地上と、また結合、それも過度に、結合するのである。
さてここで、コヨーテがアビと親子であるはずがないというのは経験的感覚的な事実である。ここで神話はさらりと、コヨーテとアビが親子だったと言っているが、これは要するに、Δ親/Δ子、Δ動物/Δ人間、Δコヨーテ/Δアビ、などなどの経験的区別(Δ/Δ)を組み合わせることで、経験的に強く分離されたΔコヨーテ/Δアビのあいだを、経験的に付かず離れずである「Δ親/Δ子」の関係で結合することで、分離したまま結合し、結合したまま分離する、図2の4)のモードを描き出しているのである。
さて大火のなかに落下した一同は、図2の1)モードの過度な結合を起こすや否や、今度はバラバラに分離して「心臓」だけが飛び出す。図2の3)→4)を一挙に展開させるのが、この火の中に落ちた体からの心臓の飛び出しである。

述語としての「網」
そして、飛び出した心臓は「網」を使って捉えられる。
網というのは、魚網でも虫取り網でもそうだが、水中から、あるいは空気中から、水や空気は通過させつつ、獲物だけを分離する道具である。水中や空気中にいわば溶け込んで不可分に結合している獲物を「分離する」述語を体現する象徴が「網」なのである。
大火の中を飛び回る心臓たちを、捉えて(大火の空中から分離して)、そして「首飾り」という、おそらく輪っか状のものにする。
β
β β
β
心臓というのは、経験的には、生きた身体からそれだけ取り出されてしまっては、すぐに死んでしまうものである。しかし神話では、心臓は、心臓だけで生きて、しかも空を飛んでいる。この心臓は、経験的なΔ心臓ではなく、両義的媒介項、β心臓である。
β心臓 ← Δ経験的な生き物の身体→ β心臓以外の残りの身体

+
さて、β心臓の首飾りをつけて、「世界中を駆け巡る」、図2の4)モードになっているアビに対して、その姉妹である「ワシ」は、「大地をうがち、山をつく」る。これは経験的感覚的なΔ三次元空間を分節しつつある動きであり、図2の5)の様相である。
図2の5)を体現するワシは、β心臓の首飾りをつけて逃げ回っている?姉妹のアビも捕まえる。この動き、アビとワシの鬼ごっこ、追いかけっこのような動きは、図2の2)のうごきである。β動物人間たちの心臓を連ねた首飾り(図2の4)そのもの)も回収して、まず、アビに焼かれた「共同の家」を立て直し、そして「家の隣の川」にその心臓たちを沈めておく。
すると一晩明けて、β心臓たちは元の姿をとりもどす。
名前を与える。他ではない何かとして安定的に分節する
このとき、「灰色のキツネ」(もともとアビから、いくつかのβ心臓を託されていたもの)が、生き返ったβ動物=人間たちに「名前を与える」ということをする。
「名前を与える」というのは、端的にΔ/Δ、あるΔxがなに(Δa)であってなに(Δ-a)でないのかを分別することであり、図2の6)のさらに次の工程である。
Δx / Δ-x
|| ||
Δa / Δ-a
こうしてあらかじめ分けられ済みのΔ四項関係、Δ二項関係を二つ組み合わせた四項関係にして、経験的に意味ある世界の現実を安定的に分節する最小のコードが設立される。
まさに、「名前を与え」られた者たちは、「世界中に散り散りになるようにと命令」され、それぞれの「生息地」に安定的定常的な居所を定め、「鳴き声」と「色」という、おたがいを区別できる感覚の極みともいえる分節体系を固められるのである。
ここに経験的で感覚的に意味ある現実、リアルな世界を構成する最小構成単位であるΔ四項関係の固まったモードが創造される。まさにこの神話、「世界創世神話」の典型的な動きをコンパクトにまとめている。
レヴィ=ストロース氏が指摘しているように、創世神話では、例えば、ふたりの創造の神が、激しい戦いののちに和解し、「ひとりは水路網を創り、もうひとりはすべての魚を創」るといった形が典型的に見られるが、これを図解してみたのが本稿で繰り返し使っている図2、動的マンダラ伸縮モデルの模式図なのである。
この神話も図2に照らしてみると、1)から6)、そしてその次の段階(図には書いていないが、加えるなら7)となるΔ四項関係)まで、順番に段階を踏むようには展開せず、1)から4)へ行き、3)に戻り、そしてまた1)になったかと思えば、4)をやって、2)もやって、その後5)→6)へと一挙に展開する、という感じになっている。

+ +
「四」を意識させる神話
同じく、レヴィ=ストロース氏がまとめている別のアビの神話もみてみよう。
またべつのヴァージョン(Angulo-Freeland 2, p. 126-132)は、コヨーテのふたりの娘であるワシとアビを対立させることで始まっている。
ワシは賢く器用であるが、アビはあつかましく、月経で、それが狩人に不運をもたらすときでさえ、ふつうならおこなうはずの嗜みも心得ない。
「彼女の母も、前に同じことをしていた」と、繭というもうひとりの村の長は思い出している。繭は隠された少年の父で、彼を毛布にくるんで共同の家の奥深くに置いている。その家には彼のほかの息子たち、オオカミ、イイズナ、テン、オオヤマネコも暮らしていた。
コヨーテのふたりの娘は離れた小屋で寝ていたが、朝になるとやって来て、狩人たちの食事をつくった。
M550のように、この話でも、つづいてオオヤマネコがインセストを企てることになる。彼がここでは、兄弟でなく従兄弟とされているにしても、アビは同じく怒りをあらわにし、煙穴から稲妻を投げ入れて共同の家を攻撃する。べつの言い方をすれば、そしてM550とはちがって、彼女は天に由来する火をつくり出すのである。
そして、オオヤマネコが夫として差し出されたとき、彼女は拒否する。というのも、暴行を受けた彼女は精神的にショックを受け、そのことで、自分が古老の繭の隠された息子、森のイモムシに抱く深い感情に気づいたからである。 今、彼女が要求するのは森のイモムシである。
皆はあきらめて彼を彼女に委ねたものの、彼のペニスはあまりに小さく、彼女を満足させられないのではないか、そして彼の不能に失望して彼女がまたしても攻撃しに戻って来るのではないか、という恐れがなかったわけではない。だから、まずはじめに森のイモムシに巨大なペニスが与えられたが、彼はそれで動きがとれなくなってしまった。
いっぽうコヨーテは、この大きな器官が娘の腹を切り裂いてしまうのではないかと恐れた。彼はこっそりとそれを奪い、火にくべてしまった。
アビは、臆病な愛人を従えて遠ざかった。
嵐が近づいているのを口実に彼女はキャンプを張り、心地よい寝床を用意した。森のイモムシは腹這いになり、女の試みに消極的に抵抗した。彼女は彼の向きを変えようとしたができなかった。彼女が疲れて眠ってしまうと、森のイモムシは起き上がって、枝の突き出た倒木の幹を探し出し、それを使ってパートナーに満たされたという幻想を与えると、逃げ出した。
そして、弁解もできないほどに息を切らして村に到着した。裏切られたアビは、怒って火を放ち、住民たちは燃え盛る火の接近に怯えた。
クモの兄弟は力を合わせて長いローブを編んだ。子供たちを亡くした者とも呼ばれていた大トカゲがそれを矢に固定し、天蓋に打ちこむことに成功した。ワシが最初にロープを登り、つぎに古老の繭、そして森のイモムシと他の兄弟、トカゲ、最後にコヨーテが続いた。
コヨーテの娘アビは、彼を認めて呼んだ。
彼が振り向くとロープは切れ、皆、村を焼き尽くす火のなかに落下した。
すでに天に達していたワシと繭、森のイモムシ、そしてもうひとりの兄弟だけが助かった。アビは心臓を、穀物をふるうために使う籠のなかに集めた。父の心臓はやめておいたが、他にも四つ欠けているのを確かめた。
トカゲの心臓も最後に落ちてきたが、籠を通り抜け、シャスタ山の頂上にまで行って落ちた。トカゲが自分を殺すだろうと確信したアビは、父に、ふたりともこれからは各自の名である動物の姿で生きていこうと告げた。彼女は四つの湖、トゥレ湖、ハニー湖、グース湖、アッパー湖に行って住むだろう、彼女は鳴き声で父を認め、自分も鳴き声で答えるだろう、と。
そのわりあい近くに、アオカケスとその妻ツァヌネワが住んでいた。この妻の名ツァヌネワはフタオビチドリ、あるいは沼沢地帯に住むべつの鳥を指している。狩りの失敗に不安になったアオカケスは、アビがいるのではないかと疑った。彼女の母親も前に同じ呪いをかけたことがあったからである。
シャスタ山の方から聞こえて来ると思われる、得も言われぬ美しい調べに導かれて、彼は地面に半ば埋まったトカゲの心臓を見つけ出すと、それを掘り出して、妻のもとに届けた。
彼女がそれをお湯の入った水の漏れない籠に入れると、心臓はそこで赤ん坊として生き返った。子供はすぐに成長して突き出た額をもった少年になった。養母は垂直に矢を射るようにと彼に勧めた。ある日、その一本が彼の上に落ちてきて、額の瘤がとれた。
瘤はべつの子供になった。
湖のほとりに住んでいたフタオビチドリ女の親戚たちは、若い主人公にアビがそこにいると教えた。しかし、神話のこのヴァージョンは、アビの名をもつふたりの女性について述べている。ひとりは水のなかに住み、心臓の首飾りで身を飾っている。そしてその年老いた母は、アシのなかの小屋に住んでいる。
アオカケスの命令でふたりの子供はこの母親アビのもとを訪れ、漁の獲物を分けるという約束で、彼女からカヌーを借りた。彼らは若いアビ女が母親の懐に入って長い髪をとかしてもらっているのを見て、美しいと思った。
翌日、弟は一矢で彼女をしとめ、死体をカヌーのなかの、やはり今までに殺して積んでおいたカモの山の下に隠した。老母は娘の死体を見つけると、殺人者を追って稲妻を投げつけた。それは藪に火をつけたが、アオカケスは大風で火を追い払った。そして、兄の方の「子供たちを亡くしたトカゲ」は魔女を処刑した。ふたりのアビ女はこうして死んだ。
なかなかおもしろい伸縮が起きている。
下図を片手に、順番に見てみよう。


第一の家族
まずコヨーテとアビとワシが家族である。
コヨーテが父、アビとワシが娘である。
前述のように、経験的な現実の世界では、コヨーテが鳥であるアビやワシの生物学的な父親であることはありえないが、そしてまたアビとワシも現実には種類の違う鳥であり、その二羽が血を分けた姉妹であることはあり得ないが、神話はあえてその経験的にはっきり鋭く分離した二者、Δ二項の間を、「親子である」「姉妹である」という親族関係におくことで結合するのである。
つまり現実(Δ/Δの世界)では分離している二者のあいだを、あえて、結合することで、
Δ→ β ←Δ
という操作を行うことで、両義的媒介項βを作り出しているのである。
さてここで親/子、姉/妹の関係で、ぎゅっと結合状態にはいったβたちであるが、この後すぐにβ間の距離を引き開く動きが出てくる。ワシとアビが真逆の性格であったと強調するくだりである。
コヨーテの娘であるという限りにおいて不可分一体、どちらがどちらかわからないくらいに結合しているアビとワシの間を、賢く器用であることと、 あつかましいこと、この二つの経験的な区別、対立に重ねることで鋭く分離するのである。
βワシ← →βアビ
|| ||
賢く器用 / あつかましい
ここで特に「アビ」は、狩人を「不運」にすること、つまり狩人と獲物の関係を、過度に分離する作用を引き起こす者であることが強調される。
狩人← ーーー / ーーー →獲物
第二の家族
次に、第二の家族、「繭」の一家が登場する。
この「繭」。まるで人間のように、コヨーテの家族の噂話を思い出したりしている時点で、人間ではないが人間でなくもない、なんとも言えないβ繭人間である。このβ繭人間と先ほどのβコヨーテは、どちらも、二人とも、この村の村長であるという。村長が二人いると話がまとまらないのではないかと思うが、これもまた二人セットにすることで、両義的媒介項をつくっているのであろう。
Δ村長1 → β村長の概念 ← Δ村長2
さてこのβ繭人間には、大勢の息子がいる。
隠された少年(森のイモムシ)
オオカミ
イイズナ
テン
オオヤマネコ
である。彼らは一つ屋根の下にぎゅっと結合して暮らしていた。
彼らは過度に結合した様相にあるが、同時に、別の局面では分離が際立つ。繭の一家は、男性ばかりで、女性が一人もいないのである。
男/女
人類史の伝統的なパターンで言えば、子供がいる家族といえば(まとまって定住していようが、ばらばらに移動生活を送っていようが)、父と母、つまり男性と女性がなんらかの関係で共にいるはずであるが、繭一家は女性から過度に分離された男性グループになっている。

二つの家族
ここに女性が出入りする。
βすなわち、コヨーテの二人の娘「アビ」と「ワシ」は、β繭人間の小屋に「朝になるとやって来て、狩人たちの食事をつく」る役割を担っていた。男ばかりの繭人間一家のもとに、周期的に、二人の娘が入ってきたり、出て行ったりを反復する。
男/女の間の、分離と結合のリズミカルな交代である。
そしてどうやら、はっきりとはわからないのだが、この二つの家族は親族関係にあるらしい。つまり隠された少年〜オオヤマネコの兄弟たちと、アビ、ワシの姉妹は、従兄弟同士であるという。
さてここで、βオオヤマネコとβアビの間に、過度な結合が生じる。
βオオヤマネコがインセストタブーを侵犯し、βアビと過度に結合しようとする。それに対してβアビが怒り、β繭人間一家の小屋に稲妻を落とす。
βアビはβオオヤマネコと正式に結婚するように求められるが、当然ながら拒絶する。そして代わりにβ繭人間の別の息子、「隠された少年(森のイモムシ)」を夫として提供するように要求する。
ここでこの神話の登場人物たちは、βアビの怒りを沈めるために、β隠された少年(森のイモムシ)を、βアビの夫として提供することにする。

+ +
小さすぎるか大きすぎるか
さて、ここで余計なお世話というか、神話の登場人物たる両義的媒介項たちは、トリックスターらしさを発揮して事態の混迷をさらに深める。つまり激しい分離と結合の伸縮を喚起する。
βアビと結婚することになったβ隠された少年(森のイモムシ)であるが、男性としての機能から過度に分離された者であった。端的に「不能」であったのである。
家族たちは、これでは妻となるβアビが満足せず、また怒って稲妻を落とすのではないか、と危惧する。
そこで家族たちは、β隠された少年(森のイモムシ)に、今度は過剰に大きな男性機能を与える。森のイモムシは望んでもいないのに、男性機能と過度に結合されたのである。
しかしそのせいで、なんと森のイモムシはころころと転がるばかりで、身動きを取ることも難しくなってしまった。
小さすぎるか、大きすぎるか。
過度な分離か、過度な結合か。
付かず離れずのちょうどよい中庸というところに定まらないあり方が、図2における2)あるいは3)の様相をよく表現している。
*
さて、この巨大な男性機能と化した森のイモムシを見て、βアビの父であるβコヨーテは、「この大きな器官が娘の腹を切り裂いてしまうのではないか」と危惧し、先回りして「こっそり」と、森のイモムシに過度に結合された巨大な男性機能を取り外して(分離して)、火に放り込んで焼いてしまった。
分離を結合へ、結合を分離へ。激しく交代していく。
+
ここでレヴィ=ストロース氏は、この森のイモムシと、前回の記事で取り上げた神話M550に登場するアビの身体に塗られた「樹脂」とを比較をして次のように書いている。
ふたりのインセストの兄弟、オオヤマネコと森のイモムシもいっぽうは積極的、もういっぽうは消極的である。樹脂は比喩的な意味でこのひとりを 「食べて」しまう、というのも、彼の毛皮のマントの毛はそこに貼りついたままになってしまうからである。そしてもういっぽうは、本来の意味でこの樹脂を食料としている。
M550のオオヤマネコは、自分から進んでインセストタブーを侵犯すべくアビのもとを訪れる「積極的」なあり方をしており、他方こちらの森のイモムシはのらりくらりとアビから逃げようとする「消極的」なあり方をしている。
M550のオオヤマネコ / 森のイモムシ
|| ||
積極的 / 消極的
|| ||
樹脂に食べられる / 樹脂を食べる
森のイモムシが経験的に樹脂を食べることが知られている、という事実があるとすると、そこには自動的に、
非-森のイモムシ=「樹脂を食べる」の逆(=樹脂に食べられる)
というあり方をする何かが潜在的に、樹脂を食べる森のイモムシの「逆」として要請されることになる。そうして経験的な世界の中で「樹脂を食べる森のイモムシの「逆」」のものを探して細かく四方八方を観察すると、樹脂が毛にまとわりついて困っているオオヤマネコの姿が、ふと思い出されるということらしい。森の中を移動していて樹脂が毛に張り付いて毛が固まってしまったオオヤマネコの姿は、樹脂を食べて分解することができてしまう森のイモムシの姿と対立する。
オオヤマネコ と 森のイモムシ
その主語的な姿を比べても、両者がなぜ対立関係になるのか、よくわからないままである。しかし一度、両者の述語的様相、すなわち樹脂との関係で、樹脂を食べるのか、それとも樹脂に食べられる(ように見える)のか、という対立をみてみると、確かにオオヤマネコと森のイモムシは、樹脂との関係の様相が真逆であるという点で対立していることが明瞭にわかる。
神話が、その語りの中で分離する動きと結合する動きの対立する二つの述語の主語の位置に収まるものを経験的な世界で区別されたものたちのなかから選び出す時には、ひとつひとつの神話の語りの枠内を遥かに超えて、広大な経験的な世界の多様なあり方の中から、その述語的様相を担うに相応しいものが探索されてくるらしい。

+ +
水平面上で、逃げる/追う・・分離しようとする/結合しようとする
そしてアビと森のイモムシは、ハネムーンの旅にでる。
この時点で、β繭人間の一家は、β森のイモムシが巨大な男性機能と過度に結合したままであると思い込んでいるが、実際にはβコヨーテがそれを外して燃やしてしまっているので、β森のイモムシは、元の通りの男性機能から過度に分離された状態に戻っているのである。
+ +
さて、ハネムーンの旅の途中で、βアビとβ森のイモムシはあわや男女交合に至るかと思わせる展開に至る。しかしβ森のイモムシは「消極的に抵抗」して、βアビが疲れて眠るまでの時間を稼ぐ。結合するでもなく分離するでもない、分離/結合の分節さえもが不可得になっている。
そうしてβ森のイモムシは、眠ったβアビに「枝の突き出た倒木の幹」を用いて「パートナ―に満たされたという幻想を与え」る。実におそろしい話である。とはいえこれもまた、結合しているようで実は分離しているという、結合するでもなく分離するでもない、分離/結合の分節さえもが不可得になっている、図2の1)の様相なのである。
+ +
さて、そうして眠り込んだβアビを放置して、彼女から分離して、β森のイモムシは、自分の実家に逃げ帰る。図2の2)や3)の様相である。
+ +
しかし、βアビは目覚め、すぐに状況を理解し、逃げた夫を追いかけて、β繭人間一家とβコヨーテ一家などが住む神話的な人々の村に火を放つ。
また図2の1)のモードへの転換である。
垂直軸で昇る/降りる
そのとき、村のβ住民の一人である「クモ」、つまり蜘蛛人間たちの兄弟は、糸をつかってロープを編む。さらにβオオトカゲがそのロープを結んだ矢を弓で射って、天蓋、天に打ち込む。β村人たちはその天に矢で固定されたロープを伝って、地上から天へと昇らせて、逃がそうとする。
一番上が「ワシ」で、一番最後が「コヨーテ」であった。この時、天/地の間が未分の状態から分離する。過度な結合から過度な分離へ、図2の3)の様相である。
とはいえまたいつものパターンで、コヨーテがアビに声をかけた瞬間、つまり音声によるコミュニケーションでもって地上のアビとの間を分離から結合に転じてしまったことで、天に昇るロープは切れて、ロープに掴まっていた者たちは、地上の大火の中に墜落する。
この神話がおもしろいのは、すでに天に辿り着いていて、落下しなかったものが四人いるという点である。
βワシ
β繭
β森のイモムシ
βそしてもうひとりの兄弟
四βが際立つ。これは図2の4)の様相である。
これが天上の、あるいは天/地の中間の相対的に天よりのポジションの「四」。
*
次に地上の、あるいは天/地の中間の、相対的に地上よりのポジションの「四」が出てくる。火の中におちてバラバラに飛び散った者たちから飛び出したβ心臓である。
β心臓たちの多くは、「穀物をふるうために使う籠」によってβアビのもとに捕えられる。穀物を篩う籠とは、つまり結合しつつ分離する媒介項である。篩(ふるい)は、すべてを分離するのではなく、あるなにかを選択的に(この場合は穀物の粒だけを選択的に)もとあったところから分離し、それ以外(この場合でいえば空気)は取り分けず=もとのところから分離せず、そのまま透過させる。これは分離しつつも分離しない、結合しつつも結合しない、という分離/結合という二つの述語をひとつにまとめた極めて端的な両義的媒介項である。

ところが、飛ぶβ心臓たちのなかには、この篩で捕えられなかったものがいる。まず父βコヨーテの心臓と、それ以外の「四つ」。合わせて五つ。
β β
(β)
β β
地上の四、いや五。
四なのか、五なのか、いったい、いくつなのか?と思われるかもしれないが、このような図2の1)のモードにある両義的媒介項たちは、互いに他と正確に分離して=分節して=分節して、その境界線を確定させて、輪郭を固めた上で数を数えるようなことには馴染まない。四というか、四であるような四でないような・・といった感じでよいのである。特にこのうちβアビの父コヨーテについては、いつの間にか心臓の姿から、もとのβコヨーテの姿に復活して、アビと会話したりするようになる。
+
これとは別に、さらにβトカゲの心臓も別のところに飛んでいった。わざわざ「籠を通り抜け」てと、書かれているくらいであるから、特別なβであったことがうかがえる。
β β
β →β
β β
分けて数えにくいほど、まとまっていた者たちのなかから、ひとり、トカゲの心臓だけが、遠くへ飛んでいった。そして「シャスタ山の頂上」に定着地点を定める。図2でいえば、1)かつ2)であるような様相である。
+ +
さて、この遠くへ飛んでいった=分離して行ったトカゲが、やがてはβアビに復讐をするだろうということが、アビ自身によって予言される。
βアビは、βコヨーテ父(落下して飛びだす心臓に変身していたはずだが、いつの間にか元に戻っている)に対して、「ふたりともこれからは各自の名である動物の姿で生きていこうと告げ」る。つまりβアビ人間とβコヨーテ人間ではなく、現世の経験的に存在するあのΔアビ、Δコヨーテに変容して、βトカゲたちとは別の位相の世界にずれ込んで、逃げおおせようとしたのである。
そしてΔアビは、経験的感覚的なリアルな空間の分節、この三次元の現実の空間を分節して固めるように、「四つの湖、トゥレ湖、ハニー湖、グース湖、アッパー湖」、四つの地理的Δを設定する。
Δ Δ
Δ Δ
これはまさに図2でいえば、一番最後のモードである。
異種の動物の鳴き声によるコミュニケーション?〜繋がっているようないないような
さらに、アビはアビの鳴き声を、コヨーテはコヨーテの鳴き声をもつことが宣言される。アビとコヨーテは、β親子で結合していたが、ここへきて、別々の鳴き声の別々の動物に分離する。しかし分離しながら、どちらかが遠くへ響く鳴き声をあげれば、もう一方も鳴き声をあげて答えるような関係として、はっきりと別種に分離しながらも微かに音声によるコミュニケーションのようなものの回路で結合された状態を保つことが宣言される。分離しながらも結合する。付かず離れずのΔの関係、
Δ=/=Δ
である。

+
対立関係の対立関係の安定へ
さて、Δアビに身をやつしたβアビが隠れている場所の近くに、「アオカケスとその妻ツァヌネワ」の夫婦がいた。
夫であるアオカケスは、狩の失敗が続いたことで、自分の近くにアビが隠れている可能性を疑う。かつてアビの母親に同じ呪いをかけられたことがあるからだという。この話はこの神話の冒頭、森のイモムシが言及していたことを反復している。
ここでアオカケスは、シャスタ山の山頂で「地面に半ば埋まった」トカゲの心臓を、アビ自身によって復讐者として予言されたβトカゲの心臓を、掘り起こす。地面に半分埋まった、地面と半分結合しつつも半分分離しつつある両義的なあり方は、このモードでまたトカゲがβトカゲであることを明らかにしている。
また、アオカケスがトカゲの心臓の居どころを知ったのは、トカゲの心臓が、「得も言われぬ美しい調べ」を奏でたからである。これも音声的なコミュニケーションである。音声的なコミュニケーションは距離的に分離したもの同士の間を、分離したまま結合する。
*
トカゲの心臓は、「お湯の入った水の漏れない籠」の中に入れられる。この「お湯の入った水の漏れない籠」は、上の大火の中を飛び回る心臓を捉える網や篩と対立しているようである。
火の中を飛ぶものを捉える網は、空気という媒体は通し、空気の中に飛んだり浮かんだりしているものだけを空気から分離する。一方、おそらく高温の湯で満たされた水の漏れない籠は、水という媒体を通さず、その中に浮かんでいるものを煮込んで、スープにする、つまり水に溶け込ませる=水と不可分に結合する。
網・篩 / 目の詰まった籠
|| ||
空気の中で / 水の中で
|| ||
分離を引き起こす / 結合を引き起こす
さて、この目の詰まった籠の中で、諸々の結合を可能にするモードに転換されたトカゲの心臓は、バラバラになった体の他の部分と再結合し、元の姿に、「赤ん坊」の姿で、一体的な人間の姿にまとまる。そして籠から出るとすぐに「突き出た額をもった少年」になる。経験的で感覚的なΔ少年のあり方から、とくに「額」が「突き出た」姿というのは、
Δ突き出た額 → β ← Δ額以外の通常の身体
という関係になっている。経験的にありふれたΔ身体は、Δ突き出た額なるものと過度に結合されることで、両義的媒介項βになる。
この復活したβトカゲ人間の姿は、彼があくまでも両義的媒介項、図2の分離と結合の伸縮モードの変容の只中にいまだいることを物語っている。
ところがこのβトカゲ人間、「垂直に矢を射る」ことによって、矢を天/地の二極のあいだの地上から天上へ上げて、そしてまた天上から地上へと落とす、という図2の3)を思わせる上/下方向、垂直方向の分節を区切り出すような動きを動かしたのちに、その落下してきたβ矢に当たる(過度に結合する)ことで、一挙に突き出た額を分離することに成功する。
Δ突き出た額(別の子供) ← (β) → Δトカゲ人間
そうして額からとれた瘤は、別の子供、Δ子供の姿に変容する。
さて、この二人の子供、もとβトカゲ人間だった二人の子供は、育ての母親となったツァヌネワ(フタオビチドリ女) の親戚のアドバイスを受けて、育ての父となったアオカケスから狩の運を奪っている呪いの存在であるβアビの居どころを知る。
このアビ、神話の語りによって、この時点で、すでに親子二人のアビ人間に分かれていると語られる場合があるという。
Δ突き出た額(別の子供) =/= Δトカゲ人間
と対峙するならば、βアビのままではなく、
Δ水中に住むアビ人間の娘 =/= Δ陸上に住むアビ人間の母
という関係にΔ/Δ分節しているほうが、図2の5)を描きやすい。それは神話の終盤の様相としてちょうどよいのである。
レヴィ=ストロース氏も、この身体の一部が伸びて、やがて二分される者の姿に注目をしている。
クラマスのヴァージョンからもすでに推論した子供の二分化(しかし、ここで子供はふたつの頭の代わりに突き出た額をもっている)と、アビ女の母と娘への二分化を、 アチョマウィの神話はもっとずっと直接的に描き出しているのである。
本稿の用語でいえば、βを引っ張って切り分けて作り出した二つのΔ(Δ←β→Δ)になる者は、様々な神話に登場する。

*
さて、アオカケスの二人の息子たち(元βトカゲ人間)は、アビの母娘(元βアビ)のもとを訪れて、カヌーを奪う(アビたちから分離する)。カヌーもまた、複数の乗り手や、出発地点と到着地点、水中と大気中といった様々な対立する二極のあいだを、分離しつつ結合し結合しつつ分離する動きを動かす両義的媒介項である。
このカヌー、β的分離と結合の力を象徴するカヌーが、アビたちのもとから、元トカゲたちのもとに移動する。意味ある世界の分節システムを作り替えるような、つまり生/死の経験的対立二極の間をひっくり返すような述語的様相を動かすことができる媒介物が、トカゲたちのものになったのである。
そうしてついに、βトカゲの片割れであるΔ弟トカゲ(もと額の瘤)は、βアビの分身である、Δアビの娘をまず退治する。片割れを退治されたことを知ったΔアビの母は、また稲妻を使う。稲妻をトカゲたちに投げつける。その稲妻は火事を引き起こすには引き起こしたが、もうβアビが森のイモムシに激怒して村ごと焼き払ったような力は発揮されなかった。Δアビ母が起こした火は、トカゲたち兄弟の育ての父となったアオカケスが起こした「大風」で、吹き飛ばされて、消える。
そうして最後、トカゲの片割れのもう一方であるΔ兄トカゲは、Δアビ母を退治する。
通時的/共時的
一つの面の両側
この神話について、レヴィ=ストロース氏は次のようにまとめている。
このヴァージョン内部の対称性は、ひとつには通時的な次元に属するものであるが、この対称性を共時的な項目に移し替えてみるなら、それが垂直軸の上で展開していくかのように考えなければならない。そこで対称性をつくる面の両側で、二系列のイメージが継起し、ひとりのほんものの人間と、その上に軽く傾けて差し出される鏡のなかに映し出される彼の像からつくられた全体にも比すべきひとつの神話が再構成される。
このくだりは、以前に読んで非常に強く触発されたところであり、これが図2を描くに至る契機の一つになっている。

神話の語りは、一見するとまず、「通時的」に、様々な対称性を、対立関係を組んでいくように登場人物たちを争わせたり一緒にしたり、分離したり結合したりしている。同時にこの分離と結合の伸縮を、言語による語りという形式が強いるΔの時間軸上の線形配列から引き離して、「共時的」に重ねてみると、そこに「垂直軸の上で展開していくかのよう」な分離と結合の多様なモードの変容が見えてくる。
そしてこの「垂直軸の上で展開していく」分離と結合の伸縮モードは、経験的感覚的にはリアルに存在するものの姿をした「ひとりのほんものの人間」(Δ)によって表現されるが、同時に神話の語りには、そのΔ「ひとりのほんものの人間」の姿を、「上に軽く傾けて差し出される鏡のなかに映し出される彼の像」と言われているような、Δの姿を別の座標系に写像した姿も続々と見え隠れする。それが図2におけるβである。
「ひとりのほんものの人間」(Δ)と、その「上に軽く傾けて差し出される鏡のなかに映し出される彼の像」(β)との、「二系列のイメージ」を「継起」させながら、神話の語りは言葉と言葉を繋いでいく。
レヴィ=ストロース氏は上の引用箇所に続けて、次のようにも書かれている。
この叙述の構成が、造形芸術の領域で「表象の二分化」という名でよく知られる構成と密接に対応していることは注目に値する。
さて、二分化は二種類の様式で存在しており、ひとつは水平面との関係、もうひとつは垂直面との関係で定義される。
ニューカレドニアの芸術は最初のタイプの二分化の古典的な例である。矢型の棟木は胸から頭までを見た人物を表わしており、これが前からは見えない背中側に延長され、反転された順序で配分される。
表象の二分化。
Δ系の表象と、β系の表象への二分化。
そして表象たちのβ群とΔ群への二分化は「水平面との関係」と「垂直面との関係」、二つの面というか、二つの座標系がずれながら重なり合って、一方の座標系(Δの分節システム)にある諸存在者たちΔは、もう一方の座標系(βの分離と結合の伸縮システム)に写像されるときに、いつの間にか引き伸ばされて、引っ張られて、「延長」された姿で、Δ分節をする表層の自覚的自我意識にはみえる。
上記の引用箇所でレヴィ=ストロース氏が言わんとなさっていることを、素人なりに試行錯誤しつつ理解してみようと試みているうちに、ふと、図2のような、分離と結合の伸縮から対立関係の均衡としてのマンダラ状のパターンをなす図式を、描いてみることを思いついたという次第である。
・・・・
こういう図式化が妥当であるかどうか、将来あの世で、ぜひ一度レヴィ=ストロース氏ご本人のご見解をうかがってみたいと楽しみにしている。いや、あの世に行くまでもなく、分別心が分節したものへの妄執を寂滅させたシャーマン(霊媒師)にはたらいてもらえば、いまここでも、レヴィ=ストロース氏にインタビューできるでもなくできないでもなく・・。
いやいや。そもそもレヴィ=ストロース氏がどうおっしゃろうがおっしゃらなかろうが、この動的マンダラ伸縮モデルはそもそも「レヴィ=ストロース研究」ではない。まったくない。レヴィ=ストロース研究としては0点である。

ふと
「あなたは、私の著作のうち、私が引用した神話の部分だけを抜き出して孫引きして、私が議論を展開しているところはほとんどすっ飛ばしているでしょう。私の著作を単に厳選された神話のアーカイブとして使っているだけでしょう。」
という穏やかな声が聞こえてくるような気がする。
なにより神話を分析すること自体が、神話の異文を分離したり結合したりすることなのだ、といったことをレヴィ=ストロース氏はどこかに書かれていたはずである。願わくば、その一点で、この無作法な私淑者をもまた、野生の人間のひとりとして眺めてくださいますように。
